始まりの距離
ひらひら
始まりの距離
六月の終わり。
降り始めた雨が、静かに世界を塗り替えていく。
「……止まないね」
私は傘もささずに、濡れた前髪を指で払った。
高めのポニーテールが雨を吸って重くなり、首の後ろに貼りつく。お気に入りの淡いセルリアンブルーのワンピースは、髪から伝う雨粒に濡れて、細い肩の白さをわずかに浮かび上がらせていた
わざとじゃない。けれど、彼の視線が少しだけ気になる。
「止むまで待ってもいいけど」
そう言いながら、
いつもは少し猫背なのに、何かに集中すると背筋がすっと伸びる。悠斗は、私たちの幼馴染だ。
「待ってたら日が暮れるよ。撮ろう」
私は、足元の水たまりをひとつ避け、悠斗の正面に立った。
「こっち、
悠斗の声は落ち着いていて、優しい。紗季と呼ばれるたび、胸が落ち着かなくなる。
すぐ隣で、
右側に編み込みを入れた、鎖骨あたりで切りそろえた髪。私にとっては、妹みたいな存在。
「私も撮って! ほら!」
結菜は、私とお揃いのワンピースの裾を指先で摘まんで、くるりと回った。レースがふわっと揺れて、雨粒が舞う。それから、悠斗の目を見て、少し照れたように笑った。
──結菜も、同じなんだ。悠斗のことが、好き。
子どもの頃から、分かっていた。結菜は隠すのが下手で、私は隠すのが少し上手なだけ。それでも、この気持ちを隠し続けられるほど、私は器用じゃなかった。
「結菜、もうちょっと寄って」
悠斗が言った。
結菜が私の肩にくっつく。濡れた肌が、触れ合った。
「紗季ちゃん、冷たい」
「結菜も冷たいよ」
悠斗がスマートフォンを構えた。
「紗季、目線こっち。結菜は、笑って」
私は悠斗の目を見つめる。結菜は上目遣いで、くすっと笑った。
シャッター音に、雨音が混じる。
「ねえねえ悠斗、私たち、どんなふうに見える?」
悠斗はスマートフォンから目を離さないまま答えた。
「仲のいい姉妹……いや、違うな」
「え?」
結菜が、首を傾げる。
悠斗はスマートフォンを下ろし、こちらを見つめて言った。
「親友、って言うのとも、ちょっと違う。なんて言えばいいんだろう」
寄せ合っていた肩が、ほんの一瞬動いてしまう。結菜の笑顔が、わずかに固くなる。悠斗だけが、その変化に気づかないままだった。
仲の良い姉妹のようで、けれど、それだけじゃない。
◆
十二月。
駅前のツリーは毎年同じ場所に立つのに、私たちの関係は、気づかないうちに少しずつ変わっていく。
「今年も三人で会うの、なんか変な感じだね」
結菜は口元をマフラーに埋めながら言った。白くなった息が、澄んだ冬の空に消えていった。
「変じゃないよ。昔からそうだし」
私はそう返しながらも、どこか落ち着かなかった。
悠斗は紙袋を持っていた。中身は、たぶん私たちへのプレゼント。
「じゃ、これ」
結菜には、すっぽりとはまった黒猫が可愛い、限定のマグカップ。私には、買うかどうかでずっと迷っていた、小さな犬の革のバッグチャーム。
「これ、前から欲しかったやつ!」
結菜が嬉しそうに言った。
「これは、私たちから」
私と結菜で一緒に選んだ、アイスグレーのパーカー。悠斗は黒が好きみたいだけれど、明るい色の方が似合う。それが、私たちの出した答え。
ツリーの前で、肩が触れるか触れないかの距離で並ぶ。悠斗が腕を伸ばし、三人で顔を寄せる。
撮り終えて、悠斗が画面を確認しているのを横目に見ながら、結菜が私の袖を引っ張った。
「ねえ紗季ちゃん」
「なに?」
結菜は、まっすぐ私を見た。普段の妹っぽさが消える。
「私、悠斗のこと、好き」
一瞬、呼吸が止まる。分かっていたはずなのに、言葉になると、ひどく重い。
「紗季ちゃんも、好きでしょ」
「…………好き」
結菜は笑って、それから、泣きそうな顔をした。
「じゃあ、ライバルだ」
「……うん」
「でも、紗季ちゃんのことも好き。それだけは、本当」
結菜が私の手を握る。小さな手。細い指。
「……私も」
握り返した手は、凍えるほど冷たい。それでも、そこには確かな温もりがあった。
画面から顔を上げた悠斗が、こちらに向き直る。
「なにしてんの、二人で」
「秘密!」
結菜が笑って言う。悠斗は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐにいつもの顔に戻って言った。
「じゃ、帰るか。寒いし」
三人で歩き出す。
ツリーの光が背中を照らし、影が三つ並ぶ。見慣れたはずの光景なのに、影と影のあいだの距離が、ほんの少しだけ、いつもと違って見えた。
◆
年が明けた。
三人で初詣に行くのは、昔からの習慣だった。幼い頃は手をつないで歩いたけれど、今は少しだけ距離をとって歩く。
「おみくじ引く!」
結菜が走り出す。私は悠斗の隣を歩きながら、境内を見渡した。
「去年は、結菜が大吉を引いて、すごい騒ぎだったよね」
私が言うと、悠斗は楽しそうに笑った。
──告白したら、どうなるんだろう。
そんなことを考えてしまった。
──結菜との関係は? 三人の関係は?
