追放された奇跡を起こさない聖女は結界を持っていく——そして辺境で奇跡を見る

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追放された奇跡を起こさない聖女は結界を持っていく——そして辺境で奇跡を見る

 王都では、奇跡が起きない。


 人々は怪我をせず、疫病は流行らず、魔獣も外敵の侵入もない——王都の人々はそれを、王政府の善政のためと教え込まれ、「平和」と呼び、誰も疑わなかった。


 だから聖女エリシアは、いつも退屈そうに——人によっては怠惰に見えただろう。


 教会の救護院でも、治すべき重病人がいない。けが人が運び込まれない。

 大聖堂の礼拝堂にいても、口下手なエリシアは立派な説教をするでもなく、ただ祈る。そこに神秘的な光が発せられるわけでもない。


 エリシアは目立つのが嫌いだった。だから、自分のしていることを誰かに自慢するようなことも決してしなかった。

 だから、エリシアが多くの魔力マナを消費し、王都に結界を張っていることを誰も知らなかった。常に疲労し、活動的になれない彼女は、そうと知らない人々には退屈しているようにも見えただろう。


 ——目立てば、王族や貴族たちに嫌味や陰口を言われるだけだ。


 そう知っていたから、彼女は黙っていた。人々がただ平穏に過ごせるよう、丁寧に丁寧に聖女の仕事をしているつもりだった。それこそが聖女の仕事だと思っていた。


 ——その日までは。


 王城前広場は熱気で満ちていた。王族たち、貴族たち、聖職者たちに加え、多くの市井の人々が集まり、壇上の王太子レオンハルト・フォン・ヴァレンハイトを見上げている。

 誰もが期待していた。奇跡を。それも、「わかりやすい」奇跡を。


 王太子レオンハルトの隣には、公爵令嬢クローデリア・フォン・レーヴェンハルトがいた。作られたように整った顔立ちの女性だ。

 クローデリアが一歩前へ出て、澄んだ美しい声で告げる。


「皆様。本日、王国に新たな希望をお連れいたしました。真の『聖女』候補、リュシア・エーレンベルクです」


 観衆から大きな拍手が起きた。

 その音の一つ一つがエリシアの胸を押し潰そうとしているかのようだった。

 「真の」聖女、とクローデリアは言った。つまり、今の聖女——エリシアは偽物だとでも言うように。


 クローデリアの視線の先で、若い娘がゆっくりと頭を下げる。純白の法衣が揺れ、指先からまばゆい光を放った。

 歓声が上がる。


「おお!」


「これが聖女の奇跡の光……!」


 その光はエリシアの目を鋭く刺した。


「この奇跡の光には、治癒、浄化の効果があります」


 クローデリアが観衆に向かってそう言った。

 誰にでも「わかりやすい」目に見える奇跡だ。


 レオンハルトが満足そうに頷いた。


「素晴らしい。……そして、エリシア・ブランシェ」


 エリシアの名が呼ばれた瞬間、広場の空気が変わる。また別の期待が高まっているかのようだった。


——偽物の断罪への期待。


「おまえとは、ここで婚約を解消する。聖女の称号も返上してもらう。王都に留まることも許さん。追放だ!」


 観衆がざわめいた。「やっと無能な聖女が追放されたな」「税金泥棒は早く消えてしまえ」と言う声がエリシアの耳に入ってしまう。

 言い返す言葉はあった。説明も、証明も、いくらでもできた。けれど、そうすれば、この人たちはより激しく私を責めるだろう。

 悔しさと悲しさで目に涙が溜まる。だけど、涙は見せたくない。きっと、もっと笑い者にされてしまう。


 クローデリアが追い打ちをかける。


「ご安心ください。王都の守護は、新たな聖女、リュシアが担います。ですから——」


 レオンハルトがエリシアに向けて最後の言葉を添えた。


「荷物は全部持って出て行け」


 蔑むような笑いが混じった。

 エリシアは小さく息を吐いた。


 そして、左手の婚約指輪に触れる。ずっと居心地の悪い指輪だった。これから解放されると思うと、少し気分が軽くなった。


