第3話 褒め屋は、検索すれば出てくる[3]

――「変だ」と言った瞬間に、呼吸だけが浅くなる


このまま話したら、みっともないものが全部出てしまう気がした。


喉の奥がひりつく。

自分の声が、部屋の空気を汚す気がする。

普段なら、言葉はもっと簡単に出る。

店で「いらっしゃいませ」と言うとき。

客に「袋はご利用ですか」と聞くとき。

決まっている言葉は、正しく出る。


でも今、ここで出る言葉は決まっていない。

決まっていない言葉は、たいてい自分を傷つける。


圭一は、耐えきれずに笑ってしまいそうになった。

笑いと言っても、明るいものじゃない。

「俺、何やってんだろう」という種類の笑いだ。


「……すみません、変ですよね。こんなの。褒めてもらうって」


言った瞬間、胸の奥が冷えた。

言ってしまった。

言葉にすると、いよいよ取り返しがつかない。


しのは首を横に振る。


「変ではないです。ただ、珍しいだけです」


淡々とした声だった。

慰めの温度じゃない。

裁きでもない。


「言葉をお金で買うことは、良い悪いじゃなく、必要な人がいる。私はそう思っています」


圭一は、その言い方に救われた。


良い悪いで裁かれない。

情けないかどうかで分類されない。

「変だ」と言った自分を、相手が笑わない。


それだけで、喉が少しだけ緩む。

緩んだ分だけ、怖さも増える。

緩むと、出てしまうからだ。

隠していたものが。


しのはペンを持ったまま、圭一を見る。


「佐久間さん。確認しますね。今日は、“褒められたことがない”という話で合っていますか?」


圭一は、すぐに頷けなかった。


“褒められたことがない”。

言葉にすると極端だ。

本当に一度もないわけじゃない。

たぶん。

でも、思い出せない。

思い出せないなら、ないのと同じだ。


圭一は、口を開けて、閉じて、それから小さく言った。


「……はい。たぶん」


自分でも分かるくらい曖昧な返事だった。

“たぶん”を挟むことで、逃げ道を残している。


しのは、その逃げ道を潰さなかった。


「たぶん、で大丈夫です」


そこで少し間を置き、続ける。


「褒められたことがあっても、受け取れなかった人もいます」


受け取れなかった。


その言葉が胸の奥に落ちたとき、圭一は目を逸らした。

――それだ。

自分の中の何かが、小さく頷いてしまう。


褒められた記憶が「ない」わけじゃない。

ただ、残っていない。

残らないようにしてきた。


褒めを受け取ると、期待される。

期待されると、応えなきゃいけなくなる。

応えられなかったら、落ちる。

落ちるのが怖い。

怖いなら、最初から受け取らないほうが安全だ。


そういう癖が、いつからか身についていた。


しのは、圭一の表情を追い詰めるようには見ない。

ただ、話の筋を整えるみたいに、静かに言う。


「では、最初に一つだけ。今日は“褒められたことがない”ことを確かめに来た、で合っていますか」


確かめに来た。

その言葉に、圭一は少しだけ眉を寄せた。


“確かめる”。

そんな格好いいことじゃない。

ただ、限界で、逃げ込んできただけだ。


圭一は、反射で否定しそうになった。

でも否定すると、話が進まない。


「……確かめる、っていうか……」


言いかけて止まる。

言い換えが見つからない。


しのは、その詰まりを急かさない。


圭一は、息を吐いて言った。


「……もう、どうしたらいいか分からなくて。だから……来ました」


“来ました”。

たったそれだけの言葉が、自分の耳に妙に生々しい。

自分で自分の行動を認めてしまう感じがした。


しのは、そこで、まるで事実を読み上げるように言う。


「佐久間さんは、ここに来ました」


圭一は瞬きをした。


「夜勤明けで眠いのに。お金も時間も使って。知らない人に会うのは怖いのに。……それでも、来ました」


胸の奥が、ふっと熱くなる。

熱くなるのに、嬉しいとは違う。

熱さは痛みに近い。


――そんなの褒めるのか。


頭が追いつかない。

褒めは、成果に対してされるものだ。

何かを成し遂げた人に向けて。


「これ、すごく難しいです」


しのは淡々と続ける。


「できない人のほうが多い。だから、まず私はそこを拾います」


拾う、という言い方が、妙に引っかかる。

拾われたくない。

自分は落とし物じゃない。

落とし物みたいに扱われると、余計に情けなくなる。


圭一は、反射的に口を開いた。


「……そんなの、当たり前じゃないですか」


声が少し強くなったのが、自分でも分かる。

防御が出た。

いつもの癖だ。

肯定されたときほど、否定で返す。


「困ってたら……来るでしょ。普通……」


しのは首を横に振る。


「当たり前じゃないです」


声を荒げない。

でも、迷いがない。


「来られない人のほうが圧倒的に多いです。困っていても、助けを求められない人のほうが多い」


圭一の言葉が、そこで行き場を失う。


――来られなかった側を、知っている。


同僚で、急に来なくなった人。

無断欠勤のまま消えた人。

「体調を崩して」ってだけ伝えられて、戻ってこなかった人。

誰も詳しいことは言わない。

言わないほうが楽だから。


「佐久間さんは、助けを求めるのが上手です」


上手。

褒め言葉のはずなのに、居心地が悪い。


「助けを求めるのは、弱さじゃありません。判断です」


判断。


その言葉を聞いた瞬間、圭一の胸の奥がざわつく。

逃げたんじゃない。

弱いから頼ったんじゃない。

選んだ――と、言われた気がする。


選べる人間だと、言われた気がする。


圭一は笑おうとして失敗した。

喉が鳴る。

目が熱い。

泣くのはダメだ。

ここで崩れたら、余計に情けない。


情けない、という言葉が、また自分を殴る。


「……俺、何もしてないんです」


声が震えた。

震えているのが恥ずかしい。


「ずっと夜勤で、帰って寝て、また行って。何も……」


“何もしてない”。

いつも使ってきた盾だ。

自分を小さくしておけば、誰も期待しない。

期待しないなら、落差がない。

落差がないなら、痛くない。


そうやって生きてきた。


しのは、少しだけ首を傾けた。


「何もしてない人は、夜勤を続けられません」


圭一の呼吸が止まる。


「夜勤は、生活のリズムが壊れます。体力も削れます。人間関係も薄くなりやすい。……それを続けている時点で、何かをしています」


圭一は、反論したくなる。

続けているだけだ。

やめられないだけだ。

辞めたら金が困るだけだ。

生きるためにやってるだけだ。


そんなものを“何かをしている”と言われても困る。


でも、困る理由が分からない。

困るほど、胸が痛い。


しのは、圭一が言った言葉を拾っていく。


「佐久間さんは“必要とされてるのはレジ係として”と言いましたね」


圭一は小さく頷く。


「私はそれを“役割”と呼びます」


役割。


その言い換えが、胸の奥に灯りをつける。

当たり前の言葉なのに、初めて言われた気がした。

自分には役割がある。

それは、誰にでもあるはずなのに、今の自分には無いと思っていた。


しのはペン先をメモ帳に落とす。

カリ、と乾いた音がして、圭一の心臓が少し跳ねる。


「次に、一つだけ聞きます」


圭一は身構えた。


「もし“褒められた”としたら、何を言われたいですか。理想でいい。嘘でもいいです」


逃げ場がない質問だった。


言われたい言葉なんて、持っていない。

持っていないと思ってきた。


圭一は口を開けて、また閉じる。

頭の中が真っ白になる。

空白が増えるほど、胸が痛い。


――ない。

――本当に、ない。


でも、沈黙の中で、自分の奥から何かが浮いてくる。


言われたい言葉。

ずっと喉の奥に引っかかっていた言葉。


圭一は、絞り出すように言った。


「……頑張ってる、って」


言った瞬間、胸の奥がひゅっと縮む。

そんな言葉を欲しがる自分が、恥ずかしい。


しのは頷いた。


その頷きだけで、圭一は限界に近づく。

頷かれると、確定してしまう。

自分がそれを欲しがっていることが。


しのは、そこで一呼吸おいて言った。


「分かりました。では、仕事として言いますね」


仕事として。

その前置きが、ありがたい。

信じなくていい。

受け取らなくていい。

そう言われている気がする。


しのは淡々と、しかし丁寧に言った。


「佐久間さんは、頑張ってます」


圭一の胸が、ぎゅっと縮む。

痛い。

嬉しいより先に痛い。

胸の奥の柔らかいところに、針を刺されたみたいだ。


「頑張ってないふりが上手いだけです」


その瞬間、圭一の防御が一枚剥がれた。


頑張ってないふり。

――そうだ。

ずっとそうしてきた。

頑張ってると言われたら困る。

困るのは、頑張ってることがバレると、次も頑張れと言われるからだ。

頑張れない日が来たら、落ちるからだ。


「頑張ってない人は、こういう相談をしません」


圭一の視界が揺れる。


「頑張ってない人は、“自分が情けない”って感情すら持ちません」


涙が、勝手に落ちた。


慌てて袖で拭う。

恥ずかしい。

でも止まらない。

止めようとすると、もっと出る。


――防御が、言葉ごと崩れていく。


「……っ」


声にならない音が漏れる。

みっともない。

でも、みっともないものが全部出てしまう気がした、その通りになっている。


圭一は、震える声で言った。


「……なんで、分かるんですか」


問いというより、縋りだった。

自分の中の何かが壊れていくのを、止めてほしいのかもしれない。

あるいは、壊してほしいのかもしれない。


しのは、少しだけ目を細める。


「分からないです」


即答だった。

でも冷たくない。


「だから、佐久間さんの言葉から拾います。拾えることしか言いません。仕事なので」


仕事。

またその言葉。


なのに圭一は、その言葉でやっと泣けた。

“本気で優しくされている”感じがしないからだ。

同情されていない。

憐れまれていない。

ただ、拾えるものだけ拾われている。


それが、逆に救いだった。


圭一は、涙を拭きながら、息を吸う。

吸うと胸が痛い。

痛いのに、息が入る。

さっきまでの息苦しさとは違う。


しのは、圭一が落ち着くのを待ってから、静かに言った。


「佐久間さん。今日ここまで話せたこと自体が、もう“頑張ってる”の証拠です」


圭一は首を振りたい。

違う、違う、と言いたい。

でも首が動かない。

否定する力が、今は残っていない。


――防御が崩れたあとって、こうなるのか。


ただ、受け取ってしまう。

受け取りたくないのに、受け取ってしまう。


「……俺、」


声を出すと、また泣きそうになる。


「俺、褒められたいっていうか……」


言いかけて止まる。

言うと、さらにみっともなくなる。


しのは言った。


「言い切らなくて大丈夫です」


圭一は、そこで初めて、ちゃんと息を吐けた。

言い切らなくていい。

まとめなくていい。

結論を出さなくていい。


その許可が、圭一には大きかった。


「……すみません」


また謝りそうになる癖が出る。


しのは首を横に振る。


「謝らなくていいです。いま起きているのは、佐久間さんの反応として自然です」


自然。


その言葉が、胸の奥に残った。

弱いから泣いているんじゃない。

ダメだから崩れているんじゃない。

“自然”。


圭一は、涙を拭きながら、ぽつりと言った。


「……俺、ずっと、“情けない”って思ってました」


しのは、短く頷く。


「はい」


たったそれだけ。

でも、聞いている、という合図だった。


「情けないって思うの、やめようとしても……やめられなくて」


圭一は、自分がこんな話をしていることに驚く。

普段、誰にも言わない。

言うと、余計に情けなくなるから。


でも、今は出てしまう。


「夜勤明けって、頭が回らないじゃないですか。で、帰って寝て、起きたらもう夕方で。世界が置いていかれてる感じがして……」


しのは遮らない。

相槌も最小限。

圭一の言葉が自分の耳に戻ってくるのを、待っている。


圭一は続けた。


「SNSとか見ると、みんな……普通に昼の時間に生きてる。旅行行ったり、家族で出かけたり。俺は……コンビニの裏から出て、白い息吐いて、スマホで“褒めてほしい”って検索して」


言った瞬間、また胸が痛い。

みっともない。

でも、言った。


言ったら、消えるかと思った。

でも消えない。

むしろ形になった。


しのは、その形を崩さないように言った。


「佐久間さんは、いま“自分を客観視する言葉”を出せています」


圭一は、ぼんやりと聞き返す。


「……客観視」


「はい。自分を『こうだ』と言える。これは簡単ではありません」


圭一は、首を振りそうになる。

そんな大したことじゃない。

そう否定したい。


でも、もう否定の勢いがない。

否定すると、また苦しくなるのが分かってしまった。


しのは、静かにまとめるように言った。


「佐久間さん。今日ここで起きていることは、“褒めが欲しい”というより、“裁かれずに言葉を置ける場所が欲しい”に近いかもしれません」


圭一の胸が、また少しだけ反応した。


裁かれずに。

言葉を置ける。


――そうだ。

それが欲しかった。


褒めは、そのための入口だったのかもしれない。

褒めという形なら、言い訳ができる。

「褒めてほしいから来ました」と言えば、弱音を言ったことにならない。

相談じゃない。

ただのサービス利用。

そういう顔ができる。


圭一は、その事実に気づいて、少しだけ笑ってしまった。

今度の笑いは、自嘲じゃない。

“ばれてしまった”笑いだ。


しのが言う。


「ここまでで、十分です」


十分。

その言葉で、圭一の肩の力が少し抜けた。


時計を見ると、まだ時間は残っている。

でも、残り時間を埋めなくていい、と言われた気がした。

埋めるために喋ると、また防御が戻ってくる。

防御が戻ると、今日の崩れがなかったことになる。


圭一は崩れたままで、少しだけ息をしていたかった。


「……今日の言葉、信じなくていいです」


しのは続ける。


「覚えてなくてもいい。だけど、もし少しだけ残ったら、それで充分です」


圭一は頷いた。

頷くしかなかった。

“信じなくていい”と言われたのに、もうどこかで信じかけているから。


圭一は、涙の跡が残った袖口を握りしめて、息を吐いた。

その吐いた息が、さっきより長く続いた。


――自分は、まだ、呼吸できる。


ただ、その事実だけが、部屋に残っていた。

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