広告屋異世界転生〜勇者を売り出して世界を救います〜

もしもノベリスト

第1章 過労死、そして目覚め

 午前三時十七分。


 黒崎透は、自分がいつ最後に眠ったのか思い出せずにいた。


 会議室の蛍光灯が青白い光を放っている。机上には飲みかけのエナジードリンクが三本、コンビニの菓子パンの空袋、そして付箋だらけの企画書が散乱していた。窓の外に見える夜景——無数のビルの明かり——は、まるで眠らない街が嘲笑っているかのようだった。


「黒崎さん、直しました」


 部下の声に顔を上げる。新卒二年目の女性社員が、疲弊しきった表情でノートパソコンを差し出していた。画面にはパワーポイントのスライド。クライアント向けの統合キャンペーン提案書だ。


「ああ、ありがとう」


 透はマウスを握り、スライドを一枚ずつ確認していく。


 大手食品メーカー「フジモリ食品」の新商品プロモーション。年間予算十二億円。テレビCM、デジタル広告、店頭販促、インフルエンサー起用——すべてを統合した大型案件だ。競合他社に奪われれば、今期の数字が大幅に狂う。


「スライド十七の費用対効果のグラフ、縦軸のラベルが切れてる」


「すみません、直します」


「あと、スライド二十三のタレント起用案、候補者の名前伏せといて。情報漏洩になる」


「はい」


 部下がパソコンを抱えて去っていく。透は椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げた。


 この業界に入って十五年。


 最初は「言葉で世界を変えられる」と信じていた。人の心を動かすコピー、記憶に残るビジュアル、社会を騒がせるキャンペーン——そういうものを作りたくて、この道を選んだはずだった。


 今、自分がやっているのは何だ。


 クライアントの顔色を窺い、上層部の承認を取り付け、予算の帳尻を合わせ、トラブルの火消しに走り回る。「クリエイティブ」という言葉は、いつの間にか「調整」と「妥協」の別名になっていた。


