同じ部屋 昼は私で夜は君

みなとさがん

同じ部屋 昼は私で夜は君1~3【昼間と夜】

1.


 白い光が暗い室内を切り裂くように斜めに差し込んでいるのを見て、浦地深玄(うらち・みくろ)は遮光カーテンを両手で大きく押し広げた。

 その瞬間、部屋は一気に眩しく輝きベッドの上で仰向けになっていた日面満白(ひおもて・ましろ)はうめき声を喉の奥から絞り出しながら両手で顔を抑えた。

「起きなよ。今日は予約があるから早く出ないといけないんでしょ」

 満白の返事を聞く前に深玄は他のカーテンも次々と開き、ダイニングに行ってコーヒーメーカーの準備を始めた。

 ようやく部屋の眩しさに慣れてきた満白はのろのろとベッドから体を起こすと、その場で大きく伸びをして欠伸をしながらキッチンに入っていく。

「お帰り、深玄。おつかれさま~」

「ただいま、満白。朝食食べる? 時間まだ大丈夫ならそれ、どうぞ」

 小さなダイニングテーブルの上にはビニール袋の中に入った15センチ四方くらいの箱が置かれていた。満白が取り出すと側面には【Black Cardinal(ブラック・カーディナル)】とおしゃれな筆記体でロゴが書かれているのがわかる。

「お店の余り、もらってきたんだ」

「うん。昨日は夜寒かったからサンドイッチの売れ行きがあまりよくなくて」

 開いてみると角に丸みのある耳付き白パンに挟まれたスモークサーモンとクリームチーズが目に入った。間のオニオンとレタスがこぼれないように気を使いながら一つつまみ上げると、満白はそのまま入るところまで大きく一口でかぶりついた。

「あ! 行儀悪いな。コーヒーができてからにしなよ」

「だって美味しそうだったから。じゃ、先に顔洗ってくるね~」

 口元をもぐもぐさせつつ、後頭部に寝癖をつけた満白が洗面所に向かったのを見送りながら、深玄は2人分のカップを用意した。箱からサンドイッチの残りを取り出すと丁寧に皿の上に並べていく。途中で思いついて野菜室からクレソンを一本ちぎって斜め乗せる。ついでに残っていたラディッシュをスライスして隣にそえると普段から店で盛り付けていたそのものに近くなった。たださっきつまみ食いをされた分、形が若干いびつになっていることが不満ではあったが。

 そんなこんなで深玄が丁寧にテーブルセッティングをしていると、朝のスキンケアを終えた満白がタオルを首にかけて戻ってきた。

「わ! すっごく丁寧に準備してくれたんだ。朝から働き者だね~」

「これから働きに出る満白へのささやかなサービス。そっちが出かけたら私はゆっくり寝るから、気持ちよく食べて早く出ていって」

 それがいつもの軽口であることを理解している満白は上機嫌なままテーブルについた。いただきます、と手を合わせるとさっき食べかけたスモークサーモンのサンドイッチの続きを口に入れる。

「昼間のうちにやっておく家事って何かある?」

「んー? そうだ、ひさしぶりにあのブラッドオレンジのジュース飲みたいから買ってきてほしい。それと、さっき歯磨き粉新しいの開けたらストックがなくなったんで早めに補充しておいて」

「わかった、あとは?」

 満白からの申し送りを深玄はサイドボードの上のメモ帳に書いていく。最後に復唱をすると満白はオッケー、と笑ってコーヒーカップを片手に指でOKのサインを作る。

「今日は多分遅くなるから、私が帰って来るの待たないで出勤して。夕食は外で適当に食べるんで用意はしなくてもいい」

「わかった。じゃ、次に会うのはまた朝かな」

 そこで満白は壁掛け時計を見上げて「やばっ」と声を出すと慌てて食器をシンクに運んでクローゼットから服を選びメイク用具を持って再び洗面所に消える。その様子をのんびりと見ながら、深玄は少しずつ眠気が訪れてきたのを感じる。

