刻印なき世界で、名を呼べ
塩塚 和人
第1話 灰の街の少年
灰は、
朝も夜も区別なく空から降っていた。
それは雨ではない。
燃え尽きた文明の残り滓が、
空気に溶けきれず落ちてくるだけだ。
灰の居住区――
アッシュレインでは、
それが日常だった。
ラグ・フェインは、
崩れかけた建物の影で目を覚ました。
背中に感じる冷たさで、
夜明けが近いとわかる。
硬い地面。
湿った空気。
鼻を刺す鉄と煤の匂い。
今日も、生きている。
それだけで、
ここでは十分だった。
ラグはゆっくりと上体を起こし、
腕を伸ばす。
手首にも、
肩にも、
胸元にも――
刻印は、ない。
それが、
彼のすべてだった。
刻印能力。
この世界で生きる者すべてが、
その有無で価値を決められる。
刻印を持つ者は、
都市に住み、
食事に困らず、
名前を誇りとして呼ばれる。
刻印を持たぬ者は、
灰の中で働き、
数字で管理され、
声を上げる権利すらない。
だがラグには、
名前があった。
それは珍しいことだった。
母がいた頃、
まだ彼が幼かった頃、
彼女は言った。
「あなたはラグよ。
誰に何と言われても、
それは変わらない」
母は、
数年後に灰の崩落事故で死んだ。
その日から、
名前は重りになった。
呼ばれるたびに、
周囲の視線が刺さる。
無刻印者のくせに。
名を持つなど、生意気だ。
そんな言葉を、
何度も浴びた。
ラグは立ち上がり、
簡易工具を腰に下げる。
今日は遺跡調査の仕事だ。
ヴァル=クロウ跡地。
旧文明の中心都市だった場所。
危険だが、
報酬はいい。
刻印者が近寄らない場所ほど、
無刻印者に仕事が回る。
それが、この世界の仕組みだ。
瓦礫の道を歩く途中、
検問所の前で呼び止められる。
「おい。
止まれ」
声の主は刻印者だった。
腕に浮かぶ紋様が、
淡く光っている。
ラグは足を止め、
目を伏せる。
「行き先は」
「遺跡調査です」
「証明は」
ラグは布切れのような通行証を差し出す。
刻印者は鼻で笑った。
「無刻印か。
よく死なずに行くな」
返された通行証を受け取り、
ラグは何も言わず歩き出す。
反論は、
ここでは贅沢だ。
遺跡の入口で、
一人の少女が待っていた。
灰色の世界には似合わない、
明るい声。
「あなたが今日の相棒?」
イーラ・ノクス。
刻印者だ。
額に刻まれた紋様が、
視界拡張の証。
「よろしくね、ラグ」
名前を、
自然に呼ばれた。
それだけで、
胸の奥が少し痛んだ。
遺跡の内部は暗く、
崩れた壁が迷路のように続く。
イーラは迷いなく進む。
「ここ、
左に崩落があるから注意して」
彼女の能力が、
見えない危険を捉えている。
ラグは黙って従った。
その奥で、
事件は起きた。
天井が、
音もなく崩れたのだ。
反射的に、
ラグはイーラを突き飛ばす。
瓦礫が背中を打ち、
激痛が走る。
その瞬間。
視界が、
歪んだ。
目の前の世界が、
灰色から色を取り戻す。
理解できない感覚。
他人の視界が、
流れ込んでくる。
「……え?」
イーラの声が遠い。
ラグの胸に、
焼けるような痛みが走った。
そして――
刻印が、
浮かび上がった。
それは、
奪われた紋様だった。
灰の街で、
名もなき少年が、
初めて世界を壊す力を得た瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます