【兄の心配】豊島伊織(文乙三一)

霧島なお

【兄の心配】豊島伊織(文乙三一)

凄まじい音と共に、地面が揺れた。


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九月一日は夏季休暇も終わり、学校始業の日であった。

実家がある愛知縣には帰らず、居候をしている兄夫婦の家で休暇を過ごした僕は、

始業の日もいつも通りの時間に、


「行ってきます。」


と玄関先で僕を見送る義姉に笑顔で言った。


「雨降ってるから、傘持っていってね。」


義姉がそう言うように、この日の午前は台風の影響で雨が降ったり止んだりしている、そんな不安定な天気だった。

僕は玄関先に立て掛けてあった傘を持ち、いつもの通学路へと歩みを進めた。

今歩いている景色が様変わりすることも、この時は知らずに。


始業の日だったので、授業は午前中に終わった。

昼前だったので、丁度、家に着く頃には義姉が昼飯を作っている頃だろうと思い、

机の上に出してあった教科書を鞄の中に仕舞い、席を立った。


「俺、一旦寮に戻るでな。」


前の席に座っていた幼馴染の小倉一平が僕の方を振り向いてそう言った。

一平は昨日まで愛知縣に帰郷していたので、授業が終わったら部屋の掃除をしたいと、早朝に言っていた。


「門前までは一緒に行こう。僕ももう帰るから。」


一平にそう言って教室を出、外に出た瞬間だった。


聞いたこともない様な音と共に、一高の建物が揺れ、同じように地面も揺れた。


「地震か!」


一平が大声でそう言い、小柄な僕を自分の方へと引っ張り覆い被さる。

外なのに、立ってもいられない揺れが僕らを、東京を襲う。


校舎の窓硝子が割れる音が響く。

他の生徒の怒号が、耳を劈くつんざく


一平に守られている僕はその大きい身体の中で、

『これは、駄目なやつだ。』

と、頭の中で思う。


揺れが少し収まり、一平の身体から解放されると、何処からともなく、


「帝大で火事発生!」


という声が聞こえる。

確かに、隣接する帝大の方を見ると火の手が上がっているように見える。

そしてまたもや違う方向に目を向けると、そこには先程の地震で壊滅したであろう、東京の街並みが広がっていた。


「俺は寮の奴らが大丈夫か見に行くが、伊織はどうする。」


一平が僕にそう問う。


本郷がこうなっているのならば、千駄木方面はどうなっているだろう。

義姉あねは大丈夫だろうか。

それに日本橋にいる兄さんも無事なのだろうか。


そんなことが頭の中を巡る。

僕は咄嗟に、


「千駄木に戻る。家が、義姉ねえさんが、どうなってるか分からないから。」


と一平に言い、一高の正門を潜り、千駄木方面へと走る。


一高のある本郷から千駄木まではそこまで時間はかからない。

歩いてでも二十分足らずだから走れば、十五分くらいだろう。

途中、履いている下駄が邪魔になった為、素足で走ることにした。


「なんで、今日に限って足袋を履かなかった。」


地面には瓦礫や割れた硝子に破片が大量に落ちている。

多分だが、その破片たちを踏んづけているだろう。

徐々に徐々に、足の裏から痛みが登ってくる。

だけど、今は痛いとか言っていられない。


途中、家へと走って向かってる最中に根津神社の前を横切った。


「そうか、避難。」


神社の境内には家から押し出されたであろう人たちが逃げてきていた。

この中に、義姉がいれば。

そんな気持ちを思いつつ、先ずは境内に入ることにした。


-


境内を数分探したが、義姉の姿はここにはなかった。

あまり考えたくはないが、もしかすると。

そんな思いが、自分の中に現れる。


「いや、谷中の方のお寺は。」


谷中の墓地周辺はお寺が多い。

もしかすると、そこに義姉は避難しているのかもしれない。

根津神社よりも家からはお寺が近いだろうから。


そんな期待を込め、境内を出て、家の方向へと走った。


-


谷中のお寺へと行く前に、家の近くへと着いたので寄ることにした。

今まで根津や千駄木の道を走ってきたが、周りの家々は倒壊することなくそのままを保っていたので、ウチもどうなっているだろうかと思っていたが、案の定、倒壊や火事を免れていた。


