HUB A NICE TRIP - JFK国際空港の夕暮れ

夜野ミナト

HUB A NICE TRIP - JFK国際空港の夕暮れ

『シカゴ 雪 降る?』『飛行機 遅延 どうしたら』


 検索ボックスに言葉が並び、次々と画面が切り替わっていく。青白い光に照らされながら、長尾ながおあかりは唇をかんだ。バッテリーマークが赤色をしている。残り2%——異国の地でこれは絶望的だ。少しでも情報を得なければ、必死に画面をスクロールし、スワイプし——やがてぷつりと世界から遮断されたように、液晶画面は何も映さなくなった。

 画面に泣きそうな顔をしたあかりが映り込んだ。英語のアナウンスや行き交う人々の話し声が絶えず響いているのに、あかりだけがその場から切り取られてしまったかのように無音だった。

 あかりはがっくりと項垂れてため息をつくと、顔を上げて一面ガラス張りになっている窓の外を見た。

 世界の終わりはきっと彩度をなくした灰色をしているのだろう。窓の外は暗い雲に覆われていて、今にも雨が降りそうだった。誘導灯の滲むような赤い光だけが滑走路の中で光っている。航空機が滑走路を駆け抜け、空へと飛び立っていった。


「あぁもう……!充電……どこかないかな」


 モバイルバッテリーは使い切ってしまっている。同じように飛行機を待っている人々が充電用のコンセントの椅子取りゲームを始め、そこからはじかれてしまったあかりはケーブルを手にしたまま、あたりを徘徊した。ふと柱の真横のベンチにちょうどUSBの差し込み口があったのが目に入る。あかりは僥倖とばかりにベンチに腰かけると、ケーブルを差し込んだ。


「あ、あれ……?おかしいな、ケーブル壊れたかな」


 ケーブルのコネクタを何度も確認する。壊れてはいないはずだ。


「そこ、通電してないですよ。アメリカのインフラを信じちゃいけない」


 穏やかなトーンの日本語が左から聞こえた。振り返ると、黒いフレームの眼鏡をかけた男性がペーパーバッグを手にして座っていた。温かそうなベージュのニットと、細身の黒いパンツを履いていた。年齢は若そうだが、妙に落ち着いて見える。分厚いダウンジャケットが鞄の上に置かれている。


「あぁ……どうも。通電してないって……そんなことあります?」


「ええ、よくあることです。僕もさっき試しましたけど、ダメでしたから」


 男性は本から視線を移さずに言った。


「マジかぁ……」


 あかりはベンチに深く沈み込んだ。

 ここはジョン・F・ケネディ国際空港。アメリカの玄関口だ。


「アメリカは初めてですか?」


 男性はペーパーバックに何かのレシートを挟んで言った。栞の紐が切れてなくなってしまっているのだ。


「はい。ダラスまで行きたくて」


「ダラス?」


 男性は眉をひそめた。


「ここ、ニューヨークですよ?」


「知ってます。シカゴで乗り換えの予定だったんですけど、もう信じられないほどの大雪で降りられなくて。それでこっちまで飛ばされたんです。ひどいと思いません?」


「あぁ、今の時期はシカゴはそうですね。ミシガン湖も凍っちゃいますから。LA経由の方がよかったかもしれないですね」


「やっぱり、そう思います?こっちのほうが安かったんです。チケットが」


 搭乗券をひらひらと振って、あかりは腕をだらんと落とした。


「初日からこれなんて最悪だぁ。ダラス行き、まだ二時間先なんです」


「二時間ならまだいい方ですよ」


 男性はペーパーバックのページを手持ち無沙汰にぱらぱらと弄った。


「僕は十二時間待ってます」


「じゅっ……え、どちらまで行くんですか」


 あかりは飛び跳ねそうになった。半日も、ここで過ごしている。


「アンカレッジ——アラスカです。仕事で」


「それは……大変なお仕事ですね」


「えぇ、まあ。でも待つ時間も悪くはありませんよ。ちょっと失礼。荷物を見ていていただけますか」


 男性は立ち上がると、近くのコーヒースタンドへとゆっくり歩き出した。慣れたように何か注文している。

 あかりはカーテンウォールの外を見た。少しずつ暗闇が染み出ていくように空を黒く染めている。夜が近い。

 近くの時計を見ると、時間が止まっているような感覚に襲われた。時間は確実に進んでいるはずなのに、針が動いていないような奇妙な時間だった。スマホのバッテリーもなくなってしまった今、あかりに時間をつぶす手立てはない。電源ボタンを押してみても、液晶画面は真っ暗で冷ややかな表情のまま答えてはくれなかった。


「やあ、どうもありがとう。はい」


 男性はあかりに紙コップを差し出した。


「アメリカーノです。温まりますよ。どうぞ」


 あかりはあわてて首を振った。


「そんな、悪いです!」


「中途半端に紙幣が余っていたので。それにもう返品できない」


 男性の顔と紙コップへと視線を何度も往復させながら、差し出された紙コップをあかりはおずおずと両手で受け取った。


「ありがとう……ございます」


 冷たく行き交う都会の人々の中で、コーヒーの入ったコップだけが異様なほど温かかった。


「今から空港を出てもタイムズスクエアの入り口にも立てなさそうですね。街の写真撮って終わりだ」


 男性はそう言ってコーヒーをすすった。


「やっぱり、そうですか。よかった……空港から出なくて」


 いただきます、と小さくお辞儀をしてあかりはコーヒーを飲んだ。コーヒーと呼ぶにはあまりにも薄い、お湯のような味だった。だが、あたたかさがじんわりと体の隅にまで広がったような感じがして、あかりは少しだけ表情をほぐした。