「紗季」
悠斗が名前を呼ぶ。私は顔を上げた。
「今年も、初詣に付き合わせちゃって……ごめんな」
「それは……私も楽しいし」
「うん……紗季が隣にいるのが、もう当たり前みたいでさ」
「え?」
悠斗の言葉に、胸がざわめいた。
ちょうどそのとき、結菜が戻ってきた。
「見て見て! 末吉! 微妙!」
悠斗が吹き出す。私も笑う。結菜が頬を膨らませた。
いつものやり取り。少しだけ、安心する。けれどそれは、薄氷のように頼りなく、いつ崩れてもおかしくはなかった。
私たちは絵馬を書いた。
結菜は健康祈願と恋愛成就を並べて書き、恋愛成就の文字だけ少し濃い。
私は、何を書くか迷った。
結局、こう書いた。
⸻三人で笑いあう毎日が、ずっと続きますように。
それが何を意味するのか、自分でも分かっている。
誰よりも大好きな悠斗。誰よりも大切な結菜。何よりも大事な三人での時間。全部を手に入れたいなんて、欲張りだ。
だけど、欲張りでもいいと、今だけは思いたかった。
◆
七月の初め。
夏はあっという間に戻ってきた。
「プール行こう!」
私と悠斗は目を合わせて笑った。
「結菜、好きだよね。そういうの」
「だって楽しいもん。ね、行くでしょ?」
「行くよ、もちろん」
悠斗がそう言うと、結菜は、弾けるように笑った。
夏の強い日差しを受けてきらめくプールの水面。足裏に伝わる濡れた床の温度。売店から聞こえてくる炭酸のはじける音。私たちは、プールサイドで悠斗と合流した。
結菜の水着は、彼女の性格そのものみたいに、屈託がない。私は、自分の線の細い体つきが、水着になると余計に目についてしまって、どうにも落ち着かなかった。
悠斗は、少し照れくさそうに、視線を外らした。
「……どうしたの?」
「ん……今年も、こうして二人と一緒にいられるのが、なんか嬉しくて」
その言い方は、ずるい。結菜と同じ場所にいる安心と、そこから抜け出せない焦りを、胸の奥で同時に覚えてしまう。
水に入ると、体が軽くなるのを感じた。結菜は浮き輪を抱えて、私の周りをくるくる回った。
「紗季ちゃん、プールに遊びに来たのに、なんでそんな真面目な顔してるの」
「真面目じゃないよ」
「真面目だよ。悠斗の前だと特に」
結菜が小声で言う。私は視線を水面へ落として、誤魔化す。
「結菜だって、悠斗の前だとテンション変だよ」
「えっ、変じゃないし!」
「変だよ」
二人で言い合っていると、悠斗が上から声をかけてきた。
「はい、こっち見て」
そう言って、悠斗は指でフレームを作った。
結菜が、じゃれるように私の腕に絡みついてきた。
「紗季ちゃん、好き」
冗談みたいな言い方で、けれど、目は真剣だった。
「……私も、結菜のこと、好きだよ」
私はそう返した。
結菜は笑った。けれど、その笑顔の奥に、何か決意のようなものが込められているように見えた。
「ねえ、紗季ちゃん。私、悠斗のこと、ちゃんと向き合うから」
「……うん」
その言葉は、水の中でもなお重く、胸の奥へと沈んでいった。
悠斗は、そんな私たちを見ながら、いつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
けれど本当は、悠斗に気づかれてしまったかもしれない。私たちの視線の温度差を。肩に触れた瞬間の硬さを。笑顔の裏に潜む緊張を。
着替えを済ませたあと、三人でプールサイドに並んでアイスを食べた。結菜は溶ける前にと勢いよく頬張って、口の端に白いのをつけたままになっている。
「落ち着けって」
悠斗がティッシュを差し出す。結菜は手を伸ばしかけて、動きを止めた。そして、私のほうを見て、にっこりと笑う。
「紗季ちゃん、取って」
私は小さく息をつき、ティッシュを受け取って結菜の口元をやさしく拭ってあげた。結菜の肌は、夏の日差しを受けてほんのりと温かかった。
「ありがと、紗季ちゃん」
悠斗はその様子を見て、何も言わずにアイスの棒を齧った。
◆
夏の終わり。
雨が降った。去年のあの写真と同じ場所に、私たちは立っていた。結菜が言ったのだ──もう一回撮ろうよ。去年の続き──って。
悠斗は頷いたが、私は、どこか落ち着かないままだった。
悠斗がレンズを私たちに向けた。
淡い色のワンピースが雨に濡れ、レースに溜まった雨粒がきらきらと光って見えた。結菜は私の隣で、いつもよりおとなしかった。
「結菜、今日は笑わないの?」