「行ってきます! ゆっくり休んでね、深玄」

「うん。頑張ってね、満白」

 慌ただしくかかとに低めのヒールをつっかけながら満白が玄関のドアを閉じた。

 コンクリートの地面をコツコツと叩く足音が遠ざかり、階段に向かったのを確認してから深玄は内側から鍵をかけた。少し迷ってから、チェーンもはめる。

「さてと。まずは洗い物を片付けてと」

 一人残された部屋をぐるりと見回してから、深玄は腕まくりをした。満白が残していった洗い物を手早く済ませ、さっき書いたメモ帳をテーブルの目立つところに置くと、つい大きな欠伸が出た。

 手早くシャワーを浴びて部屋に戻り、髪の毛を乾かしながら一人になった部屋のベッドに腰を下ろす。

 ゆっくりと体を横たえて枕に頭を乗せるとほんのりと満白の髪の匂いがした。


 浦地深玄がこの部屋を最初に訪れたのは4~5ヶ月ほど前のことだ。

 もともとこの1DKのマンションは日面満白が就職をしてから住み始めた一人暮らし用の部屋だった。

 二人は中学校の同級生で、高校進学とともに深玄が遠方に引っ越していくまで親しく友人づきあいをしていた。

 比較的裕福な家庭であった満白に対して深玄の家は学校で必要な教材を購入するのも遅れるほど苦しい状況におかれており、それが原因で他の同級生たちはなんとなく深玄とは距離を取っていた。

 満白も最初はそれほど親しくしていたわけではなかったのだが、ある日校内で盗難事件が起きたときに満白を最後までかばってくれたのが深玄だった。

 満白の入っていたバドミントン部で練習中に財布がまとめてなくなるということが起きた。

 その日満白は朝から具合が悪く、練習の途中で部室で休憩をしていた時間帯があったことから容疑者として吊し上げにあったのだ。

 そこで通りかかった深玄が、満白は部室に数分しか滞在しなかったことや教室に忘れていた薬をとりに行ったことなどを説明することで無罪を証明してくれたのだった。結局あとでわかった犯人は生徒たちから人気があった学校事務の若い男性職員で、その後解雇になったことから他にもいろいろやっていたらしい。

 その時に自分も疑われるかもしれないリスクをおかしてでも最後まで自分をかばってくれたということで、満白は深玄に強く信頼を寄せるようになった。

「この恩はいつか返すからね」

「じゃ、その時には利子つけといて」

 そんな会話をしたことを、満白はその後10年近くずっと忘れずにいた。

 だからお互い24歳になる時に、突然深玄から連絡を受けたときに満白はその頼みを断るという考えは全くなかった。

 深玄は結局ギリギリで地方の高校を卒業してすぐに都会に身一つで出てほそぼそと仕事をしていた。しかしそこでもトラブルに巻き込まれ、それまで住んでいたシェアハウスを追い出されたところだった。

 帰る家もなく、どうしようかとスマホにかろうじて残っていた電話番号から満白に連絡をしたところ「じゃあ、とりあえず家に来る?」と声をかけられた。

「何年も会ってないやつをいきなり家に上げるって、抵抗ないの?」

「うーん。じゃあ、会ってみて考える」

 だけども満白は久しぶりに深玄の声を聞いた時点で大丈夫だろうと思っていた。論理的な説明は無理だけど、直感的に深玄の人間性の根っこのような場所は変わっていないことがわかったからだ。

 そして本当に久しぶりに会った深玄は中学校時代の面影を残したまま、自然体のきれいな印象の女性だった。

 初めて満白の部屋で一緒に泊まった夜はさすがに布団をもう一つ敷いて寝た。

 それから数日その部屋に滞在しながら仕事を探して、一ヶ月がすぎる頃には深夜のダイナーでの勤務に就くことができたのだった。

「引っ越しができるくらいまでお金貯めるの待ってもらえる?」

「いいよ。生活の時間帯も違うし、とりあえず仕事に慣れるまではいなよ」

 そんなふうにして始まった二人の生活だった。

 満白が勤めているのは【White Barbara(ホワイトバーバラ)】というレンタルルームと貸衣装のスタジオだ。他にも依頼者に応じて衣装をアパレルショップから調達してきたり、撮影や演劇などに使用するスタイルをイメージに従って提案をしたりといった仕事もしている。

 基本的には午前9時~午後6時が定時の仕事で、客先の予約によっては勤務時間は変化するものの昼間働いて夜に休む一般的な会社員の生活スタイルとなっている。

 一方で深玄の見つけてきた仕事は【Black Cardinal(ブラックカーディナル)】という空港に併設されているビル内のダイナー・カフェである。こちらは深夜便や早朝便を利用する人のための24時間営業の休憩所となっており、カウンター席と数個のテーブル席のみの小さなスペースを少人数で回す仕事となっていた。週休は2日あっても土日に休みをとれないことがほとんどなので、その点でも満白とは異なる。

 深玄のシフトは夜8時~朝5時までが定時で深夜料金で時給が割高であることに加え、まかないや早朝の食品入れ替えに合わせて扱っている軽食をもらえるというお得なポイントもあった。

 だから共同生活では満白と深玄はほぼ入れ替わりという形で同じ部屋を共有することになっていた。

 満白の仕事が長引けば、夜は出会えないまま仕事に出かけてしまう。二人が顔を合わせるのは朝の短い時間帯だけということも珍しくなく、そうしたすれ違いも共同生活においては都合がよかった。

 二人で生活するなら、ちゃんと広い部屋に引っ越した方がよいのでは? と満白は思ったこともあったが、結局二人部屋にしてもこうして会える時間は短いので特に部屋を狭いと思うこともない。

 それでも寝床くらいは二つ用意した方が、という考えも数日その生活スタイルを続けていたらわりとどうでもよくなった。

 横になったときに微かに感じるお互いの気配のようなものが、口には出さないものの二人にとっては心地よいものになっていた。


 深玄が深い睡眠から目覚めると、時刻は午後2時半だった。

 カーテンを開けて外の景色を見るとすっかり日差しは明るく午後の暖かさを伝えていた。

 首を左右に揺らして肩のこりをほぐすと、深玄はベッドから抜け出し軽くストレッチを行った。着替えて食事をとったら、夕方の混み合う時間前にいつものショッピングモールに出かけて頼まれていた買い出しをしよう。

 そしてまた眠らない空港のダイナーで、朝までの長い時間を潰すお客さんのための食事を用意するのだ。

 深玄は今日これからの予定を頭の中で組み立てながら、ダイニングチェアの背にかけてある満白のパジャマをとって丁寧に畳んだ。


2.


 満白がスタジオ【White Barbara】で支度をしていると、時間ピッタリに予約していたお客さんが訪れた。

「お待ちしておりました。刃境(はざかい)様。こちらへどうぞ」

 刃境実採取(はざかい・みどる)はこのスタジオの常連客だった。

 満白がこのスタジオに配属されて間もない頃から利用をしており、今ではほとんど満白が専任となって依頼を受け、その注文通りのスタイルを提案するという流れが出来上がっていた。

 払いもかなりよく、店舗責任者の上司も積極的に満白に他の業務よりも優先して担当をさせてくれていた。逆に言うとそれだけ責任も重大ということで、満白は毎度の依頼にかなり気を使って丁寧に提案をするようにしていた。

 刃境実採取は年齢不詳の女性であり、ぱっと見ただけで実年齢を当てるというのはかなり難しい。その日の服装や雰囲気によって40代に見えるときもあれば10代後半の若者のように見えることもある。これはどうも本人が演劇関係の仕事をしていることが関係しているらしく、顔貌というよりもその年代特有の雰囲気を掴んで出すことが非常にうまいことからきているようだ。

 だたしレンタルスタジオということで、貸し出し前に身分証明書の提示が必須となっているのでそこで確認をすることはできる。そこで満白は彼女が今年28歳になるということを知った。

「本日のご依頼は、『建築現場で視察する女性設計者』でしたね。こちらでどうでしょうか」

 満白が現場を実際に回って確認しつつ探してきた工事現場用のユニフォームを取り出すと、刃境は丁寧にその材質やサイズ感などを確認した。早速試着をしてみるとぴったりと体になじみ、本来抜群にスタイルがよい刃境が完全にそのオーラを消すことに成功している。

「さすがだね。こういうの、パリパリの新品だとどうしても嘘くさく見えちゃうから。ありがとう」

 褒め言葉をもらった満白は嬉しさから浮かんでくるニヤけた笑顔を押し殺しつつ頭を下げた。

 この刃境という客が特殊なのは、単なる見た目のきれいな衣装だけでなくリアリティを追求した服装を多く注文するということだった。そこに求められるのはかなりの観察眼であり、だからこそ満白は毎回の依頼に神経を研ぎ澄ます必要が出てくる。

「一応現場で使用することの多い工具アイテムも用意してありますので、こちらもよろしければどうぞ」

 渡された工具やヘルメットを満足そうに受け取ると、刃境はよし、と会計を求めた。通常の貸衣裳よりも5~6倍はする価格設定をしているが、額に文句を言われたことは一度もない。

「じゃ、一週間レンタルってことで。返却は別の人が来るかもしれないけどいいでしょ?」

「はい。ご連絡いただければ大丈夫です」

 返却時にはレンタルした物品に大きな傷や汚れがついていないかをチェックするので基本的には契約者本人が訪れるようになっている。しかしこれまでの取引において、刃境は非常に扱いが丁寧であるということもあるという信用ができていたため例外的な対応が認められていた。実際に別の人間(おそらくはバイトなのだろうただの個人運送業者)が返却に来ることも今までにあった。

 刃境の注文はかなり不思議なものが多く、一つ一つで例外を認めていくうちに他の顧客とはかなり別格の扱いをするようになっていた。

 さすがに警察官や病院関係者のような衣装を頼まれたら犯罪への使用を怪しむが、刃境の依頼は演劇の衣装だと言われたらギリギリそうなのかと納得できるレベルにとどまっている。少なくとも今のところは。

 何にいつどう使うのかについて全く興味がないというわけではない。しかしこうして対応をしているときに質問できる雰囲気はなく、数回目の依頼事からは満白はこちらからは尋ねないことにしようと決めていた。世の中には知らないほうがよいこともある。万が一何かよくないことに関係していたとしても、知らないでやっていたとわかっていたとでは発覚後に受ける火の粉のサイズが違う。

 一通りの品物を梱包し、玄関先まで満白が刃境を送り出すためについていく。

「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」

 満白が紙袋を差し出すと、刃境は両手を差し出して取っ手の部分をつかむ。

 その時に軽く満白の手に触れた。

「あ、すみま……」

 反射的に謝りかけた満白に対し、刃境は手のひらを向けて制止の動作をした。

 言葉が止まったのを確認すると刃境は背後のガラス窓から店内に残っている他のスタッフの目線を確認し、それから自然に顔を満白に近づけた。

「ねえ、日面さん。もしよかったら今度食事でも行かない?」

「えっ?! あ、はい。何かお打ち合わせでしょうか」

 言われたときには始めは大きな仕事の打ち合わせか、もしくは他に紹介したい顧客がいるのかと思った。だけども冷静に考えてみればこのシチュエーションで仕事の話をするわけがないのだ。

「暇なときでいいからさ、今度夕食でも行こうよ」

「ええっと……その」

「嫌? そんな硬く考えなくてもいいのに」

 ちらりと店内に目を走らせる。幸いにして誰もこちらのことを気にしていない。

 満白はこのとき、自分が一番気にしているのは「あとから社内の人に責められないか」であることに気づいた。

「嫌じゃないです」

「よし! じゃ、決まりね。これ、私のFuReCO(フレコ)のアカウント。あとで何でもいいからメッセージ送って」

 そう言って刃境はポケットから名刺を一枚取り出してそっと満白の制服の胸元に差し込んだ。取り出して見るとそこには肩書のない名前と、フレコのアカウント名や電話番号が書かれていた。

「わかりました。夕方くらいになると思います」

 うん、と頷いて刃境は去っていった。

 去り際に軽く自分の唇に指をあててからぱっと放す仕草をした。

 すぐに社内に戻るには気持ちが高揚しすぎて、満白は長く見送りをしているふりをしてしばらく玄関で体を大きく折り曲げて地面を見ていた。


 すっかり日の落ちた夜空を窓越しに見ながら、深玄は食洗機からカップを取り出して並べていた。

 【Black Cardinal(ブラックカーディナル)】は環天スカイウェイ国際空港に併設されているビルの中のダイナーである。

 環天スカイウェイ国際空港は各国をつなぐハブ空港としても機能をしていることから24時間稼働をしており、深夜~早朝に発着をする便もそれなりにある。

 【ブラックカーディナル】はそうした中途半端な待ち時間を過ごす乗客のための場所の一つで、レストランに行くほど時間や空腹感がないという人や、バーなどでお酒を飲みたいわけではない人のために、つまむ程度の食事とおいしいドリンクを提供するというコンセプトで営業している。

 ちなみに一番の人気メニューは手作りサンドイッチで、近隣にあるパン工房から時間を分けて仕入れることで品質を保っている。

 ダイナーカフェというとミニスカートにフリルのついた露出度のあるウエイトレス制服をイメージされることも多いが、【ブラックカーディナル】は店名の通り黒を基調としたシックなデザインとなっている。

 黒地のブラウスに細身のストレートパンツ、ナチュラルカラーに観葉植物を模したロゴ入りのカフェエプロンをつけるだけというスタイルが深玄は気に入っていた。

 深夜便の集中しがちな午前0時を挟んだ前後一時間くらいの時間帯はそれなりに混雑をするが、そのピークをすぎると翌朝の便が始まる午前5時くらいまでは静かな時が流れる。

 遠くに光る街と港の明かりを見ながらBGMのチルビートを聴きつつ、大抵は一人でホールの店番をするのが深玄のいつものシフトの流れだった。

 誰もいない深夜の時間帯を好む一方で、時折訪れる奇妙な客の存在もまた深玄の楽しみでもあった。

 環天スカイウェイ国際空港の周辺には駅や港、商業ビルやホテルなど複数の建物がある。土地柄運送業の倉庫や大手商社のオフィスなどもあったりする。国籍不明の外国人もあちこちで見かける。

 どう考えても空港で暇つぶしをしているわけではないのだろうに、深夜の時間帯に軽装でふらりと訪れる1~2人くらいの客がたまに店では見られた。

 どこかで飲んで始発を待っているというならもっと〆にふさわしい食べ物を提供するラーメン屋やファミレス、飲み直すためにおしゃれなバーなどを訪れれば事足りるだろうに、わざわざコーヒーとサンドイッチの店に来るのはおかしい。

 そうした深夜の客の多くはコーヒーをゆっくり時間をかけて数杯飲み(【ブラックカーディナル】ではコーヒーおかわり自由のフリーリフィルサービスがある)、時折クッキーやパイを一つか二つ注文し、特に何かを話しかけるというわけでもなく静かに数時間を過ごして朝になる前に出て行く。

 勤務をしたばかりの頃に先輩のホール担当者にそうした客について尋ねたところ、静かに首を横に振っただけだった。あまり詮索はするなということである。確かに店に迷惑をかけているわけではない。不眠症で悩んでいる人かもしれないし、深夜の巡回業務をしている途中の休憩かもしれない。いずれにしても深玄は推測こそすれ自分からは確認をしないことに決めた。

 そんな深玄の生活サイクルの中に変化が起こったのは、勤務を始めてちょうど三ヶ月目に入った頃だった。

 その日はとても天気がよく、夜空には雲一つなかった。

 新月であったため空には月の光はなく、その分普段は見えないようなたくさんの星が輝いていた。

 旅行客も少ないシーズンで深夜1時を迎える少し前から客足は途絶えており、深玄は一人で誰もいない店内でのんびりと音楽に耳を澄ませていた。

「あの、ここいいですか?」

 気を緩ませていたとはいえ、間近で声をかけられるまで全く気配に気づかなかった。深玄はもう少しで悲鳴を上げてしまうところだったのをかろうじて踏みとどまった。

「すみませんでした。はい、もちろんです。どうぞ、お好きな席へ」

 深玄がいたのは10席ほどのカウンターの中央付近で、その女性はどうやったのか自動ドアを音もなくくぐり抜け、カウンター越しの正面から少し体を乗り出すようにして声をかけたようだった。

 女性は少し考えながら奥へと歩き、カウンター席の端で一番外の景色が見えやすい場所を選んで腰掛けた。深玄がマニュアル通りにグラス一杯の水と紙おしぼり1パックを差し出すと「ありがとう」と会釈をしてくれた。

「ご注文はお決まりですか?」

「じゃ、コーヒーのフリーリフィルを一つ」

 保温性の高い厚手のカップをソーサーに乗せ、深玄はコーヒーマシンからポットを取り出して慣れた手つきで注ぎ入れた。フリーサイズの場合、熱々の状態で飲み終われるように小さめのカップで提供することになっている。

 ミルクと角砂糖の入った容器を出そうとすると、不要だというジェスチャーなのか手のひらをこちらに向けるような仕草を返される。

 上品な仕草でソーサーごと持ち上げると、女性は熱さを確認するようにゆっくりとコーヒーに唇をつける。作り置きのためか熱すぎるほどの温度ではなかったようで、二口目からはしっかりと味わって飲み始めた。

 ようやく心拍数が平静に戻ってきた深玄は改めて女性の容貌を確認してみた。

 会社員にしてはやや大胆な服装ではあるが、夜職にしては落ち着きすぎる。薄手のコートの下のブラウスは角度によっては胸元がちらちらと見える絶妙なデザインだ。気にしないようにしていてもついついその動きを目で追ってしまう。膝を越える長さ丈のスカートも同様で、斜めにスリットが隠しデザインとして入れられており、足を組み直すと美しいラインの足が見えた。

 深玄は関係が深まるかどうか微妙な関係の相手とのデートのためのスタイルなのかな? と推理をした。

「何かここのおすすめの料理はない?」

「おすすめですか。一番人気なのはサンドイッチですね。日替わりで、本日は『ツナ&ピクルス』と『バジルチキン&トマト』のどちらかから選べます」

「サンドイッチかあ……。甘い物の方がいいな」

「でしたらアップルパイかチーズケーキがおすすめです」

 深玄がメニューの写真をテーブルに差し出すと、その女性はさらりと落ちてくる髪の毛を色っぽく耳にかけながらその説明文に熱心に目を走らせた。

 いくつくらいの人だろうか? とそのうつむき顔を見ながら深玄は考えた。化粧がやや濃いめということもあり肌艶からはわからない。ただ肌荒れもなさそうなので相当美容に気を使っている印象はあった。

 世慣れた20代のようでもあるし、気持ちの老けない40代のようにも見える。

「決めた! アップルパイにする。あと、コーヒーおかわり」

「わかりました。少々お待ちください」

 好きなものを注文してもいいよと言われた少女のように朗らかにオーダーをされた。深玄はますます相手の年齢がわからなくなり、それ以上は考えないことにした。どのみち本人に聞けない質問なのだ。

 奥の厨房にアップルパイ1つと伝票を通し、深玄は再びコーヒーメーカーからボトルをとってカップに注ぎ入れた。

「深夜のお仕事お疲れ様だね。お客さんも少ないだろうし、退屈じゃない?」

「そうでもありませんよ。こうして素敵なお客様とお話できるチャンスもありますし」

「ありがとう。えーっと『ウラキ』さんも素敵だよ」

 女性は深玄の胸のネームプレートを見てそう呼んだ。深玄の本名は「浦地(うらち)」だが、近年のカスタマーハラスメントやストーカー対策として微妙に変えている。

 そこで厨房との連絡窓が開いて温められたアップルパイにクリームが添えられたものが置かれた。深玄が軽くシナモンを振って「どうぞ」と差し出すと感極まったように手を合わせて女性は喜びの声を上げた。

