第4話 褒め屋は検索すれば出てくる[4]

圭一は椅子から立ち上がれなかった。

足に力が入らない。

心臓がまだ速い。


泣き終わったはずなのに、胸の奥がずっと熱い。

熱いのに冷える。

矛盾したまま身体だけが現実に戻ろうとして、うまく噛み合わない。


手のひらを膝に押し付ける。

自分の体温がある。

膝の骨の硬さも分かる。

分かるのに、どこか遠い。


「……」


声を出すと割れそうだった。

割れるのが怖い。

割れてしまったら、もう戻れない気がする。

さっきまで、確かに“戻れない”場所に片足を置いていた。


ここは静かな部屋だ。

白い壁。

窓から差し込む薄い光。

白い机。

椅子が二脚。

それだけ。


それだけなのに圭一にとっては、今この部屋が“外”よりずっと危うかった。

外はいつも通りだからだ。

いつも通りの世界に戻るには、今の自分は少しだけ柔らかすぎる。


しのは、圭一の正面に座ったまま、余計な動きをしなかった。

メモ帳を閉じない。

だからと言って書きもしない。

ペン先の音も立てない。


「終わり」の気配を、なるべく小さくするための態度に見えた。

“はい、時間です”と切り分けない。

ここに置かれたものが、急に床へ落ちないようにしてくれている。


圭一は目線を机の端に落とした。

角の直線が、やけにくっきり見える。

機械のような直線。

直線は落ち着く。

歪んだものより、まだ扱える気がする。


礼を言うべきか。

何か気の利いた言葉を言うべきか。

「ありがとうございました」くらいは、言わなければいけない。


そう思うのに、口が動かない。

口を動かした瞬間、さっきの涙が「続き」になってしまう気がした。

“続き”にしたら、たぶんまた崩れる。

崩れるのが嫌なのではなく、崩れた自分を自分が見たくない。


でも、どれも違う気がした。

この時間に対して、それは正しい言葉じゃない。


「ありがとうございました」は礼儀の言葉だ。

礼儀は軽い。

軽いから便利だ。

便利だから、圭一はずっとそれだけで生きてきた。


だけど今日は、軽い言葉で片づけるのが怖かった。

軽い言葉を置いた瞬間、さっき受け取ったものまで軽くなってしまいそうだった。


喉の奥に残った言葉を探して、圭一はようやく口を開いた。


「……また、来てもいいですか」


出した瞬間、自分で驚いた。

いまの自分が、その言葉を言えると思っていなかったからだ。


依存したいわけじゃない。

救われた、と思いたいわけでもない。

そもそも、救われたなんて言葉を口にしたら、全部が嘘っぽくなる。


ただ、もう少しだけ、息ができる場所が欲しかった。

“息ができた”という感覚を、忘れたくなかった。

忘れたら、また元の息の浅さに戻る。

戻ったら、今度こそ、何も感じないふりが完璧になってしまう気がした。


しのはすぐに肯定しなかった。

一瞬、視線を落とし、少し考える。

その間が、圭一にはありがたかった。


即答で「もちろん」と言われたら、甘いお菓子みたいで怖い。

甘いものは一瞬で溶ける。

溶けたあとの空虚が、圭一は嫌いだ。

だから、間があるほうが信じられる。


しのは顔を上げて、ルールを確認するみたいに言った。


「いいですよ。ただし、頻度は一緒に考えましょう。褒めは、薬じゃないので」


薬じゃない。

その言い方が、またありがたい。


飲めば治るものじゃない。

頼りすぎたら危ないものでもある。

だから、距離を測る。


その距離を、しのは一方的に決めない。

一緒に考える、と言った。


“あなたのために”という押し付けではなく、

“危ないものは危ない”という事実として言われた気がした。

それが、圭一にはちょうどよかった。


圭一は、深く頷いた。

頷いたつもりだったのに、首が少しだけ遅れてついてくる。

身体がまだ追いついていない。


「……ありがとうございます」


やっと礼儀の言葉が出た。

でも今度の「ありがとうございます」は、いつものものと違った。

