プロローグ


​「サトウよ、お主の献身的な『魔王城バリアフリー化計画』、実に見事であった! 褒美として、元の世界への帰還を許そう!」


​魔王の威厳ある声と共に、足元に巨大な召喚陣が浮かび上がる。

佐藤(40歳)は、溢れ出す涙を拭いもしなかった。

​(……やっと、やっと帰れる。異世界の不味いトカゲ肉も、3K(きつい・汚い・危険)な魔界の現場も、部下のゴブリンたちのパワハラ相談も、もうおさらばだ……!)


​「あばよ魔王様! 退職金代わりの資材はインベントリに詰めたからな! 日本に帰ったら俺、まずは週休七日でアニメ見て、ポテチ食って、一生ダラダラしてやるんだ!」


​光が爆発し、世界が反転する。

ガリガリと足に伝わる、懐かしいアスファルトの感触。


​「……帰った。帰ってきたぞ、日本ッ!」


​佐藤は勢いよく目を開けた。

そこは、実家から数分の距離にある見慣れた公園のはずだった。

​だが、そこに広がっていたのは、佐藤が15年間夢にまで見た「平和」ではなかった。

​空はどす黒い煙に覆われ、公園の砂場には臓物をぶちまけられた変わり果てた「モノ」が転がっている。

ブランコはギィ、ギィと力なく揺れ、その下では皮膚の剥げ落ちた男が別の人間を食らっていた。

「……あ?」


​佐藤は呆然と街を見渡す。

大好きだったコンビニは窓ガラスが割れ、血塗られた手形が無数についている。

スピーカーからは、途切れた緊急放送のノイズだけが虚しく響いていた。

「……嘘、だろ」


​一歩、また一歩と、佐藤は力なく歩き出した。

佐藤は震える手で、作業着のポケットを探った。

そこにあったのは、15年前、異世界に飛ばされた瞬間に持っていた『折りたたみ式のガラケー』だった。

​この15年間、一度も電源が入ることはなかった。充電器なんて異世界にはない。

だから佐藤は、電池の切れたこの鉄の塊を「お守り」として持ち歩き、傷だらけのサブディスプレイに映る自分のやつれた顔を見ては、「いつかこの画面に明かりが灯る場所に帰るんだ」と自分を鼓舞し続けてきたのだ。


​「電源……入れ。日本なら、電波も、電気もあるはずだろ……ッ!」


​祈るようにボタンを長押しする。

すると、異世界で浴び続けた膨大な魔力が、佐藤の感情に呼応して回路に流れ込んだ。

​バチッ、と火花が散り、15年ぶりに液晶が淡く発光した。

だが、表示された日付は15年分スキップされ、アンテナは一本も立っていない。


「……圏外? いや、それどころか……なんだ、この板」


​佐藤は足元に散乱するゴミの中に、光沢のある黒い長方形の板が落ちているのに気づいた。

拾い上げてみるが、ボタンが一つもない。鏡のように自分の絶望した顔が映っているだけだ。

「……計算機か? いや、看板の端材か何かか……?」


​佐藤が首を傾げ、何気なくその「板」の表面に触れた瞬間、パッと画面が点灯した。

そこには、血飛沫で汚れた幸せそうな家族の待ち受け写真と、無数の通知ログが表示されていた。

​『お父さん、どこ?』

『逃げて』

『もうダメかもしれない』

「……ッ!? なんだ、これ。文字が、絵が浮き出てる……」


​佐藤の脳内に、ようやく理解が追いつく。

15年前、現場の連中が「これからは画面を触る電話が流行るらしいぜ」と噂していた、あの近未来のガジェット。


​「これ……電話なのか? 15年の間に、こんな魔法の道具みたいなのが当たり前になってたのかよ……」


​佐藤は、自分が異世界で石を積み上げ、泥にまみれて城を建てている間に、日本は「スマート」な未来へ到達していたのだと悟った。だが、その最先端の板に映し出されているのは、絶望の叫びばかりだ。


​「……嘘だろ。嘘だと言ってくれよ」


​佐藤は、ガラケーを握りしめたまま、ガタガタと震え出した。

一番に頭をよぎったのは、地元の九州で暮らす両親のことだ。


​「親父……お袋……ッ!!」


​脳裏に、15年前の、まだ少しだけ若かった両親の顔が浮かぶ。

ここは東京。実家のある九州まで、今のこの地獄の中をどうやって?

