〇〇予報

lager

天気

「逆さ雨を見に行こうよ」


 美羽ミウは人形のように整った顔のまま、窓の外を見上げて、そう言った。


「逆さ雨?」

 問い返した私は、若葉色のソファに寝ころび、爪にやすりをかけていた。

 埃の目立つ窓ガラスの向こうには、桜色の空と、蒼い連峰が並んでいた。

 枕にしていた肉まんクッションに顎を乗せて、美羽の横顔を窺い見る。


「うん。熊野古道の裏側にね、条件が整いそう」

「ホントに?」

 美羽は気象学にやたらと詳しかった。雪が積もると言えば積もるし、砂が吹くと言えば吹く。逆さ雨とやらが現れるというなら、現れるんだろう。


「熊野古道って、どの辺?」

「今はそんなに離れてないかな。多分、夕方までなら」

「寒いかな」

「そうでもないよ。もう春だから」


 美羽がこちらを振り返り、長い黒髪が、瑠璃色の光の粒を散らした。


「行こう、桂里奈カリナ

「いいよ」


 玄関のドアを開けると同時、数羽の鳥が羽ばたいていく音が聞こえた。

 外の空気はしっとりと湿っていて、庭木の緑が鮮やかだった。

 赤土のレンガ道を数歩進むと、すぐに道が途切れ、虚空が広がっている。

 何もない。

 私の家が一軒建つだけの小さな島。

 視界の遥か先には、宙に浮く蒼い山々。鳥の群の影。右手から下に向けて、大きな浮島が移動している。崖の上に石造りの小屋が小さく見えて、オレンジ色の洗濯物が風に揺れていた。


「まずはどっち?」

「そうだね、『背骨』を探すとこからかな」


 無造作に差し出された美羽の指先には、私が塗ってあげたピンクベージュのマニキュア。

 私はひんやりとしたその手に、そっと自分の掌を重ねると、息を合わせて、虚空へと足を踏み出した。


 跳んだ。

 黒い海が、波しぶきを上げていた。同じくらい真っ黒な雲が、ゴロゴロと稲光を纏っている。

 踏みしめたその地面はごつごつとした岩場で、荒々しい風が吹きすさんでいた。

 潮の匂いが鼻を打つ。


「ごめん、行き過ぎたかも」

「ううん、ちょっとずれただけ。こっち向きに行こう」


 私の手を握る美羽の指に力が入り、今度は左足を慎重に踏み出した。

 一瞬で視界が晴れ、真っ青な空に日輪が輝いた。

「うわぁ、眩しい」

「よし。『背骨』は掴んだよ。ちょっと沿って歩こう」

 美羽に手を引かれ、さらさらの砂地を歩きはじめる。

 進行方向の左側は針葉樹が並んでいて、なるほど、あれが歴史の授業で習った防砂林か、と得心した。


「ねえ、桂里奈。知ってる? 昔は地面は一つだった、って話」

「やめてよ、美羽。流石に去年の授業は忘れてないよ」

 今だったら、砂が飛んでくるのが嫌なら違う場所に飛ばせばいい。けど、昔の地球は空間が常に連続していて、地面も物理的に繋がっていた。

 一番大きいのがユーラシア大陸、それからアフリカ大陸とアメリカ大陸があって……。

「ううん。もっと昔。地球という天体ができたばっかりの頃はね。全部の大陸が繋がってたんだって」

「ええ? なにそれ」


 地球に、大陸が一つ?

 全員その上で暮らしてたってこと?


「ホモサピエンスが発生するより、ずっと前のことなんだって」

「恐竜ってやつ?」

「それよりもっと前」

「想像つかないなあ」

「そうだね。私たちが『跳べる』ようになったのだって、地球の歴史からしたらドット一つ分くらいだもの。人類の歴史全体でもせいぜい3~4ドット」


 サクサクと、私と美羽の足が砂地にリズムを刻んでいく。

 日輪は真上にあって、影は短かった。

『跳んで』しまえば一瞬だけど、こうして二人で並んで歩く時間が、私は意外と苦にならない。


「ねえ美羽。まだ跳べなかった昔の人はさ。どこかに行こうと思ったら、こうやってずうっと足で歩いてたんだよね」

「うん。途中から、馬に乗ったり、移動する機械を作ったりしたみたいだけど」

「空間が繋がってるから、どこまでも行けたんだよね」

「うん」

「きっとさ、こうやって気の合う人同士でさ、他愛もないことを喋りながら、ずうっと歩いてたんだろうね」


 いったい、どれだけの時間を歩いていたんだろう。

 けど、私もきっと、美羽と二人だったら、いつまでも歩いて行ける。

 

