第20話 お金を払えば、何度でも[6]
いま、しのは路地の自販機の前に立っている。
白い光が、夜の輪郭を切り出していた。
壁のザラつき、排水溝の黒、濡れたアスファルトの薄い反射。
光が強いほど、静けさが深く見える。
しのは息をひとつ整えた。
鼻から吸って口から吐く。
吐く息が白くならない季節なのに胸の奥だけが冷えている。
――断ったのは、あの上司の言葉の延長だった。
止まって、息して、それから決める。
決めるのは依頼者自身だ。
そのために自分が“判断の代行”になってはいけない。
言葉を渡す仕事を始めてから、しのは境界線を守ることを「技術」だと考えるようになった。
優しさではなく技術。
気持ちよくさせないこと、安心を売らないこと、依存をつくらないこと。
それは冷たさではなく、長く続けるための手順だ。
—――そう分かっているのに。
今日は、その手順が薄い紙みたいに揺れている。
風が吹けば破れそうな薄さ。
破れたら戻すのに時間がかかる薄さ。
しのは自販機のボタンの配置を目で追った。
烏龍茶、緑茶、ほうじ茶、コーヒー。
押すわけでもないのに、指先が勝手に動きたがる。
“すぐ反応したい”癖が、生活の端々から顔を出す。
――すぐ返す。すぐ整える。すぐ埋める。
――空白を嫌って、埋めてしまう。
その癖は昔、会社員だったころに身についた。
返信が速い人は仕事ができる。
先回りできる人は評価される。
止まらない人は頼られる。
頼られる人は代わりがきく。
でも今は分かる。
止まらない人は、止まれなくなる。
止まれなくなった人は、いつかどこかで倒れる。
倒れたら戻すのに時間がかかる。
白い光の中で、しのはもう一度だけ呼吸を整えた。
整える、という言葉が、少し苦い。
整えるのは得意だ。だから怖い。
得意なことほど、暴走しやすい。
スマホが震えた。
手のひらの上で小さく跳ねる振動は、生活の音よりはっきりしていた。
交通量の少ない路地。遠くのエアコンの室外機の唸り。
その全部より、スマホの震えのほうが近い。
画面を見なくても分かった。
ひなたからだ。
分かってしまう、という感覚が嫌だった。
予測できる。先回りできる。
その能力が依頼者を救うときもある。
けれど同時に、その能力が依頼者の“判断の機会”を奪うときもある。
しのは一度だけ、手を止めた。
止めることを、わざと選んだ。
通知を開く前に呼吸を整える。
自分の中の“すぐ返したくなる癖”が、顔を出しているのが分かる。
その癖は善意の顔をしている。
「早く返してあげたほうが相手は安心する」
「放っておいたら危ないかもしれない」
「ここで見捨てたみたいになったら」
善意は便利だ。
善意は境界線を溶かす。
溶かしたあとに残るのは責任だ。
責任は取り返しがつかない形で残る。
通知を開いた。
短いメッセージ。
ごめんなさい。
もう一回だけ、お願いします。
褒めなくていい。
でも、今、止まりそう。
しのは画面を見つめた。
“止まりそう。”
その言葉は、ここ数時間でいちばん“真実”に近い響きを持っていた。
褒めが欲しい、ではない。
予約したい、でもない。
救って、でもない。
止まりそう。
自分の足元の感覚を、そのまま言葉にしている。
――止まりそう、という言葉は助けを求める言葉にも似ている。
――でも、助けを求めるのは判断だ。
しのは喉の奥が熱くなるのを感じた。
熱くなるのは怒りではない。
同情でもない。
昔の自分が、そこに重なるからだ。
改札の前で足が止まった朝。
あのときのしのは、止まっているのに「止まってはいけない」と叫んでいた。
ひなたの“止まりそう”は、止まりそうな自分を見ている。
見えている分、少しだけ前にいる。
それでも、危うい。
見えているから、余計に怖い。
しのは返信欄を開かなかった。
代わりにスマホを伏せた。
伏せた画面が黒くなり、その黒が白い自販機の光を吸い込む。
黒い鏡みたいに、しのの影を映す。
自分の顔がきちんとした顔をしている。
きちんとしているのに、胸の奥は揺れている。
返したら、ひなたはすぐ来る。
来て、また預ける。
預けて、また楽になる。
楽になって、また求める。
その繰り返しは、気持ちがいい。
短期的には確実に効く。
だからこそ、危ない。
効くほど、薬になる。
薬になるほど、切れたときの反動が大きくなる。
ひなたは褒めを欲しがっている。
でも本当は、褒めそのものではない。
“褒められることで決めなくて済む”状態を欲しがっている。
決めなくて済む状態は、楽だ。
