どこからか夜

ゆう

どこからか夜

 僕は夜の散歩が好きだ。頭を整理するのにもちょうどいい。今日もパソコンの前に大人しく座っていることに耐えられなくなり、一人夜に向かって歩き出した。

 今日はいつもより足が前に出るようだった。しばらく歩いて喉が渇いたので、ちょうど通りかかったカフェに入ってみる。明るい照明に一瞬の安心感を覚える。僕は夜が好きなのに。温かい紅茶を飲めば、少しは落ち着くのではないかと期待してカップに口をつける。しかし、いつの間にか貧乏ゆすりをしていた。夜に呼ばれた気がして、そのままお店を出た。――はずだった。なぜか目の前には、入店したときと同じ景色があった。夜になると、時々このループ現象に出くわす。今回は、お店に入ってから紅茶を飲み、出てくるところまでが繰り返されているようだ。このループを抜け出すには、毎回ある条件を達成しなければならない。最近は少しだけ条件の傾向が読めてきているが、はっきりとはわかっていない。過去には飲み物を地面に捨てる、ペットボトルを潰すといった行動で抜けられたことがある。まずはそれらを試してみた。紅茶を飲み干したり、レシートを握りつぶしたりしてみるが、どちらの場合も店内に戻ってきてしまった。他に何かできないかと、お店のテーブルにバッグの中身をぶちまけた。財布に小銭がたくさん入っていることに気づいたので、電子マネーでなく現金で会計してみる。百円玉が足りなかったため、店員に十円玉をたくさん数えさせることになってしまった。しかし、それでもループし続ける。これで抜け出せないとなると、新しい行動をとるしかない。今度は客に話しかけてみる。近くの席の客に近づこうとして、怪しまれるかもしれないことに気づいた。そこで、知り合いのフリをして話しかけることにした。

「こんばんは……お久しぶりです。」

 客の顔を覗き込んで小さく手を振ってみる。相手は口を半開きにしてこちらの顔を見つめた後、ゆっくりと応答した。

「すみません、覚えてなくて…。どなたでしたっけ?」

「スズキと言います。思い出せませんか?」

 偽名である。よくある苗字なので、一人くらいは知り合いにいてもおかしくない。

「…スズキか!」

 客はゆっくりと目を見開いた。

「そうです。良かった。思い出してもらえないかとハラハラしましたよ。」

 本当は別の理由でハラハラしていたが、誤魔化せたようだ。

「こっちに座ってくれ。一年半も待ったんだ。聞きたいことが色々ある。」

 長話になりそうな予感がしたが、間違っていれば途中で勝手にループするだろうと思い、おとなしく客の向かいに座った。

「早速だが、あいつは大丈夫なのか?というか、まずお前は何なんだ?」

 質問攻めだったが、その意味を考える前に一年前の出来事が頭の中で上映された。


 その日は仕事が一区切りして気分が良かったので、一人で居酒屋に行ったのだが、そこでループに入ってしまった。試行錯誤しても、なかなか抜け出せなかった。そこで、僕と同じく一人で呑んでいた客に話しかけてみたのだ。

「こんばんは。僕一人で呑んでいたんですけど、寂しくなってきて。話し相手になっていただけませんか?」

 客はそれを聞いて、僕の顔を何かを疑うような目でまじまじと見た。

「もしかして、お前がスズキか…?」

 僕の名前はもちろんスズキではないので、言葉を処理できずに黙ってしまった。

「俺はイハラというんだが、わからないか?」

「…すみません。わからないです。」

 正直に答えた。

「そうか…。スズキじゃないのか。まあいい。ちょっと話を聞いてくれ。」

 イハラは不思議な話をし始めた。

「半年前くらいかな。友人にある頼まれごとをしたんだ。待ち合わせ場所で、一人で待っていて欲しいと。そうしたら、スズキと名乗る人物が話しかけてくる。そいつの言うことに従って欲しいと言われた。」