「玄関、開いてる。」


戸締りをちゃんとしている義姉であれば、玄関を開けていることはないだろう。

なので、この様子を見た僕は心の何処かで少し安心した気持ちになった。

僕は開いている玄関から家の中へと入り、部屋を見て回る。


「物が散乱しているのは当たり前か。あれだけ大きな地震だったのだから。」


棚は倒れ、その上にあった置物などは大体のものが割れている。

その破片が飛び散っているが、そこまで割れるものを置いていなかったので、最小限にとどまっていた。

茶の間を通り、台所へ行くとこちらの方が被害は大きかった。

茶碗や皿は棚から飛びてて床に落ち、殆どのものが割れている。

しかし、台所を見た瞬間に分かったことがあった。


「義姉さん、もしかしてお昼作る前だったのか。」


火をつけた痕跡は無く、また包丁やまな板を使った形跡もなかった。

先程、茶の間にはお茶が入っていたであろう湯呑みが転がっていた為、掃除か何かを終えて、一息つけようとしていたのだろうか。


そう思っていると、玄関先からこちらに向かって走ってくる音が聞こえた。

そして僕の姿を見るや、


「いっくん!!!」


と、義姉が息を切らしながら僕の名前を呼び、僕を抱きしめ、


「良かった。本当に良かった。」


とそう言いながら泣いていた。

僕はそんな義姉に対して冷静に、


「義姉さんこそ、ちゃんと逃げていて本当に良かったです。」


と返事をし、抱き締め返した。


-


「谷中の方に避難してたのだけれど、もしかすると伊織くんが帰ってるかもしれないと思ってね。」


義姉は怪我していた僕の足に包帯を巻きながら話を始める。

やはり僕の推測は当たっていた。

谷中の方は歩くと少し距離が遠いが、根津神社よりかは近い。

義姉が話を続ける。


「そしたら玄関からずっと血を流して歩いてる跡があったから、この足の大きさは伊織くんだって。」

「違う人だったら、どうしたんですか。」

「それはもう仕方ないよね。襲われるのを待つしか。」

「待つんじゃなくて、その時も逃げてください。」


義姉は巻いている包帯を止めると、僕の足裏を撫でた。


「下駄はどっかに捨てちゃった?」

「走るのに、邪魔だったので。」

「そっか。」

「あの。義姉さん。」


僕は義姉に兄のことを尋ねようとした。

しかし、義姉を呼んだところで言葉が詰まってしまう。

それを察したのか、義姉は救急箱の中身を片付けながら話す。


「日本橋はね、壊滅状態だって。」

「・・・・・。」

「だから、まだね。連絡が来てないの。」


義姉は多分。

兄が助かっていないことも、考えているのかもしれない。


「けど、あの人ならちゃんと逃げてるかもしれないですし。」

「そう信じたいよね。私だって、嫌だもの。」

「だから、待ちましょう。絶対に、帰ってきますから。」


僕は義姉の両手を取って、そう言う。

義姉は僕の顔を見るや、また涙を流した。


「そうね。ふらっと帰ってくるかもしれないよね。」

「義姉さんや僕のことをいつでも心配するような人ですから、絶対に帰ってきます。」

「ごめんね。こんなに弱いお義姉ちゃんで。」


義姉はそう言うと、僕をまた抱きしめ僕の肩の上で泣いた。

子供みたいに、でも声はあまり出さずに。

僕は、そんな義姉の背中をさすってやることしか出来なかった。


-

日没の時間になるのが、今日は物凄く早く感じた。

いつももう少しだけ長く感じるのに。

それもまだ、夏が少しだけ残っているのに。


また大きな揺れが来ると危ないからと。

義姉は火をつけずに作れる夕飯を、少しだけ片付けた台所で作っている。


この時間になっても、まだ兄からの連絡はない。

もう少し時間が経ったら、僕自身も日本橋付近を見に行くとしよう。


家から少し行った高台で、遠くに燃え広がる火事を見ながら、そう思った。

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