04
コトは、夢を見ていた。
内容は曖昧だった。輪郭だけがあって、色がない。
どこかの床を歩いている。足裏に確かな感触がある。揺れない地面。傾かない梁。空気が、金属粉でざらついていない。
視界が赤黒く染まり、横たわる誰かから、温もりが引いていく感覚だけが波のように押し寄せる。
誰かの声が遠くでして、名前を呼ばれている気がした。
振り返っても顔は見えない。
「もう大丈夫だ」と言われたような気がした。
言葉は、意味というより音の形だけが残っていて、心に届く前に薄れていく。
それでもコトは、その音を掴もうとした。
掴んだところでどうなるわけでもない。
ただ、掴んでいないと自分を守れない気がした。
生きるために、不要なものは排除していく。
そうして人は形作られる。
結果、生き延びたい、という思いだけが残っていた。
――硬い衝撃が、夢を叩き割った。
骨に響く振動。
梁が鳴る。鎖が弾ける。
闇の中で、木材が裂ける音がした。
次の瞬間、耳を裂くような金属音が走り、寝床が跳ねた。コトの体は固定の甘い簡易寝台から投げ出され、床板に肩から落ちた。息が抜ける。痛みが遅れて押し寄せる。
何が起きたか、分からない。
分からないほど突発的だった。
闇の向こうで誰かが叫んだ。悲鳴ではない。言葉にもなっていない声の塊。だが、それもすぐに途切れ、別の音に飲まれた。
続いて、報せが鳴った。
金属を叩く音。
決められた回数、決められた間隔。
何一つ分からないコトだが、合図である事だけはわかった。
――竜だった。
クウォーターの警報は、耳障りなサイレンではない。ここでは、音は常にある。警報が警報として成立するのは規則性だけだ。そして規則性は、常に人を動かす。
「起きろ」
闇の中、低い声がした。
ヨルだった。寝床の端にいたはずなのに、すでに立っていた。外套を掴み、短い刃物を腰に通し、足場に出る準備が終わっている。暗闇での動きが昼より速い。身体に染み付いた工程であった。
「焦るなよ」
コトが起き上がろうとした瞬間、ヨルが言った。
「走るな。足場を見るな。俺の背中だけ見ろ」
意味は分からなくても、命令の形は分かった。
コトは頷き、息を飲み、ヨルの背に視線を固定した。
扉が開いた。外の冷たい風が闇を押し込む。霧が入り込み、灯のない空間がさらに薄くなる。通路ではすでに人が動いている。裸足の者、外套を片腕だけ通した者、武器を掴み損ねた者。誰もが"間に合っていない"姿だった。
それが夜襲だ。
準備が整わず、役割配置が崩れる。
もはや狩りと呼べるものではなかった。
ヨルは足場を選びながら走った。選ぶというより、身体が勝手に選んでいる。崖際から一歩遠い板。歪みが少ない梁。踏むと音が鳴る場所は避ける。音が鳴る場所は竜に位置を知らせる。
だが、今夜はもう遅い。
どこかで巨大な何かが建造物に触れた。
構造体全体が、ゆっくりと歪むように震えた。
金属が軋み、木材が泣き、鎖が張り詰める。
そして――吐息。
熱の混じった、湿った空気が霧と一緒に吹き付けてきた。
獣の臭い。血の匂い。焦げた金属の匂い。
喉の奥が反射で縮む。
「墓場へ!」
誰かの怒号が飛んだ。
怒号は命令ではなく焦りの形だ。
ヨルは返事をしない。
返す必要がなく、行くべき場所は決まっていた。
捕獲棟〈竜の墓場〉。
そこだけが竜を殺すために作られた空間。
だが今夜は、竜が墓場に“入ってくる”のではない。
墓場の外ですでに壊し始めている。
「ユーカ!」
ヨルが叫んだ。
闇の中から細い影が滑り込んでくる。ユーカだ。髪が乱れ目が見開かれている。怯えた顔ではない。逆に、過剰に冷えている顔だった。
