エピローグ
「……おい、佐藤! 欲張るんじゃねえ、腰を入れろ。土を殺す気か!」
田中の怒鳴り声が、春の陽光が降り注ぐ斜面に響き渡った。 雪解けが進んだむつみの土壌は、驚くほど黒く、そして温かい。佐藤は膝をつき、移植ごてで慎重に土を掘り返した。その瞬間、指先にヌルリとした、しかし力強い生命の感触が伝わる。
「うわっ、また出た! 田中さん、見てくださいよ、この太さ!」
佐藤が掲げたのは、赤ん坊の指ほどもある、丸々と太ったミミズだ。黒々とした土を全身に纏い、力強くのたうっている。 「へっ、いい土の証拠だ。こいつらが土を耕し、俺たちの明日を作ってくれる。東京のプランターにいたような貧弱なミミズとはワケが違うぜ。この地の神様みたいなもんだ、大事にしろよ」
佐藤は、そのミミズを丁寧に戻すと、鼻をくすぐる「土の匂い」に目を細めた。 それは、埃と排気ガスにまみれた新宿の路地裏では、逆立ちしても嗅ぐことのできない匂いだった。湿った腐葉土が発酵し、新しい命を育もうとする、濃厚で甘やかな大地の吐息。
「……幸せだなぁ」 独り言が漏れた。 「あ? 何か言ったか、佐藤さん」 「いえ。……ただ、土がこんなに温かいなんて、知らなかったなと思って」
「当たり前だろ。俺たちは今まで、コンクリートっていう死んだ石の上で生きてたんだからよ」 田中が笑い、手拭いで汗を拭った。
そこへ、坂の下からカイが大きな声を出しながら駆け上がってきた。その手には、ずっしりと重そうな発泡スチロールの箱が抱えられている。
「皆さん! 嘉平さんが『浜の方から届いたぞ』って! 今朝揚がったばかりのやつです!」
作業をしていた全員が、吸い寄せられるように集まった。 蓋を開けた瞬間、パッと視界が輝いた。砕かれた氷の隙間から、青銀色の鱗をギラつかせた巨大な鯖(さば)と、黄金色に輝くほど脂の乗った鰺(あじ)が顔を出していた。
「……うわぁ、綺麗だ……」 レンが、宝石を見るような目をして呟いた。 「カイ、すぐ捌(さば)くぞ! 杉本さん、温室の横で火を熾(おこ)してくれ!」
トメが手際よく鰺を三枚に下ろしていく。包丁が身に入るたび、サラリとした透明な脂が刃先に絡みついた。 佐藤は、焼き網の上で脂を滴らせる鯖を見つめた。 ジュッ、という音が鳴るたびに、香ばしい煙が立ち上る。青魚特有の力強い香りが、春の風に乗って鼻を抜けた。
「さあ、食え! 冷めないうちに!」
佐藤は、焼き立ての鯖の身を箸で割り、口に運んだ。 ――瞬間、言葉を失った。 熱い脂が舌の上で弾け、濃厚な旨味が喉の奥まで濁流のように流れ込んでくる。身はふっくらと柔らかく、噛み締めるたびに「海」そのものの生命力が、佐藤の枯れ果てていた細胞に火を灯していく。
「……っ、ん、んまい! なんだこれ、めちゃくちゃ美味しい!」
隣ではレンが、鰺のたたきを口いっぱいに頬張り、頬を膨らませて涙ぐんでいた。 「……生きててよかったー! 神様、俺、生きててよかったです!」
レンの叫びが、むつみの空に抜けていった。 それは、死ぬためにここへ来た若者の、本物の再出発の産声だった。
「わはは! 魚一匹で大騒ぎしやがって。だが、そうだろう、そうだろう。これが本物の『食べ物』ってやつだ」 田中が満足げに笑い、酒代わりに沸かした番茶を飲み干した。
食後、一行は丘の上に座り込み、静かな時間を過ごした。 風が止み、周囲に不思議な静寂が訪れる。
「……聞いてごらん、佐藤さん」 杉本が、目を閉じて囁いた。
耳を澄ませると、遠くの森から響く木々のざわめき、雪解け水が岩を噛む音、そして、空のずっと高いところから聞こえる、澄み渡った空気の振動のような音が聞こえてきた。 それは、かつて修行者たちが「天籟(てんらい)」と呼んだ、宇宙が奏でる自然の音楽だった。
「天の笛の音、か……」 大河内が、感極まったように呟いた。 「東京の会議室では、常に誰かの声や、機械のノイズに追い立てられていた。……でも、ここには、魂を洗ってくれるような音しかない」
佐藤は、深く、深く息を吸い込んだ。 肺の隅々にまで、浄化された空気が行き渡る。 かつては、独りで死ぬことを「自由」だと思い込もうとしていた。 でも、今は違う。 仲間と旨い魚を分け合い、太ったミミズに感謝し、天の音を聞きながら、ただそこに在ること。
「……生まれてきて、よかった」 佐藤は、掌で温かい土を撫でながら、静かに、でも確かな声で言った。 「黒木さんたちには、一生わからないだろうな。この、何も持たない俺たちが、今、世界で一番贅沢なスローライフを送ってるなんて」
「ああ。あいつらは数字を食ってろ。俺たちは、この風と、魚と、フキノトウを食って、百歳まで生きてやろうじゃないか」
トメが笑い、皆がそれに応えるように笑い声を上げた。 その笑い声は、むつみの山々に吸い込まれ、新たな春の音色となって、どこまでも広がっていった。
孤独死予定者の逆襲は終わった。 ここから始まるのは、命ある限りこの地を愛し、天籟を友とする、誇り高き「住人」たちの物語だ。
空には、数羽の鷹が悠々と輪を描いていた。 佐藤たちは、その自由な姿を、ただ、いつまでも見つめていた。
(完)
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