 エリシアは指輪を外した。


 指輪を掌に載せ、壇上のレオンハルトへ向けて差し出す。

 いつも通り控えめに、丁寧に言う。——大丈夫、声は震えない。


「承知しました。指輪はお返しします」


 王太子が勝ち誇ったように口の端を上げる。


 その瞬間、エリシアは続けた。


「——結界も、持って行きます」


 そのとき、広場に突風のような風が吹き込み、王都を包む空気が、わずかだが、誰もが分かる程度に温度を下げた。

 「ひっ」と悲鳴をあげる者もいた。


「……今のは、何だ」


 王太子の顔色が変わる。公爵令嬢の微笑みが一瞬だけ固まる。


 エリシアは静かに踵を返した。


——奇跡が起きない王都——それが、奇跡だったと気づくのは、たぶん、もう少し後のことになるだろう。


 エリシアは王城から離れていく。


 居心地の悪かった王都から離れることができるのだ。

 先ほどの悔しさは忘れ、今は解放感を覚えていた。


   ※


 エリシアは辺境のウィルクレストという貧しい村で生まれた。

 王国の辺境ということもあり、たびたび魔獣が侵入し、危険に晒されているような村ではあったが、人々の結束は強く、お互いを思いやる、温かい村だった。


 エリシアには仲の良い幼馴染がいた。名前をルカという。


 鍛冶屋の息子で、エリシアより少し背が高く、笑うと優しさは滲むような男だった。しかし、魔獣が出たと聞けば精悍な顔つきになり、真っ先に槍を持って駆けつけ、他の者を庇って戦い、誰かの家が壊されると、自分の仕事よりも優先して修繕を手伝う——そんな男だった。

 エリシアは成長とともに、ルカに対して友情以上の感情を持つようになった。ずっとルカと一緒にいたいと、自然に考えるようになった。


 ある日、王都の神官が村にやってきて、村の女性たちが集められた。

 神官たちは王国を回り、聖女の適性を測る祝福適性試験ブレス・テストを実施しているということだった。


 神官が、一人ずつ女性に水晶に手を当てさせていく。水晶は淡い光や、はっきりとした光を発していく。そしてエリシアの順番がきた。

 エリシアが水晶に手を触れると、今までとは比べものにならないほどの大きな眩い光を放ち、その光は村の端から端まで届いた。


 エリシアは聖女として認定された。認定された以上、王都に行かなければならなかった。王都に対する淡い憧れはあったが、ウィルクレスト村を離れることの寂しさと不安のほうがずっと大きかった。何よりも、ルカと離れ離れになることが辛かった。


 王都に出発する日、ルカも見送りに来た。

 エリシアは胸が張り裂けそうになった。


「エリシア……おまえは村の誇りだ。がんばれよ。……でも辛いことがあったらいつでも帰ってこい」


 その言葉は、王都に行ってからもずっとエリシアの胸に残り、支えとなった。


 別れ際、ルカは簡素な小さい木箱を差し出した。中には薄い硝子ガラスの欠片が入っていた——子供が遊びで使うような安物の硝子のようだった。


「あまり立派なものが渡せなくて申し訳ないけれど……俺が使える唯一の魔法で作ったんだ。しょうもない魔法なんだけど」


 ルカは照れたように頭を掻き、硝子の欠片をふっ、と吹いた。

 薄い光が瞬くと、村の外れの丘の景色が空中に浮かんだ。それは、たびたびルカと一緒に訪れた、丘の景色だった。私がその景色をとても好きなのを、ルカは知っていた。


「今の、何?」


「一秒だけ、俺が見たものを残せるんだ。景色とか、人の顔とか。何の役にも立たないんだけど」


 ルカは恥ずかしそうに笑った。


「もし、村が恋しくなったら、これを見るといい」


 エリシアは言葉に詰まった。

 聖女として王都に行って、簡単には戻ってこれないことはお互いわかっていた。場合によってはもう二度と帰ってはこれないかもしれなかった。だからルカはその景色をこの小さな硝子片に閉じ込めて渡してくれたのだ。


