再生のルミナリス
射月アキラ
序章
01
雪を蹴散らす。
周囲の雪面は平坦で、彼が残した跡以外にはなにもない。数時間前まで降っていた「今シーズン最後」とされる降雪のおかげで、あらゆる生命活動の痕跡は覆い隠されている。
だからこそ。
雪上を走る姿は、異質に目立つだろう。
彼は足を止めないまま、背筋をぶるりと震わせる。
走る、という慣れない行為に、翼が無意味にバタついた。羽毛に守られていない足には冷たさが刺さる。
追われているのでなければ、夜に雪の上を走るなど断固拒否したい行為だった。
一刻も早く自分の巣へ戻りたい。
あるいは、安全な空へ。
「飛べねぇのかよ、ククリ!」
甲高い声は、頭上から。
鳥人なりに走るククリより、よほど雪上行動が得意そうなイタチが発した声だった。
頭にしがみついたイタチへ、ククリが答える。
「飛……べないよ、こんな、暗いと!」
「もう明るい方だろうが!」
晴れた空と、まっさらな雪面。
東の空が白み始め、朝が近付いている。
とはいえ、月も太陽も寝ぼけたこの時間帯は、視覚に頼るには心許ない明るさだった。
自分がフクロウかミミズクの鳥人であればと、ククリは何度も思った。夜にふと悪事を思いついて外に連れ出そうとする悪友のイタチと出会ってからは、特にそうだ。
何度願っても、ククリは「陸上に適した骨格になったハクトウワシ」の域を出ない。走るより飛ぶ方が得意だし、夜よりも昼の方が目が効く。
だから、現状。ククリの得意とする環境の要素は一切ない。そのことは、ククリ本人よりもイタチの方がよく分かっているはずだった。
頭が働いて鼻が効き、思い切りがいい。イタチのシィドは、これまで何度もククリの窮地を救ってきた。
彼を多少危ない状況へ誘っているのもまた、シィドではあったが。
「……藁山だ! 匂いをごまかす!」
甲高い声に従って、ククリは反射的に進む方向を変える。
目が効かないとはいえ、この辺りの地形は頭に入っている。昼間、はるか上空から見下ろしているのだから、多少雪が積もった程度で現在地を見失うことはない。
自分たちが所有を主張している「資源」の保管場所であれば、尚更のこと。
逃げる先が決まったのならば、迷う必要はない。
追い込まれていたククリの精神が安定したことで、翼の無駄な動きはかなり抑えられた。冷えた空気を無意味に叩いていた羽音はほとんどなくなり、跳躍のような短い低空飛行で速度を稼ぐ。
頭上からの「よし」「いいぞ」というシィドの声が、更にククリを前に進ませた。
多少でも飛べば速度は上がり、足跡も途切れる。
うまく行けば、逃げ切れる。光明と共に前方へ見えてきたのは、文字通りの藁の山だった。
ククリとシィドが盗みを働いて溜め込んだ、立派な資源である。藁の中にいくつか刺さっている木箱は、あちこちから盗んできているせいで形状も塗装もバラバラだ。
短く助走。翼で風を捉える。
三度の羽ばたきでククリの足は雪を離れた。
藁山の木箱のひとつへ向けて、ククリは飛ぶ。
目が効かないとはいえ、しくじるつもりはない。
空中で体勢を変え、足を前へ。減速しつつ、天面の蓋を蹴りあげる。
羽ばたかなければ落ちる。本能的な恐怖に逆らって、ククリは翼を閉じた。重力に体を掴まれるのを感じたのも束の間、ククリは箱の中へ収まっていた。
中に詰まった、盗品にしては上質な藁がククリを受け止める。いつのまにか頭から飛びあがっていたシィドが上蓋の鎖を掴み、続けて落ちてきた。
けたたましい音と共に、ふたりは真っ暗な闇の中に閉ざされた。
ククリの肺が、思い出したように呼吸を荒げる。頭がクラクラと揺れるのは、酸素不足か、あるいは乾いた藁の匂いのせいか。
「落ち着け、音を立てるな」
甲高い声が、ククリの胸の上で囁いた。
静かにしなければならなくても、呼吸を求めるのは止められない、と、反論するためにククリが落ち着いて息を吸い。
ざり、と。
