過去への救助

うたかた

第1話

 水中で必死に動かす両足が、底につかない。焦って水を飲んでしまった。体の自由が奪われていく。見上げると水面は明るい。風が強いのか。蜘蛛の巣のような光の線が、妖美に揺らめいている。

 動かない体が下降していくにつれて、闇がグラデーションを強めた。視界が黒く染められていく。そして、大塚仁美は気絶した。

 

 そんな悪夢で最近は目が覚める。四歳児を育てているストレスだろうか。一人息子の吉雄の育児に関して、仁美はもはや限界を感じるようになっていた。

 一歳の時は同い年の子に比べると、言葉を話すのが遅く心配だった。早く話せるようになって、何が不満なのか教えて欲しかった。しかし今や吉雄は、食事中に延々と仁美に話しかける。幼稚園の友人にも嘘のようにペラペラと喋っている。

 だが気に入らないことがあって理由を説明できない場合。

 長時間、泣いた。

 こちらが理屈を話しても、納得できないのだろう。一度など三時間も泣き続けたことがある。夫が夕食後に吉雄を風呂に入る際、上着を脱がせた。後から推測すると、本人はズボンから脱ぎたかったのだろう。それだけのことで、火が付いたように泣き始めた。

 足を幾度も床に打ちつける吉雄が落ち着くのを、夫は辛抱強く待ったがいつまでも泣き止まない。吉雄を抱きかかえて、ウロウロと家の中を歩いて一時間。食器洗いを終えた仁美が力尽きた夫と交代して、二時間なだめすかす。最後は二人で絶叫して、仁美も泣き出した。普段の吉雄は可愛くて仕方がないのだが、こんな時は赤ん坊に戻ってくれとすら思う。

 加えて、苦労して作った食事を小食の為、食べない。

 生まれついての浅い睡眠。それに付き合って、こちらも寝不足になる。様々な悩みがあった。

 近頃では、新聞やネットニュースで幼児の虐待死を見聞きすると、仁美は目をそらした。多少なりとも加害者の気持ちが分かってしまうからだ。自分がいつ実行する側になってもおかしくはない。

 しかし悪夢の内容からすると、心当たりはもう一つあった。昨年、認知症になった郷里の母だ。久しぶりの父からの電話はこうだった。

「仁美か。父さんだ。母さんが脳梗塞になった。十日間ほど医療センターに入院する」

 近くに住む弟が週末に実家へ行った時、母の呂律が回らないことに気が付いて、慌てて救急車を呼んだという。

 何故すぐに気が付かなかったのかと、仁美は父を責めた。脳梗塞で後遺症を残さないためには、発症後の四時間以内に血栓溶解剤を注射しないといけない。丸一日過ぎていた母は、身体機能に障害は残らなかったものの認知症となり、満足な受け答えができない人となった。


 仁美は九州行きの飛行機に乗り、父と弟と今後の対応を話し合った。

 役所から介護認定の申請書をもらい、主治医に記入してもらう。ケアマネージャーを付け、現状の相談。要介護レベルによる市の補助内容も調べた。

 父は自分で母の世話をしたいと言い、母も介護施設への入居に怯えたため、今も実家で二人で暮らしている。仁美は慌ただしく様々な処理を終えて、帰路の飛行機に搭乗した。その際に、ふと思った。


 母に『夏の終わりに、海で私を殺そうとしたのか』、聞きそびれた。


 しかも母が認知症になった今、仁美が今後、真相を知ることは難しいだろう。

 事件が起きたのは、仁美が幼稚園児だった時である。

 夏休み最終日に、家族三人で海へ行くことになった。

 実家から一番近い海水浴場は、車で一時間程だ。空気が停滞する暑苦しいマンションを離れて、海で涼めることに仁美は上機嫌だった。車内では父が子供番組の音楽を流してくれ、合唱などしていたという。到着後は皆で海辺のごつごつした岩礁を歩き、磯蟹などを探していた。あっという間に時間が過ぎていった。

「よし、海に入ろう」

 父が言って、三人で海に飛び込む。仁美は浮き輪を使って、ひたすら浮かんでいた。見上げる空はどこまでも広い。均一な淡い青色が、はるかに続いていた。いつまでも眺めていられる。

 しかし、飽きっぽい父はすぐに海からあがった。

 高校教師をしていた父は休日、顧問になっていたサッカー部の活動や合宿等で忙しかった。そのため仁美と遊ぶことは稀だった。

「まだ出るな、もっと一緒に泳げ」

 父の背に、仁美はそう文句を言った覚えがある。

 背を向けながら手を振る父が、視界から消える。

 母が浮き輪を仁美から勢いよく取り上げて、彼女の背中に腕を回した。そのまま、水中に潜った。父の代わりに遊んでくれるのだと仁美は初め喜んでいたが、母はなかなか解放してくれない。もがきながら水中で見た母の顔は口を一文字にし、何かに耐えているようだった。