 後にエリシアが王都で魔法の勉強を始めると、そのルカの魔法が、「光の残響エコー・オブ・ライト」という初歩的な魔法であることを知る。


「魔法が使えるなんて、なんで教えてくれなかったの?」


 強がって、やっとそんな言葉を口にした。


「こんなの魔法とも言えないよ」


 ルカはそう言って、木箱の蓋を閉めた。

 その指先が、ほんの少しだけ震えていた。


 木箱を受け取ったエリシアの手も震えていた。


「じゃあ、またな」


「うん、またね」


 そうしてエリシアは村を去り、王都へと向かった。



 その後、王都で過ごした日々の中で、エリシアは何度もあの箱を開き、村の景色を眺め、ルカのことを想った。


 王都での生活にはずっと馴染めなかった。

 貧しい村の平民の出自であることを揶揄されることも多かった。


 聖女の肩書に惹かれ、婚約を求めてきた王太子レオンハルトの第一声は、「田舎から来たわりに、きれいではないか」だった。

 婚約など受けたくなかったが、無理やり婚約指輪を押し付けられ、既成事実とされた。


 王都を歩けば、「田舎で怠けていたに違いない」「辺境では教育も満足に受けられないらしい」と聞こえるように陰口を言われた。

 それでもウィルクレスト村を嫌いになることはなかった。村ではそんな陰口を言う者はいなかった。


 王都も王都の人々の好きではなかったが、王都を守ることが、村を守ることだと思って、結界の維持に努めた。

 ルカを始め、村の人々は「村の誇りだ」と言って、エリシアを送り出してくれた。聖女として最低限の努めをしなければ、本当に村の人々に恥をかかせることにもなりかねない。


 あるとき、大聖堂に礼拝に来た公爵令嬢クローデリアがエリシアをまっすぐ見て言った。


「おかしいわ。王都の大聖堂のはずなのに、泥臭い下品な臭いがするわね。……あら、聖女様は辺境の片田舎からいらしたんでしたかしら」


 エリシアは恥ずかしさと悔しさで顔を真っ赤にした。


「その田舎から来た私が王都を守っているんです」


 つい、クローデリアにそう言ってしまった。

 村を馬鹿にされたことが悔しくて、思わず口から出てしまったのだ。

 思えばあの口ごたえがクローデリアの逆鱗に触れてしまったのだろう。


 でもエリシアに後悔はなかった。こんな王都に留まる価値はない。


 王城前広場から追い出され、王都の城門へ向かいながら、エリシアの胸に浮かんだのは、たった一つの願いだった。


 ——帰ろう。


 ウィルクレスト村へ。


 奇跡が起きない王都ではなく、奇跡などなくても居心地のいいあの村へ。


 彼に、会いに。


   ※


 エリシアが王都を去った翌日、王都は何事もなかったかのように朝を迎えた。


 人々は昨日の冷たい突風を、冬の気まぐれだと笑った。新しい聖女リュシアは広場で眩い光を放ち、拍手と歓声を浴びた。——それは王都を暖かくする新しい太陽なのだと誰もが思っていた。


