第十九章「千年の穢れ」

理容神の施術は、一刀がこれまで経験したどの施術よりも過酷だった。


髪は床を覆い、壁を這い、天井にまで達している。黒い霧は濃く、触れるだけで指先が痺れる。


「まず、髪を切る」


一刀はハサミを構えた。最初の一cut を入れる。髪が落ちると同時に、凄まじい量の黒い霧が噴き出した。


「うぐっ……」


一刀は咳き込んだ。穢れが、喉に、肺に入り込もうとしている。


「神楽殿!」


セリーヌが駆け寄った。


「大丈夫か」


「大丈夫だ……続ける」


一刀は二回目のcut を入れた。また黒い霧が噴き出す。三回目。四回目。髪を切るたびに、穢れが放出される。


「これは……」


「千年分の穢れだ。理容神が、この世界の全ての穢れを引き受けていた」


一刀は切り続けた。髪が落ちるたびに、穢れが消散していく。しかし、その量は膨大だ。一人では——


「手伝う」


セリーヌが言った。


「俺の技術は——」


「わかっている。でも、シャンプーくらいならできる。蒸野に教わった」


一刀は頷いた。


「頼む」


セリーヌは水を持ってきて、理容神の髪を濡らし始めた。石鹸で泡立て、指の腹で洗う。蒸野から教わった通りに。


「……気持ちいい……」


理容神が呟いた。


「千年ぶりだ……髪を洗ってもらうのは……」


「もう少しだ。耐えてくれ」


一刀は切り続けた。セリーヌは洗い続けた。


時間の感覚がなくなった。どれくらい経ったのか——一時間か、三時間か、もっとか。一刀の手は痺れ、セリーヌの膝は震えていた。


だが、彼らは止まらなかった。


やがて——


「……あ」


セリーヌが声を上げた。


理容神の顔が見えた。黒い霧が薄くなり、髪が短くなり、千年ぶりに——その素顔が現れた。


「……若い」


一刀は呟いた。


理容神の顔は、若い男のものだった。二十代後半か、三十代前半か。精悍な顔立ちで、どこか——


「俺と、似ている」


「似ている?」


「顔じゃない。雰囲気が」


理容神の目が開いた。今度は、白く濁ってはいない。澄んだ、深い色の瞳だ。


「……ありがとう」


「まだ終わってない」


一刀は剃刀を構えた。


「シェービングだ」


蒸しタオルはない。だが、湯で濡らしたタオルで代用する。セリーヌが理容神の顔にタオルを当てた。


「……温かい……」


「髭を柔らかくしている。しばらくそのままで」


タオルを外し、石鹸で泡立てる。シェービングブラシで顔に塗布する。


「いくぞ」


一刀は剃刀を当てた。


張り手で皮膚を引っ張り、刃を走らせる。順剃り。逆剃り。千年分の髭を、丁寧に、確実に剃り落としていく。


最後の一剃りが終わったとき——


「……終わった」


理容神の顔は、すっきりと清潔になっていた。黒い霧は完全に消え、肌には健康的な色が戻っている。


「……ありがとう……本当に、ありがとう……」


理容神は涙を流した。


「千年だ……千年もの間、この穢れの中にいた……もう、諦めていた……」


「諦めるな」


一刀は剃刀を仕舞った。


「俺も、お前と同じ世界から来た。理容師だ。諦めないのが、俺たちの仕事だ」


理容神は笑った。


「そうだな……お前の言う通りだ……」


その瞬間、混沌の床屋全体が光に包まれた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る