最終話

アパートへの帰り道、住宅街の民家から、ピアノの音が聞こえてくる。たどたどしくも優しいそれに、熱い何かが迫り上げる。また、指先が勝手に動く。


あの時、続けて、弾けばよかった。呼び止めれば、よかった。戻らない時が、目の前に横たわった。どうして、こんなにも虚しいのか。冷えた空の心は、私の歩みを加速させる。止まったら、私は今にも死んでしまいそうだった。


帰宅すると、肩は息を吸っていた。涙が落ちようとしていた。膝から崩れ落ちそうになる。それを遮るように、スマートフォンが震えた。遠い父からの知らせだった。


帰郷すると、母は不在だった。求められないと思うと、私は安堵した。リビングの静けさは、愛憎すらも曖昧に暈かしてしまう。それは、つい先程、付いた傷のようだった。けれど、ひとつひとつの形すら、覚えている。


母は、遠くに行ってしまった。その事実は、私を砕くのに十分だった。膝から崩れ落ちる。涙が、溢れた。あれだけ、嫌いだと思っていた。それでも、私はたった一人の母を愛した。私は母の温もりを、もう一度、知りたかっただけだ。どうか、お元気で居て下さい。いつだって、願いは届かない。窓の外、青空に雪が舞い落ちていた。


「あら、雪?」

椅子が揺れて、母の声が聞こえた気がした。

「寒いでしょう。温かくなさい。」

その残像は、優しかった。けれど、もう、何も無い。


こんな時に、音が聴きたくなる。一人に、なりたくなかった。聴かせる相手もいないけれど、音は今もそこにあるのだろうか。


ピアノは静かに、あの頃のまま、そこに在った。埃はたたず、そこに母の気配がある。私は触れられなかった、あの曲を思い出す。指先が勝手に動いても、今は、止めなかった。まだ、私は、間に合うのだろうか。


ピアノの前、椅子に座る。目を閉じれば、静寂が来る。私は鼓動を聞いた。迎え入れるようだった。けれど、まだ、胸は空いたままだった。


音を出さず、鍵盤に触れる。証明できなかった、あの瞬間を、思い出す。私は、音を出して、冷え切るのが怖かったんじゃない。弾くことで、この音を裏切ってしまうことが、怖かったんだ。守ろうとすると、守られる。触れようとすると、逃げられる。その距離は、幼き頃の私と母だ。


嘘がない場所で、私たちは出会う。溢れるように流れる音は、鼓動を揺らすだろう。時は、止まったようだった。私はピアノに向かい合う。胸が、満ちていく。今度は、逃げない。


それは、静かに灯る。胸を優しく刺すこの想いは、ここに居る意味なのか。小さなテーブルライトはピアノを照らす。それだけが、世界の全てのようだった。響く、一音。それは、私の心を揺らした。音は、寒い。冷えが流れ込んできて、胸が空く。けれど、流れるように繋いだ音を、知っていた。忘れていた音が、そこに在った。


幼い頃に初めて、世界を愛した時の、あの音だ。ねえ、聴いて。笑顔の母親に、何度も言ったあの言葉が、私の心を掠める。


重なった音は、静かに私を肯定した。もう、その音は、誰のものにもならなかった。


もう、証明は要らない。ここに居る事だけが、私が私である証だ。


夜が明けるわけでもなく、静かだった。そこには、音と鼓動だけがあった。


指先は、最後の音に向かっていく。


私は、世界をどれだけ愛せるのだろう。


ずっと抱きしめていたかった。けれど、ずっと重くて、痛かった。後ろ指を指されたなら、指し返してやればよかった。その想いすら、そこに置いた。繋ぎ止めるのは、この音だ。


人生の底に手をついた夜さえ、一人じゃなかった。


ここに居る。証明も要らない場所に、私たちは在るのかもしれない。


私は、最後の音を、そっと置いた。それは、綺麗である必要もない。


その静けさは、喝采よりも深い場所で、息をする。





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証明 山藤里菜 @_to_v_

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