悠斗が言った。
結菜は私を見た。
「今日は……いい」
「え?」
結菜は小さく笑って、雨に濡れた髪の編み込みを右手の指でそっとなぞった。
「私、ね。紗季ちゃんのこと、ほんとに好き。だから……笑うのは、私じゃなくて紗季ちゃんがいい」
「結菜……」
「ちゃんと向き合って、決めたの」
結菜の目は、今にも泣き出しそうになりながら、それでもまっすぐだった。
悠斗は状況が分からないまま、スマートフォンを下ろしかける。
「……なんか、空気変じゃない?」
私は息を吸った。雨が冷たい。頬が熱を帯びる。
「悠斗」
名前を呼ぶと、悠斗の表情が、少しだけ変わった。
結菜が、私の背中を小さく押した。いつもは妹みたいに甘えてくるのに、そのときだけは姉になったみたいに、私を前へ送り出した。
「悠斗」
もう一度、名前を呼んだ。
悠斗の目が、私をまっすぐに捉える。
雨音が、遠のく。
◆
「……私は、悠斗のことが好き」
その言葉を口にした瞬間、私はとても大切な何かを、永遠に失ってしまったように感じた。けれど同時に、長いあいだ胸の奥底に閉じ込めていた何かが静かにほどけていき、どこかほっとしていたのも、確かだった。
「小さい頃から……たぶん、もっとずっと前から」
「……結菜も、同じだって分かってた。だから言えなかった」
悠斗は言葉を失ったまま、雨の中で立ち尽くす。スマートフォンは手の中に残されたまま、雨粒がレンズを濡らし続けている。
「でも……」
声が震える。それでも、止めることだけはしない。
「好きって気持ちだけは、なかったことにできない」
結菜は少し離れた場所で、黙って聞いていた。雨の中、身を守るかのように両腕でその小さな体を抱きながら、肩を震わせている。
悠斗が、静かに口を開いた。
「紗季」
時間が、止まる。
「俺……二人のこと、同じくらい大切だと思ってる」
結菜が小さく息をのむ。私は視線を落とし、曖昧に笑うことしかできなかった。それは“幼馴染”の答えだ。正しいけれど、残酷なやつ。
「でも」
悠斗が続けた。
「いつも隣に探していたのは、きっと紗季だったんだと思う」
嬉しさでこぼれ落ちた涙が、雨粒と混ざり合って、頬をつたう。
「それ、告白っぽいね」
悠斗は少し考えてから、照れたように言った。
「……告白だよ。たぶん」
結菜が、一歩前に出た。小さな足が水たまりを踏む音がした。
「悠斗」
悠斗が結菜を見る。
結菜は笑った。泣きそうになりながら、それでも、ちゃんと笑っていた。
「私、悔しい。めちゃくちゃ悔しい。でも……紗季ちゃんの悠斗への想いが本物だってこと、私には、わかる」
「結菜……」
「だから、負けるのも、まあ……許す」
結菜は肩をすくめた。いつもの軽さを装いながら。
悠斗が言った。
「結菜、ごめん」
結菜は首を振った。
「謝らないで。謝られたら、私が可哀想になる……これ、私が自分で選んだんだもん」
また涙がこぼれそうになるのを、ぐっと堪える。
「紗季ちゃん、悠斗」
結菜が言った。
「私は、二人が笑っていてくれるのが、何よりも大事」
私は結菜の手を取った。小さくて冷たくて、けれどその奥に、去年の夜と変わらない、確かな温もりを感じることができた。
「私は、結菜が一緒じゃないと意味がないの。結菜が悲しむくらいなら……」
結菜は鼻をすすって、笑った。
「大丈夫。私を好きな人なんて、いくらでもいるんだから。だって私、可愛いし」
悠斗が吹き出す。
私も涙を拭きながら笑う。
雨の中で、三人一緒に。
それは、去年の写真の続きとして、悪くない結末だと思えた。
◆
後日、悠斗が撮ってくれた写真を見た。
雨粒を気にせずはしゃぎ回る私たち。
プールサイドでアイスを食べる三人。
ツリーの前で寄り添う笑顔。
絵馬に書いた願い事。
結菜が言った。
「紗季ちゃん、さ。悠斗の隣にいると、少しだけ表情が柔らかくなるね」
「そうかな」
「うん。ずるい」
「結菜も、ずるいよ」
「え?」
「結菜は、強いから。それって、ずるい」
結菜は一瞬黙って、それから、ふっと笑った。
「じゃあさ。次の夏も、三人で撮ろ」
「……うん」
私たちの隣で、悠斗は何も言わず、頷く。
私たちには、それだけで十分だった。
始まりの距離 ひらひら @paradox7u
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