この世界から脱出せよ
温いソーダ
第1話
多分、いつも通りの日々。
俺、青木はパソコンから放たれる青白いライトを顔に受けながら天井を見上げる。
学校があって、部活があって、たまに誰かの怒号と楽しげな声が聞こえてくる、極々普通な日常のはずなのに。
何かがおかしい。それはただの違和感という小さなものであり、不穏の前触れという大きなもののようにも感じた。
小鳥の囀り、木々の擦れる音、足音、生徒の声、自分の声までもが紛い物のような、そんな変な感覚。
きっと何かの勘違いで、きっと何かの前触れだ。
「青木、また遊ぼう。今何してるの?」
面倒な奴が来た。
その面倒な奴は俺のメガネを取って俺の顔を見てから、ニヤニヤと意地悪な表情を浮かべて大変楽しそうにしている。わざとらしく屈んでいるのも苛立たしい。
「何かあった?元々の酷い顔が更に酷くなってるぞ」
「…田中。なんか用か?なんかあるんだったら早く言って」
「え、青木なんかあった?いつもなら『うるさいなぁ!そんな事どうでもいいだろ!』とか言うのに!」
言外に「つまらない!」という意味があるように感じ、不愉快に感じたがこれでこそ田中だとも思った。
「なんでもない。んなことよりなんかあって来たんじゃないのかよ」
「先輩が青木が最近変に落ち込んでておもしろいって言ってたから来ただけだけど」
「じゃあ帰れ」
「相変わらず冷たいな。もっと楽しもうぜ」
その他にも文句を言い続ける田中を完全に無視して席を立ち、外へと向かう。特に理由なんかはない。なんとなく外に行きたくなったからだ。
田中も後ろで何かを言いながら付いてきた。本当に面倒な奴だ。
「てか、青木めっちゃ勉強してるし、少しくらい休んでもいいんじゃない?体調崩しやすいんだしさ」
「んー。まぁ確かに最近ずっとやってるし、少しくらい外出てもいいかもな。ただお前と遊ぶつもりはないからな?」
「ちぇ」
図星だったのか顔を歪ませて悔しそうな顔をする。
「てか、そろそろ野球部の練習始まる時間だぞ。早く行かないと怒られるんじゃないか?キャプテン」
「え、お前なんで俺がキャプテンって知ってんの?言ったっけ?」
驚いた顔の田中になんでか思い返してみるが全然思い出せない。多分教室でそんな噂を聞いたんだろう。
「んー。まぁ頑張ってこい」
「おう!来年の甲子園は決勝まで行ってやる!」
「それずっと言ってるけどさ、うちの高校毎回県大会予選敗退だろ」
入学当時から田中がずっと言っている言葉だ。野球をずっとやり込んでいる田中にとってそれは人生を賭けた夢と同じだ。
呆れるが諦めない田中の姿はまさしく青春を謳歌する学生だ。こういう奴がきっと社会でも成功していくんだろうなと思う。
「今日さ、部活終わりに勉強教えてくれたりしない?今回のテストもピンチなんだよね…頼む!」
「いいけど…ジュース奢れよ」
「任せろ!いつもと同じくコーラだよな!」
部室の扉に手をかけたと思ったら田中が振り返る。今は二年生の二学期。期末テストの三週間前だ。
そろそろ受験も意識してテストの点数が命取りになってくるような頃。田中も例外なく野球をやりながら勉強にも力を入れていた。
しかし俺は勉強こそしっかりやるものの部活はなんとなく。パソコン部と言ったって部室に来るのは俺だけだし顧問も来ないからゲームをしている。
バレなければここは楽園だ。
いつもと同じようにスマホで動画を見たり、ゲームをして最終下校時間までダラダラ過ごす。
吹奏楽の音色や校庭に響く運動部の声が遠く彼方から聞こえてきた。
今日はなかったものの明日にはまた塾に行かなきゃいけない。親はいつもうるさく言ってくるのだ。
少し温くなったジュースを口に注ぐ。あまり美味しいとは言えなかった。
「あー、課題あるわ。めんどくせー」
天井を仰いでスマホから目を逸らす。やたら新しい電灯は痛いくらい眩しかった。
気づけば日も傾いて薄暗くなってきた。時計を見ればそろそろ下校時間だった。
やたらと重いリュックを持って、田中のいるであろう校庭へと向かう。今は九月中旬だというのに昼の温度は三十度を下らなかった。
