証明

山藤里菜

第1話

心が動いた瞬間を、人は忘れないらしい。胸が空いて冷えたあの瞬間、私は私を証明できなかった。この気持ちのやり場は、ない。


突き抜けるように冷えた、音がする。それだけで、指先だけが勝手に動いた。自分の癖を閉じ込めるように、拳を握る。街のスピーカーから流れる、ノイズ交じりのピアノの音は、私の心を痛めた。歩む速度を上げれば、静寂にアイデンティティはかき消される。


ピアノが、好きだった。音が響く時、私は自由だった。どこまでも広がって、それを選ぶ指先はそっと優しかった。その指先だけが、世界との繋がり方を知っていた。それは、いつしか評価に変わって、楽譜通りに弾くのよと、先生はいつも不機嫌だった。私は必死に楽譜をなぞった。ご機嫌をとるように。奏でる音は、静かに悲しみを帯びて、黙るようになった。そこに私である意味は、なくなっていた。


ピアノしかないと思っていた。あの頃の音が、聴こえた気がする。一瞬、指先が跳ねる。けれど、いつしかその音は、そっと私を通り抜けるようになった。


スマートフォンが震える。

"いまどこ?洋司。"

彼からのメッセージは、私の胸をじわりと温めた。今は、彼の隣だけが、私の居場所だった。


駅前のカフェで待ち合わせをする。12月の寒さは、心の余裕をじわじわと奪う。看板の横に立つ私が苛立ち始めてから、彼はすぐにやって来た。

「ごめん、待った?」

「ううん。寒いから、早く入ろ。」

店内を見やりながら、私の口から冷たい言葉が出るから、驚いた。カフェラテを注文して、角の席に着く。息を吐くと、肩の力が抜けていった。


「そういや、今日、部長がさー。」

彼は、所謂、いい会社で働いている。複雑な育ちをしながら、そこに行き着いた彼を、私は密かに尊敬している。

「理不尽だよねー。」

「まあねー、仕方ないけど。」

私は当たり障りもない言葉で場を埋めた。彼はすんなりと話題を変える。

「そうだ。これ、もらったんだ。どう?」

彼がテーブルの上に出したのは、クリスマスコンサートのチケットだった。

「有名なピアニストが来るみたい。」

私はどう答えるべきか一瞬迷って、俯きがちに言う。

「ピアノは、好きじゃないの。」

彼の顔は、見られなかった。

「えっ、なんで?」

「嫌な思い出があって。」

「思い出?へぇー。どんな?」

目を合わせられなかった。あなたは、時々、無神経だ。

「ンー、なんだろ、思い出せない。」

「なにそれ、変なの。」

彼は吹き出した。

「過去でしょ?」

彼の言葉は正しいはずなのに、どうしてか、響かない。


昨夜も彼と喧嘩をした。ただ、大切なものがひとつ分かり合えたら、それでよかった。人は、いつだって、難しい。彼と私は孤独の影だけがよく似ていた。まだそこに居てくれますか?と互いをよく突っついた。ビルの間の空は青くて、行き交う人々は私を見ていなかった。


バイトからアパートに帰ると、玄関のドアノブにぶら下がっている紙袋。走り書いたメモ紙が付いている。

"昨日は、ごめん。いつか借りてたやつ、返す。洋司"

私は彼ともう会うことはないのだろうと思った。


紙袋にはCDが入っていて、それは丁寧に扱われた様子がなく、ジャケットには傷があった。ディスクは無傷だったところを見て、肩を落とす。彼にディスクは触られなかった。それは、どう受け取ったら、よかったのだろう。



続く

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