 だからこそ、最初の「綻び」は、あまりに些細で、誰も元聖女エリシアの追放によってもたらされたものだとは考えなかった。


 城門近くの修繕工事の最中に、足場が崩れた。


 縄が切れたわけではない。木が腐っていたわけでもない。

 ただ、釘がほんの少し緩み、板がほんの少しずれ、重心がほんの少し崩れただけだ。


 そこにたまたま通行人がおり、足場の支柱の丸太が肩にあたり、怪我を負った。


「聖女様を呼べ!」


 新聖女リュシアが駆けつけ、治癒の光で傷は塞がれ、骨はつながり、血は止まった。

 人々は安堵し、聖女の起こした奇跡にまた拍手した。


 だが拍手の陰で、一部の者たちの間で疑問が生まれる。


「……こんな事故、今まであったか?」


 その日の夕方、市場で火災が発生した。


 いつもなら、たとえ火の手が出ても、奇妙なほど燃え広がることはなく、湿った空気が鎮めていた。

 だがその日は風が乾いており、火は屋台の布に燃え移り、油壺に火の粉が回り、瞬く間に近隣の家屋にまで燃え広がった。


 リュシアの光が、火事で人々の火傷を癒していった。しかし、治癒が間に合わない者もおり、死者まで出てしまった。

 リュシアには、死者を生き返らせることも、焼けた屋台や家屋をもとに戻すこともできなかった。


 そして人々は気づく。新聖女の治癒は、何かが「起きた後」の奇跡なのだ、と。


 翌日、救護院に咳の子どもが溢れていた。

 その次の日、その咳が大人にも移った。熱も出て、寝込むようになり、仕事が止まり、店は閉められた。


「流行り風邪だ。すぐ治る」


 救護院の担当者たちは久しぶりの患者たちに狼狽えながらも、そう断言した。


 しかし王都の人々は、流行り風邪というものを知らなかった。知らないものに対し、人々は必要以上の恐怖を抱いた。


 大聖堂では、聖職者が叫ぶように説教を始めた。


「新たな聖女リュシアの光が、皆様をお守りくださる! 恐れることはありません!」


 そう説教する聖職者たちの顔には明らかに恐怖の色が見られた。聖女に近く、恐れなくていいはずの者が恐れを見せ始めたのだ。

 何かが壊れたのだと、人々がようやく気づき始めた。


 その「何か」が元聖女エリシアの結界だと誰も言えないまま、その後も不幸が積み重なっていった。


 夜道で転ぶ者が増えた。馬車が石に乗り上げて横転した。

 人々の喧嘩や暴力沙汰が増え、血が流れた。


 王都の人々や環境は何も変わっていないはずだった。

 変わっていないのに、「安全」という当たり前が少しずつ失われていた。そして誰も危険や危機に対応する方法を知らなかった。

 人々は薄氷の上を歩くような恐怖を感じていた。



 王都の「異変」を受け、王城で会議が開かれた。


「偶然が重なっているだけだ」


「聖女の光を見せれば民は落ち着く。儀式を増やせばいい」


「前の聖女が何かしたのではないか?」


 その言葉に、王太子レオンハルトが机を叩いた。


「エリシアを追放したせいだとでも言うのか!」そう言いかけて止まる。

 ——つい先日、エリシアは去り際に確かに言ったのだ。「結界も、持って行きます」と。


 レオンハルトに代わり、宰相であるジークフリートが発言した。


「聖女エリシアが去った途端、この『異変』が起きています。翻って思い返すと、エリシアが聖女として王都に招かれる以前は、災害も病気も傷害も当たり前のように発生していました。決して以前は『異変』として捉えられるようなことではなかったのです。あまりに王都の安定と平和が続きすぎて私たちはそのことを忘れておりました。しかし、もう認めざるを得ないでしょう」