「これよ、これ。やっぱり仕事がうまくいった日にはこのくらいのご褒美がほしいの」

「お仕事ですか。おめでとうございます」

「ありがと。今回は結構苦労したから、うまく行って本当に嬉しいんだ」

 何の仕事ですか? と聞きかけて深玄は口をつぐんだ。興味はあったが、まだ距離感をつかみかけていた。

「せっかくのお仕事成功のお祝いなのに、同僚の方たちとはご一緒しないんですね」

 そこで深玄はプライベートに入り込みすぎないレベルの質問にとどめておく。コミュニケーションにコンプレックスがある人に対しては機嫌を損ねかねない質問ではあるが、この女性に関してはそういうことはないだろうというところは推察していた。

「うん、そうなの。私のお仕事って仲間内で馴れ合っちゃうと次回からやりづらくなることもあるから。同僚はいるけどあんまり深入りしないようにしてるんだ」

「なんだから危険な匂いのする仕事ですね。もしかして国際警察の調査員だったり?」

「うふふ。どうだろうね」

 フォークで丁寧にパイを切り分けて一口分にぱくりと食いつき、う~と美味しそうに体をゆすりながら女性は答えた。

「なんてね、警察とかじゃないから安心して。でもね、お仕事については事情があって詳しく誰かに話すことができなくてね。ねえ、ウラキさんはおしゃべりな方?」

「え? いえ、多分違います。こういう仕事をしているとお客さんから色々なお話を聞くことがありますし。そういったものは安易に外に漏らすのは職業倫理的にNGだとお店にも言われてるんです」

 その答えに満足そうに笑った女性はゆっくりとコーヒーを飲み、口元を紙ナプキンで拭った。折りたたんだナプキンの内側に薄く口紅の赤色がラインが見えた。

「具体的な仕事の内容は言えないけどさ。でもこういう時ってまっすぐ部屋に帰る気持ちになれなくて」

「わかります。気持ちが高ぶって誰かと他愛もない話をしたいんですよね」

「そうそう。だからさ、こんな夜に安心して一緒にいてくれる人とかいたらなあって思ってたわけ。私のことを余計な詮索してこなくて、口が堅くて、優しく話を聞いてくれて」そこで一息ついて水を飲み、顔をまっすぐに向ける。「かわいらしくてかっこいい、ちょっとクールな雰囲気がいい感じの人がね」

 深玄はきょとんとして、自分への褒め言葉だと数秒遅れて気がついた。

 実はこういうことは今まで全く経験がないわけではない。そして断り方を間違ったために人間関係が荒れてしまうという苦い経験もしてきた。

 そこで一つ深呼吸をして、努めて冷静に笑顔を作る。

「ありがとうございます。私も、お客様のお話を聞くのが楽しくなってきました」

「ミドリ」

「えっ?」

「私の名前。『ミドリ』って呼んで」

 と、名乗った女性は頬杖をついてほんの少し上目遣いに深玄のことを見つめた。

 これは冗談ではなく本気ではないか、と深玄は察した。

「ありがとう。すごく美味しかった。また来てもいい?」

「ええ。この時間帯は店内も落ち着いていることがほとんどですし」

「ウラキさんのシフトは? 何曜日がお休み?」

 少し迷ったが、特に害もないだろうとこっそりと自分の入っている曜日を伝える。

「お店が終わってからどこかに誘うのはあり? なし?」

「ふふ。タイミングが合えば、ですね。今日は予定がありますので」

「ちえー。ま、こういうのは急ぎすぎない方がいいよね」

 そこで女性はハイブランドの財布をバッグから出すと、多めのお札を一枚カウンターの上に乗せた。

「お釣りはチップで。深夜も頑張ってるウラキさんに」

「あ、ありがとうございます……」

「じゃ、また今度ね。近い内に来るから、その時にはまたよろしく」

 もっと粘るものかと思っていたが、ミドリはあっさりとお店を立ち去った。

 突然ぽつんと残された形になった深玄はしばらくお札を握ったままその場に立ち尽くしてしまう。

 夢だったのではないか? とも思ったが、目を移したカウンターの前にはきれいに食べ終わったパイの皿とコーヒーカップがある。

 片付けようとして持ち上げると、ひらりと紙ナプキンが落ちる。

 拾い上げてよく見ると、そこにはいつ書いたのか「ミドリ」という名前の下にアカウント名らしき文字列が並んでいた。


3.