「でも、いつからかバラバラになった」

 美羽の声は、私に向けているようでいて、いつもどこか遠くに響いているような気がする。

「大陸はバラバラになって、いつからか世界もバラバラになった。世界がバラバラになったから、私たちは跳べるようになったのかな。それとも、私たちが跳べるようになったから、世界もバラバラになったのかな」


 風が吹いて、私たちの髪をなぶった。

 乾いた空の下では、美羽の髪は金色に光るのだな、と、私は美羽の話を聞くともなしに聞きながら、そんなことを思った。


「昔は地面が繋がっていたから、人間は地面に縛られてた。大事なのは土地で、その持ち主を決めて争った。まとまりができて、国ができて、一つの地面の上で人はバラバラになった」

 国。かつてそういう仕組みがあったことは、まあ授業で習ってはいたけれど。やっぱり想像できない。

「でも、人はもっとバラバラになった。国は必要なくなって、『みんな』が必要なくなって、人は孤独になっていった。でもね、桂里奈。私、逆なんじゃないかと思うの」

「逆?」

「私たちはバラバラになればなるほど、『一つ』に近づいてるんじゃないかと思うの」

「よく分かんないよ」


 美羽の薄い唇が、儚げに微笑んだ。


「桂里奈はきっと、私よりよく分かってる」


 砂地が、途切れた。


「さあ、ここから跳ぼう」

「うん」

 もう一度、手を繋いだ。


 一足踏み出した先には、苔生した石の路が続いていた。

 すぐ目の前に、大きな大きな木。それも何本も。

 濃密な緑の匂い。それなのに、空気がとてもきれい。

 空は大樹の葉で覆われ、隠されているはずなのに、不思議と明るく感じられた。


「こんなとこ、初めて来た」

「こっち。まだ間に合いそう」


 美羽に手を引かれて、石の路を歩く。

 路。そう、路だ。この場所は、人が歩いて通るための道路なのだ。

 みんな、一体どんな気持ちでこんな場所に路を作って、歩いていたのだろう。


「着いたよ」

 

 不意に、視界が開けた。

 山肌に出たのだ。その先がこの空間の切れ目だった。足元には、山の裾野に沿って満開の桜並木が広がっている。

 そして――。


 雨が下から降っていた。


 二つの空間が捻れて重なり、天地が逆になっているのだ。

 明るい雨だった。

 下の方には、銀色に光る薄雲。そこから昇る、針のように細い雨。

 真っ直ぐ、昇っていく。

 初めて見る光景だった。

 

「あとちょっとで、この捻れも元に戻ると思う。見れてよかった」

 美羽の淡々とした喋り方には変化がない。それでも、その頬が薄っすらと上気していた。

 そして――。


「あ」

「あ」


 風が、吹いた。


 眼下の裾野に広がる桜並木から、一斉に花吹雪が舞い上がった。

 混じり合う。

 薄紅色の花弁と、銀色に光る雨が。

 広がっていく。

 重なっていく。


 風は緑。積み重なった山の匂いを含んで吹き流れ。

 花は薄紅。咲いて、舞い散り、儚く消える。

 雨は銀。薄雲を透かして日の光を含み、輝いて。


 私は、隣にいる美羽の存在も忘れて、ただひたすらに立ち尽くしていた。


 きっと。これからも私たちは分かたれていくのだろう。

 かつて大地が裂けたように。

 人々が相争っていたように。

 私たちはどんどん一人になっていくのだろう。

 

 美羽と並んで景色を眺めることも、これが最後になるのかもしれない。

 不意に、そんな予感が頭をよぎった。

 それでも――。


「美羽」

「うん?」

「これからもっと世界がバラバラになってさ。色んな場所と場所が重なっていったらさ、もっと色んな天気が見れるかもしれないよね」

「そうだね」

「砂漠に雪が降ったり」

「嵐の中に虹が差したり」

「蜃気楼とオーロラが重なったり」

「見れたらいいね」


 今触れ合っている美羽の掌の熱は、私と一つになっている。

 心は重なっている。

 明日はどんな天気になるだろう。

 誰も知らない。

 誰にも分からない。


 それでいい。

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