「聖女エリシアが王都を守っていたということか……」


 誰からともなくそうした発言が出た。


「そんなバカなことはあり得ません!」


 レオンハルトの隣に座っていたクローデリア公爵令嬢が叫んだ。


「しかし……王都の混乱は、王都だけの問題ではありません。王都は王国の中心です。他の町や村にも混乱は波及しかねません。

 王都の瘴気が急激に濃度を増していると宮廷魔術師からの報告もありました」


「どういうことだ?」


 レオンハルトがジークフリートに尋ねた。


「魔物が出る可能性があります」


「何!?」


「瘴気は循環し、広がっていきます。王都から隣接する町へ。またその周囲の町や村、そして辺境にまで至るでしょう。最悪の場合、王国中に死者が溢れるでしょう」


 ジークフリートが話し終えた瞬間、会議の場が静まり返った。

 誰もが想像してしまったのだ。王都の『異変』が、王都だけで終わらないことを。王国中を巻き込み、王国の危機を引き起こすことを。


 その場の皆の視線が、王太子レオンハルトと、隣に座るクローデリア公爵令嬢に注がれる。この危機を引き起こした責任が誰にあるのか、責めるような視線だった。



 その夜、王都の南門付近に小さな魔獣が現れた。


 狼ほどの大きさで、牙は短い。辺境なら子どもでも知る程度の弱い魔獣だ。

 しかし、王都では、魔獣を見たことがない者も多かった。


 門番たちが青ざめ、槍を構え、鐘を鳴らす。

 王城に待機していた騎士も駆けつけ、魔獣は討たれた。

 それだけなら小さな事件で済んだはずだ。


 だが人々は見て、知ってしまった。


 魔獣が王都に侵入しうるということを。

 城壁が、王都の守りが、絶対ではないことを。


 翌日から噂が噂を呼んだ。


「外にもっといる」「城壁は脆い」「新しい聖女は結界も張れない偽物だ」「前の聖女の呪いだ」「王太子はなんて愚かなんだ」「いや、公爵令嬢のほうがもっと愚かだ」


 つい数日前まで断罪に熱を上げていた声が、今度は犯人探しのために膨らんでいく。

 いや、断罪の熱は数日前より高まっていた。ただ、矛先を変えて。


 王太子レオンハルトは苛立ちを隠せなくなった。


「……エリシアを連れ戻せ」


 クローデリアは不服そうな顔をした。


「人々の前で追放を宣言したのですよ。撤回すれば権威が……」


「権威? このまま王都が揺らげば、権威どころで済まんぞ」


 今さらながら、レオンハルトは痛感していた。

 権威などで守れていたものなど何もなかったのだと。

 王都を守っていたものは、目立たず、褒められもせず、理解もされぬまま、重ねられていた。——聖女エリシアの守護結界。


 そしてそれは、いなくなって初めて、どれだけ王都にとって、王国にとって重要なものであったかが痛いほどわかった。


 王城の外で人々の怒声が響き始めた。


「王太子を追放しろ!」「公爵令嬢を引き摺り出せ!」


 そこに宰相ジークフリートがやってきた。後ろには近衛兵を連れている。


「民衆が暴動を起こしました。この騒動を引き起こした罪人たちを裁かざるを得ません」


   ※


 ウィルクレスト村の入口に立った瞬間、エリシアは足を止めた。


 焦げたような匂いがしていた。それに獣の血が混じった匂い。


 村はそこにある。家々も、小さな教会も。エリシアがかつて生まれ育ち、よく知っている村に間違いなかった。

 しかし、村は静かすぎた。


 見張り台の下に、人が集まっていた。

 その人々の目は真っ赤で、泣き腫らしたようだった。


 見覚えのある老人がエリシアに気づき、前に出てきた。


 村長だった。

 エリシアが幼い頃から、ずっと村をまとめてきた男だ。彼女が村を発った日から、いくぶんか白髪が増え、背も少し丸くなっているように思えた。


「……エリシアか」


 よく知っている声だった。エリシアは間違いなく村に帰ってきたのだと思った。


 エリシアは頷いた。喉が固まったように声が出てこない。


「……ただいま」


 言えたのは、それだけだった。


 やっとそれを口にしたのに、誰も「おかえり」と返さない。


 村長は、目を伏せた。


「……遅かったな」


 その一言で、エリシアは理解してしまった。

 しかし、それを認めたくなかった。


「……何があったの?」


「魔獣がな、ここのところあまり出ていなかったのが急に現れ出して……村人がたくさんやられてしまった」


 村長は目を伏せたまま、そう答えた。


「……ルカは?」


 口が勝手に動いていた。聞きたくないのに。


 お願い。

 言わないで。


 村長は、ようやく顔を上げた。

 そして、ひどく小さな声で言った。


「……ルカは、死んだ」


 世界が音を失った。


「……うそ」


 そう言った声も自分の声のように聞こえなかった。


「ルカは村を守った。……最後まで、誰よりも前に立ってな」


 村長が続けた。その声は聞きたくないのに、聞こえてしまう。


「角獣が出たんだ。あんなの、今まで……」


 村人の男の一人が言った。


 女が、泣きながら子どもの頭を抱いた。


「この子が襲われそうになって……でも、ルカが……」


 わかっている。あの人はそういう人だ。でも……


「……どうして」


 どうして、私がいない間に。どうして、私が帰ると決めたその日に。