 スマートフォンが震える。妻からのメッセージだ。


『今夜も帰れない? 明日、陽太の運動会なんだけど』


 透は返信を打ちかけて、やめた。今夜中に資料を完成させなければ、明日九時からのプレゼンに間に合わない。運動会は午後からだ。理論上は間に合うはずだが——


 返信しなかった。


 そのほうが楽だった。


     ◆


 午前七時。


 会議室のブラインドから朝日が差し込み、透は目を覚ました。いつの間にか机に突っ伏して眠っていたらしい。首が痛い。口の中がざらついている。


「黒崎さん、起きてください。プレゼン、あと二時間です」


 部下の声。透は顔を上げ、時計を確認した。


「資料は」


「最終版、印刷しました。クライアントの人数分、二十部」


「ありがとう。俺、コーヒー買ってくる。君も何か飲む?」


「大丈夫です。先に会議室入ってます」


 透はエレベーターで一階に降り、オフィスビルのエントランスにあるコンビニに向かった。


 自動ドアをくぐると、夏の朝の湿った空気が肌に纏わりついた。アスファルトからは、昨夜の雨が蒸発する匂いがする。透は深呼吸して、脳に酸素を送り込もうとした。


 コンビニでブラックコーヒーを二本買い、ビルに戻ろうとしたとき——


 視界の端で、何かが光った。


 横断歩道の向こう、交差点を曲がってきたトラックのヘッドライトだ。


 同時に、甲高いクラクションの音。


 振り返ると、小学生くらいの男の子が横断歩道の真ん中に立ち尽くしていた。信号は赤。トラックは止まれない速度で突っ込んでくる。


 透の体は、考えるより先に動いていた。


 駆け出し、男の子の腕を掴み、歩道側へ突き飛ばす。


 直後、世界が白く弾けた。


     ◆


 最初に感じたのは、草の匂いだった。


 青臭く、甘く、どこか懐かしい香り。子供の頃、祖父母の家の裏山で遊んだときの記憶が、ふいに蘇った。


 次に、頬に触れる風を感じた。生ぬるくはない。涼やかで、どこか湿り気を帯びた、森の風だ。


 透はゆっくりと目を開けた。


 視界に広がったのは——


 空だった。


 しかし、それは東京の空ではなかった。スモッグもビルもない。どこまでも澄んだ青と、絵の具で描いたような白い雲。そして、見たこともない鳥が、のんびりと旋回している。


「……は?」


 透は上体を起こした。


 自分が横たわっていたのは、草原の中だった。背の高い草が風に揺れ、遠くには深い緑の森が見える。空気が違う。光の質が違う。すべてが、あまりにも鮮明だった。


 立ち上がろうとして、透は自分の手を見た。


 白い。


 細い。


 そして——若い。


 三十八年間使い続けてきた自分の手ではなかった。しみも皺もない、二十代前半の青年の手だ。


「待て。待て待て待て」


 透は自分の体を見下ろした。服が違う。スーツではなく、麻のような素材の白いシャツと、革のベルトで締めた茶色のズボン。足元は革のブーツ。まるで中世ヨーロッパの農民か、あるいはファンタジーRPGの村人Aのような格好だった。


 髪に触れる。長い。肩にかかるくらいの長さで、指に絡みつく髪は自分のものではない。色は——銀色がかった灰色。


「嘘だろ」


 近くに小川があることに気づいた透は、よろめきながら水辺に向かい、水面を覗き込んだ。


 映っていたのは、見知らぬ青年の顔だった。


 端正な、しかしどこか憂いを帯びた容貌。灰色の長髪に、琥珀色の瞳。年齢は二十代半ばといったところか。黒崎透の顔ではない。まったくの別人だ。


「夢か。夢だな。夢であってくれ」


 透は頬をつねった。痛い。水をすくって顔を洗った。冷たい。目を開けると、相変わらず見知らぬ青年の顔が水面に映っている。


 その時——


 脳内に、声が響いた。


『——ようこそ、異世界エルヴァシアへ』


「誰だ」


『私は、この世界を司る存在の一端。人間の言葉では「神」と呼ばれることもある』


 透は周囲を見回したが、誰もいない。声は頭の中に直接届いている。


「神……? いや、待ってくれ。俺は死んだのか。トラックに轢かれて——」


『その通り。あなたの前世の肉体は失われた。しかし、魂は消滅を免れ、この世界に転生した』


「転生……」


 透は膝から崩れ落ちた。草の上に座り込み、空を見上げる。


 異世界転生。


 小説やアニメでは何度も見た設定だ。部下との雑談で「課長、疲れすぎて異世界転生したいっす」と笑っていたこともある。まさか自分が当事者になるとは。


「待ってくれ。俺には——妻と子供がいるんだ。帰れないのか」


『残念ながら、帰還の手段は存在しない。あなたの魂は、すでにこの世界の肉体に定着している』


「……そうか」


 陽太の運動会。結局、行けなかった。


 妻へのメッセージも、最後まで返さなかった。


 透は長い息を吐いた。後悔はある。だが、それを今さら嘆いても仕方がない。広告屋として十五年、現実を直視する訓練だけは積んできた。


「この体は、誰のものだ」


『クロート・サキアス。没落貴族の三男。二十五歳。昨夜、心臓の病で命を落とした』


「没落貴族……」


『あなたの魂が宿ったことで、肉体は蘇生した。今後はクロート・サキアスとして生きることになる』


 透——いや、クロートは立ち上がり、服の埃を払った。


「それで? 神様が俺をわざわざ生き返らせた理由は何だ。タダってことはないだろう」


『鋭いな』


 神と名乗る声は、どこか愉快そうだった。


『この世界は今、危機に瀕している。五百年前に封印された魔王ヴァルハザードが復活しようとしている。人類が滅亡すれば、私の存在意義も失われる。それは困る』


「だから俺を召喚した? 悪いが、俺は剣も魔法も使えない。勇者の素質なんてないぞ」


『知っている。あなたに求めるのは、戦闘ではない』


「なら、何だ」


 神の声が、一瞬だけ沈黙した。そして——


『——広告だ』


 透は目を瞬いた。


「……何?」


『この世界には、神託によって選ばれた「真の勇者」がいる。しかし、彼は無名だ。民衆は彼の存在を知らず、支援も資金も集まらない。このままでは、勇者は孤立したまま魔王に挑み、敗北する』