軽い礼儀にしたくない、という気持ちが混ざっている。


しのは、頷くだけだった。

「どういたしまして」とも言わない。

受け取るべきものだけ受け取って、余計なやりとりを増やさない。


その距離が、しのの仕事の温度だった。


圭一は立ち上がる。

膝が少しだけ笑いそうになる。

笑うな、と心の中で言う。

笑ったら、みっともないが増える。


でも、増えてもいい気がした。

みっともないものが出たあと、まだここにいられる。

それを今日、圭一は知ってしまった。


ドアの前で靴を履く。

靴ひもを結ぶ指が、いつもより丁寧になる。

丁寧にする理由がないのに、丁寧にしたくなる。

丁寧にすると、崩れたものが少しだけ整う。


「……失礼します」


圭一は言って、ドアを開けた。

しのは見送る目をしていた。

見送るけれど、追わない目。

追わないのに、見ている目。


圭一は階段を下りる。

足音が、さっきよりも軽い気がした。

軽い、と言っても浮ついた軽さじゃない。

重い荷物を一つ降ろしたあとに残る、脚の軽さに近い。


踊り場で一度、手すりに触れる。

冷たい。

冷たいことが、現実を教える。

現実は、怖いが、安心もする。


外に出ると、日差しが白くて眩しかった。

圭一は思わず目を細め、立ち止まって深呼吸をする。


吸う息が冷たい。

吐く息が白い。

白い息が、すぐに消える。

消えるのに、胸の中は消えない。


信号の位置は変わらない。

駅の看板も、雑居ビルも、朝の匂いも同じだ。


――世界は何も変わっていない。


それなのに、自分の胸の奥に、言葉だけが残っている。

異物みたいに。

でも、不快ではない。

異物なのに、痛くない。

むしろ、そこにあることで呼吸が少しだけ楽になる。


「助けを求めるのは、判断です」


その言葉が、胸の中で小さく反響する。


――判断。


弱さじゃない。

情けなさじゃない。

――判断。


“判断”という言葉は、圭一の中でまだ硬い。

でも硬いからこそ、折れない気がした。

柔らかい励ましは、風で飛ぶ。

硬い言葉は、残る。

残るから、時々痛む。

痛むけど、消えない。


歩きながら、圭一はスマホを取り出した。

三枝しののアカウントを開く。


フォローを押す指が震える。

押した瞬間、通知が相手に行く。

それが少し怖かった。

相手に「見られる」ことが、まだ怖い。

見られたら、また分類される気がする。

弱い人。情けない人。依存する人。


でも――。


“見られない”世界に慣れすぎると、

自分が消える。

さっきの部屋で、それも少しだけ分かった。


それでも、圭一は押した。


フォロー中、の文字が表示される。

たったそれだけのことなのに、胸が詰まる。


自分は、いま確かに、誰かを見つけた。

褒める仕事をしているだけの人。

なのに、なぜか放っておけない人。


圭一は歩きながら、胸の中で問いを繰り返す。


――三枝しのは、何者なんだろう。

――どうして、あんな言葉を、あんな温度で言えるんだろう。


それは、憧れでも恋でもない。

もっと乾いていて、もっと切実なものだ。

“自分にも、あんな温度が持てる日が来るのか”という、薄い希望に近い。


冬の街を、ひとり分の足音が進んでいく。

白い息はすぐに消えたが、胸の中の言葉だけは消えなかった。


圭一は気づいていなかった。

その瞬間から、自分が「依頼者」ではなく「観測者」へ変わり始めていたことに。

褒めを受け取るだけじゃなく、“言葉が人をどう動かすか”を、無意識に追いかけ始めていたことに。


そして――

その観測は、いつか自分自身にも向く。

自分を裁くためではなく、

自分を見失わないために。


圭一はまだ、それを知らないまま、

駅へ向かう信号を渡った。

いつも通りの朝の中で、

いつも通りじゃない一行だけを胸に残して。

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