「やっと終わった!何やっても空回りって感じで疲れたわ」
「先輩たちが引退したこともあって大変そうだよな」
「そうなんだよね。先輩ってマジすごかったんだなーって」
汗や土で汚れた田中にさっき買った水を差し出す。こんな中で熱中症になられたら困るというのもあるが、何より目覚めが悪い。
「助かるー!丁度さっき水切れたんだよね」
「熱中症になるぞ」
「適度に休憩してるから大丈夫だよ。マネージャーが塩分タブレットとお茶常備してるし」
お互い床に置いていた重そうなリュックを肩にかけて歩き始める。
「マジ青木には本当に世話になってるわ。テスト勉強もお願いします!」
「いいけど…お前って昔からずっと変わらないよな。野球は十年くらい続けてるくせに勉強は全然続かないし」
「人には得手不得手があるんだよ」
「まぁいいや。いつものカフェでいい?」
いつも通り学校前の信号で待っている間に上を見上げて田中の顔を見る。オッケーというマークを手で表現してきた。
この高校の近くにカフェがある。コーヒーの香りが漂っていて、苦手な人を寄せ付けない不思議な雰囲気を纏っていた。
カフェの外装はヨーロッパを感じさせる煉瓦造りで、緑の窓枠が特徴的だった。
入店すると初めに感じるのは暖かな光とコーヒーの芳醇な香り。そして小気味のいいベルの音だった。
「おじさーん!いつも通りメロンソーダ!」
「じゃあ俺はアイスコーヒーで」
いつも通りあまり人のいない空間だったが、店主はいつも通りコップを磨いていた。
角の二人席に座ってすぐに店主がメロンソーダとアイスコーヒーを持ってきてくれる。中学生の頃から馴染みのお店なので家の次に落ち着く場所だった。
「はいよ。そろそろテスト期間かい?」
「そうなんです。いつもお世話になってます」
座りながら会釈すると店主は微笑んでからまたカウンター奥に戻っていった。
「というわけで青木様ー!俺に日本史と英語と古典と現代文をお教え願います!」
「俺のテスト勉強のついでだけどな。てか、お前日本史は得意だろ」
「まぁ、なんとなく?」
「クソッ、才能で勉強できるやつはこれだから…」
教科書をペラペラめくりながら爪を噛む。田中はこうやっていつも俺よりやっていないのに、特定の教科では俺を追い抜かしていくのだ。
「青木大丈夫か?マイナスモード入った?」
「入ってない!英語やるぞ、英語!」
英単語帳と教科書を鞄から取り出して今回の範囲を広げる。田中の教科書が綺麗なのに対し、俺のはボロボロだった。
「先生!俺この英文のstatementがわかりません!」
「嘘だろ?単語帳の一番初めのセクションだぞ?」
「俺が英単語帳を読んだことがあるとでも?」
俺にもわかるほどのドヤ顔で誇ってくる田中の顔に拳を入れたくなった。それを察してか田中は目を逸らした。
昔からこうやって勉強していたからか前にもこんなやりとりをしたような、そんな既視感を感じた。
「お前最悪の教え子すぎるだろ。だからテストで下から八番目みたいな順位取るんだよ」
「逆にこんな俺の下に七人いる方が驚きじゃない?」
「ドヤ顔するな。勉強しろ」
そんな殺伐としながら和気藹々と勉強をしていると気がつけば八時半。俺の門限は九時なので帰らなければいけない時間帯だ。
「やばい、もう八時だわ。親に怒られる」
「お前の母ちゃん異様に厳しいもんな。小学校の頃門限四時半って聞いた時は流石にビックリしたわ」
代金を払って店を出る。空はすでに真っ黒だった。
街灯が俺と田中の影を作り出していた。夕飯にはもう遅い時間帯だが、カレーや焼き魚の匂いが漂っていた。
「なぁ」
田中の声。さっきとは打って変わって寂しそうな、悲哀に満ちた声。
「また会いたいよ」
「は?何言ってるんだ?今会ってるだ…ろ…」
俺が言葉を言い切る前に目の前にいた田中は、まるで初めからそこにいなかったかのように姿を消した。
おかしい。絶対におかしい。
そもそも人が突然消えるなんてあるわけないのだ。ましてあの不思議な言葉。また会いたい?何を言っているんだ。さっきまでいたのに?