楽だけど、判断の筋肉が痩せる。
痩せた筋肉で生活を持ち上げようとすると、いつか折れる。
それを繰り返すのは、ひなたのためにもならない。
そして、しの自身のためにもならない。
しのの中に、もうひとつの本音が浮かぶ。
——私は、ひなたを“必要としてしまう”かもしれない。
依頼が続くこと。
求められること。
「しのさんじゃないとだめ」と言われること。
それは、快感と似た形で胸に残る。
自分は役に立っている、という安心。
必要とされることで、存在が固定される。
しのはその快感を、危険だと知っている。
知っているから、余計に怖い。
境界線を守るのは、依頼者のためだけじゃない。
自分が“いい人”の顔をした依存に飲み込まれないためでもある。
ここで境界線を引かなければ、いずれ言葉は薬になる。
その薬は、依頼者を一瞬救って、長い時間を奪う。
しのは、元上司——栗原雅子の声を思い出して、心の中で繰り返した。
――止まって、息して、それから決めなさい。
止まることは、悪いことじゃない。
止まるのは、判断のため。
判断を、相手に返すため。
相手が相手の人生のハンドルを握るため。
しのは返信を打った。
短い。
説明を削った。
説得もしない。
ここで長く書けば書くほど、ひなたは“読むことで預ける”ことができてしまう。
預けてしまえば、また楽になれる。
そのルートを、わざと閉じる。
いま返事を急ぐと、また私に預けてしまう。
だから、今日中には返しません。
明日の昼、こちらから連絡します。
それまで、あなたが止まる場所を一つ決めてください。
打った文を読み返して、しのは一瞬だけ指を止めた。
冷たい、と思われるかもしれない。
突き放された、と感じるかもしれない。
その可能性が、胸の奥をちくりと刺す。
でも、その“ちくり”を理由に言葉を変えたら、境界線は溶ける。
溶けた境界線の先で待っているのは、依存だ。
送信ボタンを押す指が、ほんの少し震えた。
震えは、不安ではない。
責任の重さだ。
言葉を渡すのは、相手を動かすことでもある。
動かすなら、慎重に動かす。
動かす方向は、こちらが決めない。
ただ、止まれる場所を作る。
“止まる場所を一つ決めてください”
それは、セッションの代わりではない。
薬の代わりでもない。
生活の中に、ひなた自身の手で置ける小さな柱だ。
そこに寄りかかってもいい。
でも、寄りかかる柱は、しのではなく、ひなたが決める。
送信のあと、既読がつくまでの時間が怖い。
怖いのに、画面は見ない。
見てしまうと、自分が追いかけてしまう。
追いかけると、結局“預かる側”になる。
しのは自販機で温かいお茶を買い、缶の熱を掌で確かめた。
熱がある。
熱があるのに、落ち着いている。
——熱は、悪者じゃない。
——熱があることと、暴走することは違う。
しのは缶を握り直し、金属の丸みを指でなぞった。
ここにあるのは単純な熱だ。
言葉みたいに、誤解しない。
誤解させない。
握れば握ったぶんだけ、掌が温まる。
その素直さが、今はありがたい。
しのは歩き出した。
帰るためではない。
今日は、いつもより少し遠回りして帰る。
遠回りをする理由を、しのは自分で自分に説明した。
“止まることを、生活の中に残すために。”
止まるという技術は、依頼者だけのものじゃない。
しの自身もまた、止まらないといけない。
止まって、息をして、決める。
明日の昼に連絡する。
その決めたことを守る。
守れたら、自分の境界線は今日も生き延びる。
歩きながら、しのはひなたの顔を思い浮かべた。
若い、という言葉の中に隠れる未熟さと、若いからこそ持っている敏感さ。
敏感だから傷つく。
敏感だから立ち直りも早い。
その“早さ”を、薬で奪いたくない。
——止まることを覚えた人は、また歩ける。
——歩き方を他人に預けなければ。
しのは缶のお茶を一口飲んだ。
熱が喉を通る。
喉の奥の固さが少しだけほどける。
息が、深くなる。
夜の街は何も変わらない。
路地の影も看板の灯りも、遠くの車の音も。
世界は変わらない。
変わるのは境界線を守る自分の決意だけだ。
しのは遠回りの角を曲がった。
明日の昼が、少しだけ遠く感じる。
遠いのに、近い。
近いのに、重い。
それでも――。
止まることは、悪いことじゃない。
その事実を今日も自分の足元に置いたまま、しのは歩き続けた。
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