 エリシアはその場に崩れ落ち、地面に突っ伏した。


 そして、誰に憚ることもなく泣き、叫んだ。


   ※


 王都では、人々は恐慌に陥っていた。

 ただ怪我を負うことが、病を患うことが、魔獣が現れることが、以前であれば日常的に起こっていたことが、今の王都の人々にとってはあまりに恐ろしいことだった。


 怒号。悲鳴。

 石が飛び、窓が割れ、火が上がる。


「王太子を追放しろ!」


「公爵令嬢を引き摺り出せ!」


「本物の聖女を返せ!」


 数日前まで、エリシアを追いつめた口が、今度は王太子と公爵令嬢を責め立てた。

 断罪の熱は冷めない。矛先が変わっただけだ。


 王城内広間——裁定の場。

 宰相ジークフリートが、近衛兵を背に立っていた。


 王太子レオンハルトは青ざめた顔で、椅子に座っている。

 汗で髪が額に張り付いている。


「エリシアは……どこだ。やつさえ戻れば、すべて解決するはずだ」


 レオンハルトが問うが、ジークフリートは冷ややかな視線を送るだけだ。


 代わりに公爵令嬢クローデリアが、胸を張って主張する。


「民の機嫌を伺うのが王権ですか? 違うでしょう? その近衛兵たちに暴動を鎮圧させなさい。偽の聖女なんて要らないでしょう」


「偽の聖女とはリュシアという娘のことですか?」


 ジークフリートがクローデリアに問う。


「エリシアよ! リュシアは本物! あなただってあの娘の放つ光を見たでしょう?」


「光さえ見せれば本物だと? 見た目が派手であれば民衆が盲従すると言うのですね? それならば美しく着飾ったあなたも本物に違いない」


 ジークフリートの皮肉にも気づかず、クローデリアは大きく頷いた。


「では民衆の前に出て、説得してきていただけますか?」


「いいわ。ただ、念のため、あなたの兵士で守ってくださる?」


 そのクローデリアの依頼に、ジークフリートは首を振る。


「クローデリア様、王国の兵士はあなたを守るためにいるのではありません。王国の、民衆を守るためにいるのです。もしあなたが兵士をお連れになるのであれば、彼らはあなたではなく、民衆の側に立つでしょう」


 クローデリアが初めて狼狽える。


「つまり、あなたは王国の敵と見做されているのです」


「何をバカな……」


 その時、クローデリアの反論を遮るように、広間に使者が駆け込んだ。

 顔面は蒼白で、声が震えている。


「救護院が……人で溢れかえっています。怪我人も、病人も、殺到しています」



 救護院ではリュシアが人々の治癒をしていたが、魔力マナが枯渇し、治癒を中断せざるを得ない状況になっていた。


 彼女は「真の聖女」として祭り上げられたが、ただ光属性魔法が少し得意なただの治癒師だった。

 眩い光を出せる。それだけで人々は奇跡だともてはやした。自分は公爵令嬢に言われるがままにしただけだ。ただの治癒師では得られない、高額な給金と栄誉に釣られて。

 王都は平和すぎて、治癒の仕事がなかった。

 かと言って、辺境の田舎で細々と治癒するだけなど耐えられなかった。


 ——なぜこんなことになってしまったのだろう。


「聖女の奇跡はどうなった!」


「患者はまだ山ほどいるぞ!」


「夫が死んでしまう! 助けてください!」


 救護院の外から怒号や悲鳴が聞こえた。


 治したはずの者が、翌日また倒れる。

 治した者の隣で、別の者が倒れる。

 たった一人の治癒師がどうにかできる数ではない。


 リュシアの光は「起きた後」にしか届かない。それが罪であるはずがない。

 だが、今の王都が求めているのは何も「起こさない奇跡」だった。


 リュシアはなす術もなく耳を塞いで項垂れ、ただ魔力マナが回復するのを待つしかなかった。



「偽の聖女——ただの治癒師ができることなど限られています」


 王城広間のジークフリートは淡々と告げる。


「かと言って、一度追放した聖女を引き戻すのも、それこそ王権の信頼に関わる問題になります。それに、『何も起きない』平和甘んじることが正しいことかも疑問です」


「なぜだ……? 平和以上に求められるものがあるか?」


「『完全な平和』が危ういということです。聖女エリシアが戻れば、一時的には落ち着くでしょうが、それが失われたときの代償があまりに大きすぎます。

 そもそも彼女が王都に戻ってくるとも思いませんが」


「ではどうしろと言うんだ!」


 レオンハルトが苛立ちを隠せず怒鳴った。


「民衆を落ち着かせるには、王都が崩壊する前に『罪人』を示さなければならないでしょう」


「……誰を」


 レオンハルトの声は掠れていた。


 ジークフリートは、視線を逸らさない。


「……ここに連行された時点でお分かりでしょう?」


 静まり返る。


「そうよ、レオンハルト、あなたが責任を取るべきだわ!」


 「殿下」と呼ぶこともせず、クローデリアが喚き立てた。


「公爵令嬢クローデリア。あなたもだ」


 クローデリアが目を見開いて、ジークフリートを睨む。


「……私を? 私がなぜ罪人にされるのよ! 言いがかりもいい加減にしなさい」


「偽物の聖女を『真の聖女』だと騙したのはあなただ。『王都の守護は新たな聖女が担う』と。民はそれを信じ、安心してしまった。安心して、備えを捨て、被害が広がったのです。その責は、あるいはレオンハルト殿下よりも重いと言えます」