昨日までコトが見ていた顔つきとは明らかに違う。切り替わったのだろうか。どちらでもいい。今は動ける方が必要だ。
「B班、入るぞ!」
ヨルが言う。
「分かってる!」
ユーカが叫び返す。
声が震えていないのが怖い。
B班――初動拘束・起動。
落とし床、楔、初期固定。
工程の最初であり、最も短く、最も失敗が許されない役割。
本来ならもっと人数が揃っているが、夜襲となれば配置も連携も乱れる。
「コト! 俺の右だ。離れるな」
ヨルが短く言った。
コトは返事をする暇もなく、走った。
足場の揺れで視界がぶれ息が上がる。暗闇で距離感が狂う。自分の足音がやけに大きく聞こえるのが恐ろしかった。
墓場の入口に、火が揺れていた。
作業灯ではない。
誰かが投げた油か、竜の吐息に混じった火の粉か。
火花が空間に散っている。
――そこで、初めてコトは竜を見た。
巨躯。
ただ大きいのではない。大きさが“形”を持って迫ってくる。
梁や鎖や足場の尺度が、竜の前では意味を失っていた。
鱗が灯りを弾き、濡れた鉄みたいに鈍く光る。
一枚一枚が板のようで、重なり合い、動くたびに擦れて音を立てた。
その音が金属の軋みと混じって耳の奥を刺す。
肉体は躍動していた。
筋肉が波のように隆起し、巨大な関節が滑らかに折れ曲がる。
重さがあるのに動きが速い。
速いのに無駄がない。
喉元が赤く瞬いた。
火花が散る。
吐息のたびに熱が漏れ、霧が一瞬で薄れる。
熱で濡れた空気が肺に入り、咳が出そうになる。
咳をしたら終わりだと本能が言う。
竜は目を動かした。
ギョロギョロと滑り、墓場の空間を舐める。
「穴開けるぞ!」
ヨルの声が飛んだ。
ユーカが走り、起動レバーへ飛びつく。
だが、間に合わない。
竜が前足を振った。
一撃ではない。払うような動き。
それだけで、近くの支柱が折れ、梁がずれ、鎖が弾けた。
人間の体が軽々しく、木片のように飛んだ。
悲鳴が一つ上がり、すぐ途切れた。
リーツだった。
「リーツっ!!!」
コトの目の前で、リーツの体がひしゃげた。
押し潰されたというより、圧し折られた。
骨が砕ける音がやけに近い。
声は出なかった。出す余裕もなく、空気が喉から抜けたのだろう。
「いいから!カバー入れ!」
体が床板に落ちる前に、もう形が崩れていた。
人間が、人間の形を保てる理由は骨だ。その骨が簡単に潰れる。
呆気ない。
竜刑の恐ろしさは、長い苦しみだけではない。
理解する間もなく終わる。
ここでは劇的な死など存在しない。
コトの喉が鳴った。
吐き気を催し、しかし吐けば死んでしまう。
今は生きる事に集中する。
そう飲み込んだ。
「コト!」
ヨルが叫ぶ。
その声でコトは現実に戻った。
竜がいる。人が死んだ。自分は立っている。
立っているだけでは死ぬ。
「下がるな! そのまま!」
ヨルが命令した。
コトが一瞬、背後の風を感じる。
下がれば崖側、落ちて死ぬ。
だが、前に出ればそこには竜。潰されて死ぬ。
逃げ道など、用意されていない。
「ユーカ、楔!」
「分かってる!」
ユーカが楔を掴み、床の継ぎ目へ叩き込もうとする。
だが床が揺れ手元が狂う。
楔が弾け、金属音が鳴る。
「うるせぇ!」
誰かが怒号を上げた。
怒号が飛ぶ。悲鳴が飛ぶ。苦痛が飛ぶ。
空間が、声で満ちる。
竜はそれを気にしない。
竜が吐息を吐いた。
熱が走り火花が散る。
「退避!!!」
「水持って来い!」
「今は無理だろうが」
「粉撒けよ、近づけねぇ」
髪が焼ける匂いがした。
誰かの衣服が焦げ、木材に燃え移る。
「早くしろ! Aは何してる!?」
「そっちが抑えねえから、無理だろ!!」