 二人の間に柔らかい沈黙が流れた。急ぐ人々の足音と英語のアナウンスが響く忙しない空港の中で、ここだけ時間がゆっくりと流れているような錯覚に陥る。


「よく、長い時間待てますね」


「慣れました。最初は僕も焦りましたよ。仕事に行けない、こんなところで足止め食らって、何をしているんだろう——と。でも怒ったところで雪がやむわけじゃないし、貨物の積み込みが終わるわけじゃない。大吹雪の向こう側で作業している人だっていますから、彼らの無事を願いながら、本を読みながら待つんです。スマホは使わないようにしてるんです。連絡できなくなったら困る」


 あかりは苦い顔をして下を向いた。いま彼女は誰とも連絡が取れない。世界中で彼女だけが切り離されていた。ちらりと鞄から覗く本のタイトルを視線で掠める。

 ペーパーバックの表紙は『そして誰もいなくなった』——クリスティだ。


「私、駄目ですね。スマホがないと生きていけない。だってSNSは今だって新しい情報にあふれてるし、もしかしたらリアルタイムで『シカゴ雪やんだってよ』とかわかるかもしれないじゃないですか。もうシカゴには行きませんけど。なにもできないなら生産性ゼロですよ、待ち時間」


 男性はゆっくりとコーヒーをすする。一つ一つの所作が丁寧だ。


「そんなに生き急がなくても」


「いいえ、生き急ぎます。だって時間がもったいない」


「まるで飛行機みたいだ」


 男性は面白そうに笑った。


「揚力を得るにはスピードが必要だと思っている。でしょう?」


「違いますか?止まったら落ちちゃいますよ」


「エンジンがある機体ならね。でも、グライダーは違います」


「グライダー?」


「ええ。グライダーはエンジンで前に進む代わりに、パイロットが風を読んで熱上昇風サーマルを探す。何もしないで旋回しているだけに見える時間は、高く飛ぶためのエネルギーを蓄えている時間なんですよ」


 男性はカップの中の黒い液体を揺らした。


「待つことは、停止することじゃない。次の風を捕まえるための、能動的なアクションです」


 あかりはじっと手の中に残ったぬるいコーヒーを眺めた。理屈はわかっている。航空力学的にも正しい。反論はできなかった。

 急に空港が静かになったような気がした。あかりだけがこの出発ロビーに取り残されてしまったように思えて、振り払うようにしてコーヒーを一気に飲んだ。


「そういえば、何故ダラスに?」


「宇宙航空力学を学びに」


「あぁ、それでですか。道理で話が通じると思ったんだ」


 ダラスはいいところですよ、と男性は続けて言った。


「あ、でも私が行くのはもっと先なんです。オースティンまで」


「そうですか。じゃあまた乗り換えですね。オースティンだと……一時間くらいかな」


「長距離バスを使おうと思ってます。四時間くらいかかりますけど、飛行機を乗り継ぐよりずっと安上がりなんで……」


「すごいですね、飛行機待たされた上にバスか。学生さんはタフだなぁ」


 男性は感心したように言った。飲み終わった紙コップを手持ち無沙汰にくるくると回している。

 その時、頭上のスピーカーから、待ちわびたアナウンスが流れた。ダラス行きの搭乗開始の案内だ。

 周囲の空気が一気に動いた。死んだように座り込んでいた人々が、ゾンビのようにのっそりと立ち上がると、のろのろとゲートの方へ向かい始めた。


「良かった。やっと動いたみたいですね」


「あの、ありがとうございました。コーヒー、ご馳走様でした」


「いいえ。いい留学になるといいですね」


 男性は頭を下げるあかりに向かって、にっこりと笑った。


「まだ……待つんですか?アンカレッジ行き」


「ええ。僕の機体ふねが出るのは、旅客機が全部飛び立った後の真夜中ですから」


 彼はカバンから再びペーパーバッグを取り出した。クリスティのペーパーバックは、表紙の印刷が擦れていた。栞代わりのレシートを取り出して、カバンにしまう。


貨物機フレイターは、日陰者ですから。皆さんが眠った頃に、こっそり飛びますよ」


「貨物……ですか」


「人間相手じゃないのが、僕には気楽でいいんです。荷物彼らは文句を言いませんからね」


 あかりは小さく笑った。この男性に何があったのかはわからない。少し自嘲気味に言いながらも、誇りをもって仕事をしているのは、言葉の力強さから理解できた。


「……もう空が真っ暗ですね。でも街が明るすぎて星ひとつ見えない」


 ニューヨークの空は地上の光を反射して、濁った群青に染まっていた。


「地上からは見えなくても、星は常にそこにあります。僕ら貨物機のパイロットは、それを見るために空を飛んでいるようなものです」


 あかりは小さく男性にお辞儀をした。


「あなたも、宇宙そらを目指しているんでしょう。どうぞ良い旅を」


 そう言うと、彼はまたペーパーバックの本へと視線を移した。

 あかりはバックパックを背負いなおして、搭乗案内口へと足を進ませた。

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