年老いた二人が、あんな全力疾走してくるバケモノから逃げ切れるはずがない。

もし、もしも実家がこの公園みたいに、臓物をぶちまけられた地獄絵図になっていたら――。

「ああああああああああああああぁぁッ!! 考えてもキリがねぇんだよッ!!!」

不安と焦燥が、胸の奥を焼き焦がす。

そしてその焦りが、次第に「奪われたもの」への激しい怨念へと変わっていく。

​(帰ったら、親父とお袋に美味いもん食わせてやるんだ)

(家で溜まったマンガの続きを読んで、アニメを見て、一生ダラダラするんだ)

​それが、3K(きつい・汚い・危険)な魔界の現場で15年間、一度も折れずに耐え抜いてきた佐藤の「すべて」だった。


「新刊のマンガも……あのアニメの続きも……ネットのくだらねぇ書き込みも……全部、全部、俺がいない間に始まって、俺がいない間に滅びやがったのか……?」


​手の中のガラケーは、もはや通信する相手も、繋がるサーバーも存在しない、ただのプラスチックの塊だ。

15年間、これに明かりが灯る日だけを夢見て地獄を耐えてきた。いつか帰って、家族と笑いながらテレビを見る、そんな当たり前の「平和」を給料袋のように握りしめてきた。

​なのに。

「…………」


​佐藤の視界が、怒りで真っ赤に染まる。

足元に、よだれを垂らしたゾンビが這い寄ってきた。かつては流行の最先端だったであろう服を着て、今はただの動く肉塊だ。

​普通の人間なら、この世の終わりを前に腰を抜かすだろう。

だが、佐藤の反応は違った。

彼は15年間、言葉もほとんど通じず隙あらば食い殺そうとしてくるオークやトロールたちを、バール一本で叩き伏せて現場に従わせてきた「魔界の現場監督」だ。

腐臭も、欠損した死体も、彼にとっては魔王城の工事現場で見慣れた「日常の景色」に過ぎない。

​今、彼の心を支配しているのは、恐怖ではない。

15年、死ぬ気で働いて、やっと手に入るはずだった「報酬(家族との再会と平穏)」を、土足で踏みにじられたことへの耐え難い憤りだった。

佐藤の声が、地を負うような低音に変わる。

「15年……ッ! 魔王軍のパワハラに耐えて! 休みも返上して! いつか、いつか平和な日本でビールを飲むんだって……それだけを楽しみにしてた俺の15年を……」


​佐藤は、天を仰いだ。

もはや涙も出ない。喉の奥から、煮えたぎるマグマのような咆哮を、どす黒い空に叩きつける。

「ふざけんなああああああああああああッ!!! 誰が勝手に日本(ここ)を潰していいっつったああああああああッ!! 工期も予算もクソもねぇのか、この世界はああああああああッ!!!」


​その絶叫に、街中のゾンビが反応した。

四方八方から、おっさんの「生存(有給)」を食い尽くそうと、腐った群れが押し寄せる。

「いいか、産業廃棄物ども。俺は今、人生で一番機嫌が悪い」


​佐藤は無限収納袋(インベントリ)から、黒光りする「超硬合金製バール」を引き抜いた。

魔法銀が練り込まれ、ドラゴンの鱗さえ剥ぎ取る魔界の重工具。

これを手にした瞬間、佐藤の意識は「被害者」から「作業者」へと完全に切り替わった。

彼にとってゾンビはもはや人間ではない。ただの「不法投棄物」であり、撤去すべき「安全上のリスク」でしかないのだ。

地面が、佐藤の怒りの魔力でビリビリと震え、アスファルトに亀裂が入る。

「――『1、安全第一!』」


​叫びと共に、佐藤はバールを横薙ぎに一閃。

先頭で突進してきたゾンビの頭が、野球のボールのようにカキーンと弾け飛び、遠くの廃車にぶつかって火花を散らす。

「――『2、工期厳守!』」


​間髪入れずに、別のゾンビが両腕を振り上げて飛びかかってくる。

佐藤は重心を低くし、下からアッパーカットのようにバールを突き上げる。

ゾンビの顎が砕け散り、勢い余って背後の別のゾンビを巻き込み、二体がまとめて宙を舞った。

「――『3、定時退勤!!』」


​そのまま、佐藤は勢いを殺さず、回転しながら周囲のゾンビを次々になぎ倒していく。

バールが唸り、腐肉が飛び散り、街路樹に頭蓋骨がめり込む。

まるで、ブルドーザーが瓦礫を押し退けるかのような、圧倒的で暴力的な「作業」。

「更地だ。こんな不潔な現場、更地にして一から作り直してやる。……まずは、俺の安眠を邪魔する産廃(おまえら)の処理からだあああッ!!」

佐藤は、死屍累々の道を一歩踏み出した。


​「いいかっ!? お前ら! 今日からここを――俺の現場(スローライフ圏)にする! 今日もご安全に!!」


こうして、異世界帰りの現場監督のおっさんによる、日本一安全な現場(シェルター)作りが幕を開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る