「C! 天鎖回せ!」
「回ってねぇぞ、噛んでるって!」
後手。
工程が成立していない。
想像以上に苛烈を極める現場。
狩りではなく事故だ。
ヨルは走った。
罠の位置、起動しないものは手動で誤魔化す。
次はウインチへ、次はロープへ。
誰かの腕を掴んで引きずり下がらせ、誰かに叫んで位置を変えさせる。
「そこだと死ぬ! 下がれ!」
「動けねぇ!」
「動けよ!」
ヨルの怒鳴り声は身体を動かす圧があった。
怒鳴らなければ届かない。
竜の尾が振れる。
風圧だけで人が倒れる。
倒れた人間の上に、別の人間が折り重なる。
踏まれれば終わりだ。
「早く立て!」
ヨルが誰かの襟を掴み、引き起こした。
コトの視界に竜の腹が近づく。
皮膚の下で筋が動き、鱗が擦れて音を立てる。
そこに、杭が刺さっているが、まるで効いている様子がない。
「もういい! 削れ! 今は止めるのが先だ!」
ヨルが叫ぶ。
誰かが走り、弩砲を操作。
竜の鱗に弓弾が弾け、火花が飛んだ。
火花が喉元に吸い込まれ、吐息に混じって広がる。
竜は怒ったのではない。
ただ、邪魔を払っているだけだ。
人間が蟻のように散る。
叩きつけられる、人の矮小さ。
人の体は、脆く軽い。
強く握れば砕ける。強く踏めば潰れる。
ここまで来て、ようやくコトは理解した。
人間が竜を狩るのではない。
人間は、竜に許される形でしか生きられないのだと。
「床、今だ!」
ヨルが叫んだ。
ユーカがレバーを引く。
一瞬、空間が静まる。
――床が沈む。
だが、竜は落ちない。
竜は、沈む床板の縁を掴んだ。
巨大な爪が木材に食い込み、梁が悲鳴を上げる。
竜の体が、落ちる寸前で止まる。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。
呟いた瞬間に、竜が体を持ち上げた。
床が、裂けた。
落とし床が落とし床として成立しない。
工程が崩壊する瞬間だった。
「天鎖! かけろ!」
「シンシア! 補充急げ!」
ヨルが叫ぶ。
シンシアが慌てながら、後方は走る。
C担当がウインチを回し鎖が走る。
鎖は竜の肩に鋭く絡む。
絡んだ、ように見えた。
竜が動いた。
一度、肩を揺らしただけで、鎖が弾ける。
人間の体が鎖ごと持っていかれる。
巻き取られるように、腕が千切れる。
悲鳴、次いで骨の音が爆ぜる。
「戻れ!」
ヨルは叫び、コトの肩を掴んで引いた。
コトの体が引きずられ床を滑る。
目の前を竜の爪が通過した。
触れていないのに、空気が裂けた。
コトは息が止まった。
止まっている場合じゃない。
身体が勝手に動き、ヨルの背を追った。
まさに地獄であった。
焦りと怒号と悲鳴が飛び交う。
どれだけ慣れても、慣れきることはない。
慣れたふりはできる。手順は覚えた身体は勝手に動く。だが、恐怖だけは薄れない。
ヨルは現場を回り続けた。
罠を使え。位置を変えろ。噛んでるなら叩け。ロープを弾け。下がらせろ。前に出すな。
今は死ぬな。今は動け。
言葉が命を繋ぐ。
繋いだ命が、また切れる。
リーツの潰れた体が、視界の端に残っていた。
運ぶことすら揺らされない極限の状態。
死体すら工程の邪魔になる。
コトは、目を逸らさなかった。
逸らす暇がなかった。
――これが竜刑だ。
夢を見る暇はない。
未来を語る暇もない。
ここでは、生きることすら刑となる。
その夜、クウォーターは竜の吐息で熱を帯び、梁の鳴る音で眠りを失い、人間の小ささを、何度も何度も突きつけられた。
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