 ここ最近、満白の様子が変わってきていることに深玄は気がついていた。

 朝と夕方の短い時間だけの会話だが、その間だけでもぼんやりしていたり、かと思えば急に何かを思い出したように顔を伏せてニコニコとしていたりといった感じだ。

 ある日の朝、深玄は満白と朝食のテーブルを向かい合いながらその落ち着かない表情を見ていた。

「ね。もしかしてなんだけど」

「何?」

「恋人でもできた?」

 単刀直入な言葉にわかりやすく満白は戸惑った。必死に誤魔化そうとして首を振ったり、言い訳のようなものを並べようとしてみたりしたが、どれも明らかに不自然であることは自分でもわかったようですぐにやめて肩をすくめた。

「なんだ、それならそうと言ってくれればいいのに」

「違うの! 本当に。まだそういう関係じゃなくて。ただ、そうなるかもしれないっていうだけで。まだ全然立ち消えになる可能性だってあるからね」

 確かに、もう付き合い始めているのであればこんなふうにそわそわはしないかもしれないな、と深玄は思った。こういう自分の気持ちと相手の気持ちをあれこれ考えては会ったときのことを思い出しては喜んだり落ち込んだりするというのは付き合う直前ならではのことだ。

「でも、付き合う可能性もあるんでしょ。そうしたら、私。どうしたらいい?」

「どうって?」

「だから。そうなったら私は出ていった方がいいでしょ。できれば早めに時期を指定してもらいたいから……」

「ま、待って、待って。それはない。絶対にないから。そこまで先回りしないで」

 満白は思わず手を伸ばしてテーブル越しに深玄の腕をつかんだ。手首をぐっと、痛いくらいに握ってきた。

「もし付き合うことになっても、多分一緒に住むとかそういうのは絶対にないから」

「それって満白の予想? あんまり信じられないんだけど」

「なんかね、うまく言えないんだけど普通の人じゃないの。その人」

 深玄が「?」と首をかしげると掴んでいた手を放して満白は自分の口元に手をおいて考え込んだ。どう説明しようか必死にまとめているようだった。

「なんていうか、生活感がない人で。遊びじゃない……と思うけれども、一緒に住みたいとか将来のことを考えたいとかそういう感じじゃないの。ただ一緒に出かけたり、話をしたりっていうだけで」

「ねえ、それって怪しいよ。不倫とかだったらがっかりするからやめて」

「ううん。それも違う。うーん、なんて説明したらいいんだろう。とにかく、そういう心配は絶対にないから。深玄は心配しないで」

 そう言われると深玄は納得するしかなかった。

「逆にさ、深玄はここを出ていきたいの?」

「まさか! 私はお世話になっている側だし。ここに居させてくれるならありがたく居させてもらいたいよ」

「じゃあ決まりね、この話はおしまい。その、態度がおかしかったのは謝るね。もうちょっとして関係が落ち着いたらもとに戻ると思う」

 そこで強制的に満白は会話を打ち切り、少し冷めかけたクロックムッシュの続きにとりかかった。

 深玄はおいしそうに自分の手料理を食べる満白の顔を見て、やっぱりこの時間は自分にとって必要なんだなということを実感した。

「いつものことだけど、おいしそうに食べるね。私も自分の分作ろうかな」

「うん、おいしいよ。深玄も食べるんなら分けるよ」

「いい? ちょっとだけでよかったから助かる」

 そう言って満白はナイフとフォークで丁寧にパンを半分に切り、どっちがいい? と確認してから取り皿に片方を乗せて渡した。

「こういうの、実は昔からちょっと憧れてたんだ」

「何?」

「一つのものを共有してるっていう感じ」

 そう言う満白の笑顔はとても明るいものだったが、その裏側にある気持ちは必ずしも明るいことから発生したものではないのだろうなと深玄は思った。

「うん。私も、子供のときからやってみたかった」

 半分に切ったクロックムッシュは油断をしているとその間から溶けかけたホワイトソースがあふれてこぼれそうになってしまう。

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