「だ、誰だって間違えることくらいあるじゃないのよ!」


「あなたのような立場の方が、ろくに検証もせずに『聖女』を偽ることがどれほど重い『責』となるかご理解いただいていないようですな。実際に、あなたのその間違えによって多数の死者まで出てしまっている状況なのです。たとえ我々が許しても、民衆は許さないでしょう」


 クローデリアは言い返そうとして、言葉が出なかった。

 彼女自身が、数日前まで「責」などという概念を、自分が負うことがあるなどと考えたことがなかった。それは自分が人に負わせるものでしかなかったのだ。


 レオンハルトが立ち上がった。


「待て。私は王太子だぞ! そうだ、父上がこんなことを許すはずがない」


「国王陛下の許可もすでに取っております。あなたを甘やかせすぎたことに反省するとも仰られておりました」


 兵士が槍を構え、わずかに前へ出た。

 それだけで、王太子の顔が恐怖で引き攣った。


 その程度で怯むほど、王太子の権威は薄かった。


 ジークフリートは判決を読み上げるように言う。


「王都の混乱を招いた責として、レオンハルト・フォン・ヴァレンハイトは王太子位を剥奪。王家の庇護から外し、王都から追放。

 クローデリア・フォン・レーヴェンハルトは公爵家の権限を停止、身柄を拘束し、公的裁判へ」


 クローデリアが叫ぶ。


「ふざけないで! 私は……」


 言い終える前に、怒号が遮った。


「引き摺り出せ!」


「罪人を出せ! 四肢を引き裂いてやる!」


 レオンハルトは、膝が抜けるように椅子へ崩れ落ちた。


 クローデリアは、最後まで自分が「責」を負う、ということが信じられなかった。

 まるで悪夢を見ているかのように震えた。

 自分が「裁かれる側」に回るなどということが現実であるとは思えなかった。


   ※


 やがて王都の門が開いた。


 元王太子レオンハルトは粗末な外套を着せられ、兵士に挟まれて歩いた。

 民衆は石を投げ、唾を吐いた。


「平和を捨てた愚か者が!」


「聖女を返せ!」


 レオンハルトは何も言い返さず、ただ震えていた。

 言い返せば、本当に民衆に殺されるのではないかと思った。


 彼は、最後に一度だけ王都を振り返った。


 自分は国王になるはずだった。誰もが自分の言うことにただ従った。自分の思い通りにならないことなどがあるとは疑いもしなかった。


 レオンハルトの末路は、辺境だった。

 魔獣の侵攻に遭う辺境で、兵士として槍を握ることになった。王都で自分に殺意を向けていた民衆が魔獣になっただけで、悪夢がまだ続いているかのようだった。

 王国の果てで、日々命を懸けて生き続け、あるいは死んでいく人々がいること信じられなかった。


 しかし、そうした人々にも帰るべき場所があり、迎え入れてくれる家族や恋人、友人がいた。

 レオンハルトにはそれがなかった。


 それが、彼にとっての一番の罰だった。



 クローデリアは裁かれ、爵位は剥奪、財産も没収された。


 彼女は牢ではなく、小さな修道院に入れられ、民衆への奉仕と救護院での勤めを言い渡された。

 そこで、彼女は初めて贅沢のない、狭い家での平民の暮らしを知った。


 だが最後まで彼女は言った。


「私は、下賎な平民とは違う」


 平民の暮らしはクローデリアには耐え難く、言葉だけで自分を保つしかなかった。



 リュシアは救護院に残り、光を出し続けた。

 拍手も喝采もない。人々を欺いた罰として、毎日魔力マナが枯渇するまで休みなく、ただただ治癒を行った。


 彼女は自分が聖女などではないことを痛いほど理解していた。自分のせいで本物の聖女が追放され、多くの痛みが生じたことを認識していた。

 それでも自分は治癒師として為すべきことがある。ほとんどの者は憎々しげに治癒を受けたが、中には感謝してくれる者もいた。


 その小さな感謝が支えとなり、自分を憎む者を治癒することが贖いになった。


   ※


 泣き疲れたエリシアは濡れた頬を袖で拭いもしないまま、顔を上げた。


「……ルカは、どこに?」


 村長はエリシアを見て頷いた。


「案内しよう」