 様子がおかしいと察した仁美は、あらん限りの力で手足をばたつかせた。すると母の腹部に足のかかとが強く当たった。きつく締められた腕がほどけて、仁美は水面から顔を出す。

 すぐに母も浮かんできたが、「冗談だった」とも言わない。使っていた浮き輪が親子から離れて、ぽつんと所在なく揺れる。少しして父が来た。ほどなく帰宅となったが、この件はその後、母との話題に上ることは無かった。

 父は仕事人間で、癇癪持ちの娘も手がかかる。祖父母に面倒を見てもらえなかったようだし、慌ただしく孤独な子育てで母はノイローゼだったかもしれない。――あれは、突発的な心中だったのではないだろうか。

 この出来事は、仁美の心に大きな波を起こした。時が過ぎてもそれは凪ぐことはなく、今でもふと出現して彼女を溺れさせようとした。太陽がいつまでも沈まないような気の重い夏は続いていた。

 

 吉雄の夏休み最終週。

 仁美たちは実家に行き、数日泊まった。父と母の様子を見に行くためもあった。

 実家に着くと母は、夫と吉雄の問いかけに時間はかかるものの、笑顔を見せていた。しかし返事はないので、意味は分かっていない。

 雨天が続き近所のショッピングモールくらいしか行けず、ようやく晴天の日が訪れた。仁美達は友人家族と一緒に、川へ遊びに行った。モールで買ったおもちゃで暇つぶしをしていた吉雄は、久しぶりに外遊びに行くことに興奮していた。

 友人がテントを広げて、子供達と川沿いで遊び始める。その後、彼らは近い年齢ごとに釣りをしたり、川虫を探したりした。

 吉雄が溺れたのは、川に流されたサンダルを取りに行ったからだった。

 仁美は少し離れたところで見ていたが、あっという間に息子の姿は水中へ消えた。仁美は慌てて、吉雄のいた辺りまで駆ける。 

 すると水底の岩苔で、足が滑った。さっきまで仁美の胸くらいだった水面が一挙に上がる。川はあっさりと全身を飲みこんだ。足を底につけようと必死になったが、どこまでもつかずに、体が落ちていく。両手で水をかいてもかいても、望む方向に進まない。

 何とか吉雄の体に手をかけることができた。だが、息が苦しくてたまらない。吉雄も苦しいのであれば、もはやこのまま諦めた方が楽になるのではないか。混乱した頭に様々な思いが去来する。

「……ふざけるな」

 こんな不意打ちの不運に押しつぶされてたまるか。両手で吉雄の腿を掴んで持ち上げる。なんとか水面上に彼の顔を出すことに成功した。彼が水を吐き出した感触が、仁美の手に伝わってきた。だが、仁美は気が遠くなっていく。

 

 川の底に仁美はいた。

 水着ではなく、半袖ティーシャツとスカートを着衣している。

 周囲は黒く塗りつぶされたキャンバスのようで、何も見えない。碇の鎖が巻き付けられているように体が重く、ぴくりとも四肢は動かない。――いつもの悪夢の続きなのだなと分かった。

 ひたすら凍えていく。

 体に寒さが染みこむ。

 このままでは死んでしまうとぼんやり思っていたら、誰かの手に掴まれた。すると重かった鎖がほどけていく。自由になった顔を動かし、両手を確認する。手のひらは小さく、両手は短い。ああ、これは【幼少期の私】だ。

 体が浮上していった。青くまぶしい水面に向かって。


 気が付くと、そこは病院のベッドだった。

 仁美の目に、蛍光灯の淡い光が飛び込んできた。『助かった』と安堵した途端に、体が震えだす。傍らに夫と吉雄がいた。

 吉雄は水面に顔を出した後、必死で声を絞り出して、父を呼んだそうだ。夫は浮き輪を吉雄に渡した。気絶している私を懸命に救い上げて、一緒に浮いていた。そして、助けを呼ぶ声を聞いた友人が救命ロープを投げてくれ、事なきを得たということらしい。

 仁美は母との事故を改めて考えてみた。

 人生なんて綱渡りだ。ちょっとした不運や偶然が風となり、綱から足を踏み外して台無しになる。皆も体勢を崩しそうになりながらも堪えているのだろう。

 虐待する親と私に大きな差はない。私はうまく誤魔化しながら、日々を乗り切っているのだ。母はあの後も私を育ててくれた。その事実だけで十分ではないか。

 不安そうな表情をしていた吉雄が、生気の戻った仁美の目を見て安心したのか、抱きついてきた。

 暖かい。

 仁美は吉雄を力強く、抱きしめ返した。

【幼少期の自分】を救助できたことで、ようやくあの長い夏が終わった。そう、仁美は感じた。

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