「ねぇ、この世界っておかしいと思わない?」
「ふへっ」
考え事をして立ち止まっている最中に声をかけられ素っ頓狂な声が出てしまう。不意に掛けられた声はどこか機械音のようで、音も割れている。不思議な声だった。
「ど、どこ。それとも何か仕掛けられてるのか?」
目の前から声をかけられたようだが、俺の視界には誰もいない。薄寒いものを感じつつ左右を見渡した瞬間、その声の主が吹き出した。
「あっはっは!何やってるのさ、上だよ。上!」
「上…?でもそんなん無理だろ、壁に張り付いてんのか…?」
俺が言い切ったときに言われた通り上を向くとそこには信じられないものが写っていた。どう考えても羽の生えた天使。茶髪の少女だった。
「え…?飛んでる。それどうなってんだよ。てか、お前誰?」
「私は天使!高潔で選ばれし神の遣いだよ!」
「は、はぁ…それでそんな天使サマが一体どんなご用件で?さっさと済ませて帰りやがれ」
天使とか悪魔とか神とか、変なものに関わると大抵面倒なことが起こるのだ。さっさと帰って欲しい。
「初対面の、それも天使に向かってする発言じゃないね!」
「面倒ごとは嫌いなんだ。あと前置きが長いのも嫌いだ」
「じゃあ早速本題に入ろうか」
目の前の天使は重要なことを言うぞと知らせるかのように一拍置き、瞬きをする。
「青木はこの世界っておかしいと思わない?思うよね!実際この世界はおかしいんだ」
「まぁ、思いますけど。具体的にどこがおかしいんですかね」
「そうだね。この世界は全て君の中にある。現実の君は今長い眠りについているよ。九ヶ月くらいかな?」
「そんな、じゃあ仕事は!?って仕事…?」
知らない記憶と知らない感覚が胸と頭を支配していく。頭の割れるような痛みが全身に染み渡っていく。
「田中、が…あ?」
「だんだんと思い出してきたみたいだね。でも、まだ完全じゃない」
天使がさらに小さくなって俺の肩に乗る。羽や天使の輪っかも今は愛らしい姿になっていた。
「全部思い出してこの世界から脱出するんだ!」
俺の肩に乗って目の前を指差し、「しゅっぱーつ!」なんて言う天使を横目にうずくまる。なんでこんなにこいつは陽気なんだ。
「脱出する方法なんてあるのか?」
「それは君が知っているはずだよ」
暫くして苦しみが引いたので立ち上がり、天使の指差す方向に進む。天使は微笑んで上目遣いをしてきた。
結局天使の指差す方向は自宅。自室に入ってから椅子に座り込んで天井を見上げた。
「どういうことだよ。何か知っていたら既にやってるだろ」
「いーや!絶対に知ってるね。忘れようとしているだけだよ」
天使は含み笑いで返してきた。こういう奴が俺は一番嫌いだ。
部屋から見える橙色の空を眺めつつ、俺はどこか焦燥感に駆られていた。
消毒臭い病院のロビーで看護師とすれ違い、顔見知りの医者と目が合う。
ここ最近よく会う青木の主治医だ。
「先生、その…青木の容体はどうなんですか?」
「生きてはいるけれど、目は覚めそうにない。植物状態だね」
「…そうですか。なんかあったら知らせてください。また来ます」
「せめて顔だけでも見ていったら?せっかく来たんだしさ」
「そう、ですね。顔だけでも見ていきます」
一言だけそう医者に伝え、事務室から病室へと向かう。彼が入院している一室へ。
彼の名前を見つけ、その病室に入る。
そこには俺の知る青木と全く変わらぬ姿で眠っている彼がいた。
ある日、彼が交通事故に遭った。スピード違反の車に轢かれたらしい。幸いにも一命は取り留めたものの全く動かず、一か月、二ヶ月、ついには半年経っても目が覚めることはなかった。
植物状態。聞いたことはあったものの、実際に知人がこうなってしまうと何も考えられなくなるものである。
青木が植物状態になったきっかけはわかっていない。精神的な疲労が原因であろうと医者は言っていたが、どうやったら起きるのかは全くわからない。
「青木、また遊ぼう。今何してるの?」
多分聞こえていないだろうけど、訊きたくなった。どうせ答えなんて返ってこないのに。
「なぁ、また会いたいよ」
そんな願望は病室の中で木霊し、やがて消え去った。
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