秘密人間卍卍

縷々

第1話 秘密人間卍卍



卍寺の朝は、だいたい騒がしい。


「おーい、万次郎! 起きろ! 朝だぞ!」


障子の向こうから飛んでくる親父の声で、俺は布団の中で顔をしかめた。


「うるせぇハゲ! 今日もうぜぇくらい元気だな……」


「誰がハゲだ誰が!」


そのやり取りを聞きながら、俺はゆっくりと体を起こす。

目覚めは最悪だが、これも日常だ。


次の瞬間、どさり、と重みが乗った。


「お兄ちゃん♡ おはよ〜♡」


妹の小雪が、当然のように布団に飛び込んできていた。


「……ぶりっ子すぎだろ」

「ぶりっ子じゃないもん! お兄ちゃんのためだもん♡」


頬を膨らませて言うその顔は、確かにあざとい。

だが、まあ。


「まあ……そうだな。お前はそのままで居てくれ」


自分でも驚くくらい、素直な言葉が出た。

小雪は一瞬きょとんとしてから、満足そうに笑う。


「うん♡」


……ちょろい。


布団を抜け出し、制服に着替える。

鏡の前でネクタイを締めながら、俺は自分の顔を見る。


相変わらず眠そうで、気怠げで、愛想もない。

だが、この顔の奥には――誰にも見せないものが詰まっている。


廊下に出た瞬間、階段の上から声が降ってきた。


「おう、万次郎! 今日の兄は……どうだ?」


兄の一郎が、無駄にキメた顔でこちらを見下ろしている。


「……」

「どうだ? 今日は特に仕上がってるだろ?」


俺は白い目で一言。


「顔はいいのにな……顔は」


「ひどくない!?」


いや、事実だ。


気怠げに階段を降り、ダイニングへ向かう。

味噌の匂いが漂ってきた。


「万次郎、朝ごはんよ。味噌汁冷めちゃうわよ」


母が穏やかな笑顔でお椀を差し出してくる。


「……めんどくせぇな」

「はいはい」


母は気にする様子もなく、軽く受け流した。

この家で俺の毒舌を真正面から受け止めるのは、親父くらいだ。


椅子に腰を下ろし、何気なく窓の外を見る。


――遠くの通学路。


制服姿の女の人が歩いていた。


俺の憧れの人。

サキ先輩。


顔が、自然と緩む。


自覚した瞬間、俺は慌てて味噌汁に視線を落とした。

……今の、誰にも見られてないよな。


朝食を終え、家を出る。


門をくぐったところで、声をかけられた。


「先輩、一緒に学校行きましょう?」


妹の同級生で、俺の後輩のユイだ。

少し息を切らして、こちらを見上げている。


「……あー、そだなー」


気怠げに返すと、ユイは嬉しそうに並んで歩き出した。


平和だ。

少なくとも、表向きは。


町内に差し掛かった瞬間、空気が変わった。


妙にざわついている。

子どもたちが走り回り、老人たちが列を作っている。


電柱、塀、掲示板。

至るところに貼られたお札。


「……またか」


小さく息を吐く。


「先輩?」

「ちょっと寄り道」


俺は歩調を変え、騒ぎの中心へ向かった。


「このお札を集めると願いが叶うんだって!」

「番号順に並びましょう!」


――信仰災害。

人間の願いと期待が、臨界点を超えた結果だ。


「無料の奇跡に並ぶなよ……」


呟きながら、一歩前に出る。


空気が重い。

祈り、後悔、欲望、正義感。

全部が粘土みたいに混ざり合っている。


「はいはい、回収作業入るぞ」


誰も聞いちゃいない。


光が歪み、人の形を取り始める。

願いの集合体。


「……粗悪品だな」


そのまま、俺は両手を広げた。


――吸収。


一気に流れ込んでくる感情。

泣き声、怒り、後悔、期待。


膝が少し揺れる。


「……重いっての」


軽口とは裏腹に、内側はぐちゃぐちゃだ。

だが、倒れるわけにはいかない。


数秒後、光は霧のように消えた。


お札は、ただの紙切れに戻る。


「……あれ?」

「終わったの?」


「はい、解散」


俺は手を叩いた。


「奇跡は売り切れ。現実は返品不可だ」


誰も、その意味を深く考えない。

考えたら、きっと壊れる。


ユイが少し不安そうに俺を見る。


「先輩……大丈夫ですか?」

「平気平気」


笑って、歩き出す。


胸の奥で、まだ誰かの願いが泣いている。

それでも俺は止まらない。


人柱は、今日も平然と生きていく。


「さて……遅刻すんなよ」


誰にでもなく、そう言って。

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