「待て。つまり——」


『あなたの役目は、勇者を「売り出す」ことだ。民衆に彼の存在を知らしめ、支持を集め、魔王討伐のための機運を高めよ。前世で培った技術と知識を、この世界で活かすのだ』


 透は、思わず笑い出しそうになった。


 異世界転生して、チート能力で無双——ではなく。


 勇者のプロモーション担当。


「神様、あんた——」


 言いかけて、透は言葉を飲み込んだ。


 冷静に考えれば、これは「仕事」だ。クライアントは神。商品は勇者。ターゲットは異世界の民衆。


 無茶苦茶な案件だが、無茶苦茶な案件なら前世で散々やってきた。


「わかった。やるよ」


『——本当か?』


「条件がある」


『言え』


「俺は、嘘はつかない」


 透の声は、静かだが硬かった。


「前世で、俺は何度も嘘をついた。クライアントのため、会社のため、自分の数字のため。売れない商品を売れると言い、効果のない広告に効果があると言った。その結果——」


 言葉が詰まる。


「——人を傷つけた。だから今度は、本当のことだけを伝える。勇者が嘘つきなら、俺は降りる。本物なら、全力でやる。それでいいか」


 沈黙があった。


 そして、神の声が返ってきた。


『面白い人間だ。契約成立だ、クロート・サキアス——いや、黒崎透。王都グランディアに向かえ。王女が待っている』


「王女?」


『エリザベート・ヴァン・エルヴァシア。この国の実質的な支配者であり、勇者プロジェクトの発案者だ。あなたを「王国宣伝局長」として任命する権限を持っている』


「宣伝局長……」


『クロートの記憶は、ある程度あなたに継承されている。この世界の言語、常識、基本的な知識は問題なく使えるはずだ。ただし、細かいことは自分で調べろ。私は忙しい』


 声が遠ざかっていく気配がした。


「待て、まだ聞きたいことが——」


『王都まで馬で三日。徒歩なら七日だ。馬は、ほら、あそこにいる』


 透が振り返ると、草原の向こうに一頭の馬が繋がれていた。鞍もついている。


「どこから……」


『健闘を祈る、広告屋。——ああ、そうだ。一つ忠告しておこう』


「何だ」


 神の声は、急に真剣な響きを帯びた。


『魔王ヴァルハザードが本当に支配しているのは、軍勢ではない。恐怖と絶望だ。人々の心に巣食う「諦め」こそが、奴の最大の武器だ。それを忘れるな』


 声は、そこで完全に消えた。


     ◆


 草原に、風が吹いた。


 透——いや、クロートは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 異世界。魔王。勇者。そして、広告。


 すべてが荒唐無稽だった。しかし、目の前の景色は紛れもなく現実であり、自分の体もまた、否応なく存在していた。


「……やるしかないか」


 馬に近づき、手綱を取る。前世では乗馬なんてやったことがなかったが、クロートの体が勝手に動く。記憶の継承というのは、こういうことなのだろう。


 鞍にまたがり、王都の方角を確認する。西の空に、うっすらと山脈が見えた。その麓に王都があるはずだ。


「王国宣伝局長、か」


 呟いて、クロートは苦笑した。


 十五年間、広告代理店で働いてきた。アカウント・エグゼクティブとして、数えきれないほどのプロジェクトを回してきた。クライアントの無茶な要求、上層部の横槍、予算の削減、スケジュールの前倒し——あらゆる困難を乗り越えて、どうにかこうにか形にしてきた。


 その経験が、異世界で役に立つ?


 馬鹿げている。


 だが——


「面白い」


 クロートの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。


 死ぬ直前まで、自分は何のために働いているのかわからなくなっていた。数字のため? 会社のため? 家族のため? どれも違う気がしていた。


 今、目の前には明確なゴールがある。


 世界を救う。


 そのために、勇者を売り出す。


 これ以上ないほど馬鹿げたミッションだが——これ以上ないほど、明確だ。


「よし」


 手綱を握り直す。


 馬が軽くいななき、歩き出した。


 草原を渡る風が、銀髪を揺らす。


 黒崎透は死んだ。


 クロート・サキアスが、今ここに生まれた。


 彼の新しい仕事——「勇者を売り出して世界を救う」——は、たった今、始まったばかりだ。


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