えぴそーど 〜に〜


「ほんわか堂」の店先には、小さな黒板が立てかけてあります。

そこには、ほとりの手書きで、こんなふうに書かれているのです。


人生って、いろんな事のれんぞくですよね。

たのしいこともあれば、そうでない事もたくさんあります。

わたしには、それを変えることはできないけれど

すこしだけよくするために


「おくり物」をひとつお渡しします。

よかったら受け取ってみませんか?


「ほんわか堂」

今日も ふわっと あいています。

あなたのお悩み、少しだけこぼしてみませんか?


~リップと薔薇と、ふたりの夜~


結婚して、二十年目。

くみこは、専業主婦。

子どもはふたりとも大きくなり、手がかからなくなりました。

ご主人は、まじめで働き者。

不自由のない暮らし。

なのに、今朝、目覚めたとき、胸の奥に小さな空洞ができている気がしたんです。


「今日、磁器婚式だったな……」


思い出したのは、キッチンで朝食をつくっていたときでした。

テレビから流れてきたのは、「夫婦の記念日サプライズ特集」。

にぎやかなナレーションを聞きながら、ふと手が止まりました。


(何年も、結婚記念日らしいことはしていない)


食器棚の奥から、こっそり買っていたカップとソーサーのペアを取り出して、テーブルの隅に置きます。

ご主人に何か言われるかも、そんな期待がほんの少しだけありました。

でも、朝食の間、ご主人は何も言わなかったのです。


(わたし、何を期待してたんだろう)


***


買い物帰り。

うっすらと雨上がりの路地裏で、ふと目に入った看板がありました。


『ほんわか堂』


「……こんなところに、お店あったかな?」


吸い込まれるように、のれんをくぐります。

お店の中は、ほんのりお茶の香り。

カラン、と鈴の音がして、奥から、やさしい空気をまとった女性が出てきました。


「いらっしゃいませ。今日は、どんな日ですか?」


そう聞かれて、くみこは少しだけほほえみます。


「しあわせなんです。たぶん。でも……なにかが抜け落ちてる気がして」


ほとりは、そっと湯飲みをくみこの前に置きました。


「あなたにお出しするお茶は、丁寧に淹れたほうじ茶です」


ひとくち、お茶を口にしたくみこが話しはじめました。

自分でもうまく言葉にならなかった気持ちが、するすると口からこぼれていきました。


「今日は、記念日なんです、結婚して二十年。でも、夫からは……特に何もなくて」


ほとりと名乗ったその女性は、うんうんとうなづきながら話をきいてくれました。


「おふたりの二十年も、このお茶のように、丁寧に積み重ねてきたのかもしれませんね。」


そして、棚の奥から、小さなはこを取り出してきました。


「これは、少しだけ“変わる”ためのリップスティックです」


はこを開けると、ほんのり大人っぽい色合いのリップが一本、光を受けていました。


「今のままでも素敵です。でも、変わっても、もっと素敵ですよ」


その言葉に、くみこは、少し照れながらもほほえんで、はこを受け取りました。

そしてそのはこには、小さなメッセージカードが添えられていました。


『ことばがない日も、くちびるは語るのです』


***


夕方、子どもたちは塾で不在です。

ご主人が帰ってくる前の静かな時間。

くみこは、鏡の前に立っていました。

慣れない手つきで、ゆっくりとリップをひきます。

少し濃いかな、と思ったけれど、鏡に映る自分は、たしかに少しだけ、違ってみえました。


そのとき、玄関のドアが開く音。


ご主人が、ふと顔を上げてくみこを見ました。

その目が、一瞬だけ見開かれました。

そして何も言わず、上着を取って外へ出ていってしまいました。


「……やっぱり、変だったかな」


ぽつんとつぶやいて、くみこはソファに腰を下ろしました。


***


三十分ほど経ったころ。

玄関が再びひらいて、ご主人が息を切らしながらもどってきました。

手には、大きな花束。

それは、真っ赤な薔薇が三十本──


「結婚二十年、おめでとう」

「最近は、何もしてこなかったけど……ずっと、考えてたんだ」

「この薔薇には、僕の今の気持ちが込められているよ」


くみこは、驚いて立ち上がりました。

そして、ゆっくりと笑いました。


「ありがとう。わたし、ちょっとだけ変わったの」


ご主人も、照れくさそうに笑いました。


***


 夜、食器棚にしまっていたカップとソーサーに、紅茶を注ぎます。

くみこは、薔薇を眺めていました。


《白い薔薇三十本の花言葉——変わらぬ愛》


湯気の向こう、グラスに映る唇がほんのり赤くゆれています。

くみこはそっと微笑み、カップを口元へ運びました。

そして、ぽつりとつぶやきました——


「……こんなわたしも、いてもいいんだね」


***


そのころ、ほんわか堂では──

ほとりが、いつものように急須を洗いながら、ぽつりとつぶやいていました。


「きょうも、だれかが すこし やわらかくなりますように」


【おくり物】

リップスティック(ちょっとだけ大人の色)

小さなメッセージカード:

『ことばがない日も、くちびるは語るのです』


**次にのれんをくぐるのは、もしかすると“あなた”かもしれませんね**

        

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