遠く、くぐもって、雪を踏む音がした。
思わず、ふたり揃って息を潜める。木箱、藁山、雪の中にあって、その音はあまりにも存在感がありすぎた。見つかることを恐れるあまり、相手に聞こえるはずもない呼吸すら止めてしまいそうなほど。
足音は続く。安定した、二足の間隔。
わざと鳴らしている、とククリは直感した。
──オオカミの狩りは。
獲物を追いたて、走らせ、消耗させて、力尽きたものを仕留めるという。
藁山へ「逃げこめた」と思っていたのは、もしかすると誤りで──実際はただ「追い込まれて」、盗品や拠点の所在を「教えた」だけなのではないか。
足音が止まる。
おそらくは、藁山の麓。
ククリとシィドが潜む木箱の下方。
視界は閉ざされ、沈黙は重い。
見えもしない木板の向こうに、視線すら錯覚する。
シィドが胸の上で爪を立てていなければ、ククリはプレッシャーに耐えきれずに木箱から飛び出していただろう。それが追手の狙いだと、理解したとしても。
「残業でもするつもり?」
女の声は、遠くありながらよく響いた。
突然の乱入者に跳ねたククリの上で、シィドが二度体を叩く。小さな腕の些細な刺激ではあっても、伝えたい意思は明確だ。
静かにしていろ。あるいは、落ち着け。
現に、追手の沈黙はあっさり破られた。
「水を刺さないでくれるか。ここからが面白いところだろう」
「狩りで遊ぶだなんて、ネコの真似事はやめなさい」
「そこはヒトらしいと言うべきじゃないか?」
木箱の中の緊張感に対して、男女の会話はあまりにも軽い。
追跡の圧はあっさりと消える。遠ざかる足音は微かで、それすらも罠かと思えるほどだ。
見逃された。いや、追手の興がさめたと言った方が正しい。
それでも、ククリとシィドはしばらく木箱から出られなかった。少なくとも、ククリは自分から「もう出てもいいのではないか」とは言い出せなかった。
今更のように、雪の上を走った足が痺れる。乾いた藁の先が刺さると、それだけでも痛みが走るような有様だ。
元より、ククリは夜間に行動するには向かない生態だ。プレッシャーから解放された藁の中では、いっそ眠気すら感じるくらいで、確保された安全圏から出たいとは思わない。
だから、胸の上でシィドが動き出したときには、うたた寝を邪魔されたような感覚だった。
「こんなとこで寝るな、日が昇っちまうぞ」
指摘するシィドすらいまだに声量を落としているものの、ククリは渋々体を起こした。
どの道、自力で箱を開けられない以上、シィドはククリにこのまま眠ることを許しはしない。
そのような用途の部位でなくても、多少発達した翼であれば上蓋を内側から持ちあげるくらいのことはできる。手探りで天井を見つけると、ククリは残り少ない体力を振り絞る。
強い光。
しかし、篝火や松明ではない。
東の空で太陽が顔を覗かせている。雪からは靄が立ちのぼり、霞んでいるはずの日光はそれでも眩しかった。
夜通し活動した後の太陽は、昼行性の身であっても光が強すぎる。シィドに振り回されるようになってから知ったことのひとつだった。
「クソ……あの猟犬に見つからなきゃ一稼ぎできたのに」
ククリの頭上に戻ったシィドが、苦々しくこぼした。
「仕方ないよ、今日はもう休もう……」
「何言ってんだ、少し休んだらすぐに出発するぞ」
ククリは耳を疑った。夜を徹してから更に昼間も働くようなことは、これまでのシィドであれば避けていた。
ぽかんと開いたくちばしから、反論が出てこないまま。
「猟犬はこれから寝床にいくんだろ。でも昼にはでかいヤマが動く。これ以上のチャンスはそうそうない……オレの勘がそう言ってんだ!」
興奮気味のイタチの尻尾に後頭部を叩かれて、その些細な打撃で気を失える小鳥になってしまいたいと、ククリは切に願った。
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