 焦げと獣の血の匂いは薄れず、風が吹くたびに鼻の奥に残った。


 村の外れの、柵が壊れた場所があった。

 そこに土が盛られていた。


 盛り土の前に、槍が一本立てられていた。


 村長が、ぽつりと告げる。


「子供を庇ったときに角獣の角が胸に刺さってな、あいつそのまま角を折ったんだ」


「……折った?」


 村長は頷く。


「……死の間際に、力を振り絞って角を折って、角獣は怯んで逃げた。村を命を懸けて守ろうと思ったんだろう」


 村長の声が震えていた。


「エリシア……ルカはおまえのことをずっと気にかけておった。おまえの帰る場所を何としても守りたいと思っていたのだ」


 エリシアは膝から崩れた。


「……私が……私が、ここにいたら」


 村長が首を振った。


「おまえが悪いんじゃない」


 ——悪い者がいないのに、ルカがこんな目に遭うはずがない。


 エリシアは盛り土を見つめ、「ごめんなさい」と何度もルカに謝った。


   ※


「村に結界を張ります」


 エリシアは村長に申し出た。


「結界?」


「聖女の結界です。魔獣も寄せ付けないし、怪我や病気からも守る結界です」


 村長は少し考えて言った。


「いや、その結界は村には必要ない」


「え?」


 ——なぜ? ルカがせっかく命を懸けて守ってくれた村をこれ以上傷つけられたくないのに。


「おまえ一人にばかり負担をかけるようなことはできん。それに、死を遠ざけるような結界は、人々から命の手触りを忘れさせてしまうだろう。

 心配するな。村の者らはそんなに弱くない。皆で力を合わせれば何とかなる」


 ——ああ、そうだ。ここはそういう村だった。皆が役割を持って、お互いを思いやって助け合う。ルカもそうだった。だからこの村が、ルカが好きだったのだ。


   ※


 すっかり日が落ち、エリシアが自宅に戻ると、エリシアが王都から戻ったことを聞きつけたのか、ルカの母親が待っていた。


「ルカはあなたのことをずっと気にしていたのよ」


 そう言って、小さな木箱をエリシアに差し出した。


 エリシアは箱を手に取った。蓋を開ける指が震えた。


 中には、薄い硝子の欠片が何枚も収められていた。


 「光の残響エコー・オブ・ライト」——ルカが笑って、「しょうもない」と言った、あの魔法で作った欠片だ。


 エリシアは欠片の一片を掌にのせた。


「……ルカ」


 呼んでも返事はない。


 エリシアは硝子に息を吹きかけた。


 薄い光が、ふわりと立ち上がった。


 一秒だけ、多くの花が開いた春の丘が浮かぶ。


 次の一枚に息を吹きかける。


 一秒だけ、紅葉した秋の丘が浮かぶ。


 次の一枚。


 一秒だけ、丘から見た夜空に無数の星が煌めいた。



 村に帰ってきて、初めてエリシアは笑った。


 ——丘が好きだって言ったからって、本当に丘ばかりじゃないの。

 ルカらしい、と思った。私を喜ばせようと、私の好きな丘の風景をいくつも残してくれていたんだ。帰ってくるかどうかもわからない私のために。


 その他の欠片にも、いくつもの丘の風景が続いた。


 最後の一枚——エリシアは息を吹きかける。


 映し出されたのは、丘の上で、満面の笑みを浮かべたエリシアだった。


 自分とは思えないくらい、幸せそうな笑顔だった。


 ——ルカの目には、私はこんなにも素敵な女性に見えていたのだろうか。


 そのエリシアの瞳には、ルカが映っていた。



 それは些細だけれど、エリシアに与えられたとても大切な奇跡のように思えた。


 エリシアは硝子片を胸にしまい、空を見上げた。

 星が綺麗だった。


「……また会えるよね」


 言葉は風に溶けた。

 返事はない。


 それでもエリシアには帰る場所——ルカが命を懸けて守ってくれた場所があるのだ。

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追放された奇跡を起こさない聖女は結界を持っていく——そして辺境で奇跡を見る Vou @Vouvou21

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