 長話をする気はなかったが、続きが気になるので真剣に聞くことにした。

「待ち合わせ場所のお店と時間だけ指定されて、約束の日に待っていたんだ。」

 だんだんイハラの眉間に皺が寄ってきた。

「だが、スズキは現れなかった。だからほぼ毎晩、同じ店でスズキを待ってるんだ。場所はここじゃないけどな。今日は仕事でミスをして、ちょっと呑みたくなったんで。」

 僕まで顔に力が入ってきた。

「スズキが現れなかったことを友人には言ってないんですか?」

「連絡したんだが、返事が一向に返ってこない。だから心配なんだ。何か変な事件にでも巻き込まれていて、スズキの件は何か重要なことなんじゃないかと。」

 彼の顔の歪みを見れば、相当心配しているのがわかる。

「その友人はネット上の知り合いだから、住んでる場所もわからない。様子を見に行くことができないから、俺はスズキを待つしかないんだ。」

 ここまで聞いて、徐々に記憶が刺激されているような感覚がしてきた。断片的に家の景色が蘇る。暗い部屋、本や資料が積み上がった机、ブルーライトに照らされた自分の手。その手は何かを持っているような気がした。しかし、その記憶はおそらくここ最近のものではない。忘れてはいけないことのような気もする。頭を整理したくなり、イハラに「ちょっと、ごめんなさい。」とだけ言って、店を出た。その時はそれでループを抜け出したのだった。


 改めて考えてみると、ループは怖いもののような気がしてきた。自分の行動原理が掴めなくなるのだ。一年前にループから抜け出した条件は、話し相手だったイハラを無視することだったのかもしれない。それはそれとして、無視した挙句に奢らせていたことにも気づき、急に猫背になってきた。

「おい、今の質問に全部答えてくれ。今日なんて体調が良くないのに、ずっと待ってたんだから。」

 イハラがせかし始めた。

「じゃあ、僕の話を聞いてください。」

 咄嗟にごまかすためのシナリオを思いついた。

「話?」

「はい。実は、あなたがネットで知り合ったという友人は、僕が以前悩み相談に乗ってもらっていた相手です。その友人が “忙しくなるので、しばらく相談には乗れない。その代わり、信頼できる人にバトンタッチする。” と言っていました。その信頼できる相手というのが、イハラさんだったんです。」

 僕の話を聞いたイハラはまだ納得していない様子だった。

「あいつ、相当切羽詰まってたように感じたけどな。そういうことなら俺にもっと詳しく説明してくれてもいいはずだし。忙しくなるだけじゃないんじゃないのか?」

 痛いところをつかれて、少し目が泳いでしまった気がした。なんとかセリフを絞り出す。

「それは……僕にもわかりません。僕はさっき話した通りに聞いていたので。」

 下手に嘘を重ねると、矛盾が増えるだけだ。

「そうか…。まあ一旦わかった。あいつの頼みだし、お前の話を聞かせてくれ。」

 イハラは机の上で手を組んで聞く体勢になった。ここで、一年前と同じように退出することもできたが、久しぶりに人と話したからだろうか。話を止める気にはならなかった。

「僕、一応は小説家なんですが、書いたものは大して売れないし、ここ2年くらいはスランプのような状態になっているんです。なかなか書けなくて、でも締め切りは迫るし、もう逃げ場がなくて…。」

 なぜかスラスラと言葉が出てくる。

「夜眠れなくて、でも日が上る前には気を失っていて、もう1年以上太陽を見ていません…。」

 黙って頷きながら聞いていたイハラが声を上げた。

「それって比喩か?本当に日中は気絶してるのか?」

「比喩じゃありません。本当です。僕は夜が好きだったけど、さすがにしんどいですよ。」

 空気が重くなりすぎないように、自然と軽く笑って答えていた。そのまま話を続ける。

「誰かに話を聞いて欲しかったんだと思います。よくネットで辛い気持ちを呟いたりしていました。そしたら、そこでたまに話し相手をしてくれる人がいて。ただ、また締め切りが近づいてきて、話をする余裕すら…。」

 そこまで話して、また一年前のように昔の記憶が蘇ってきた。机を叩く自分の拳。壁に向かって飛んでいく本やペン。首から上の血管が波打つ感覚がした。これは何だ?これは……僕か。


 あの日は散歩する気にもならず、ひたすらパソコンの前で作業をしていた。しかし、いつの間にか手が止まり、ぼうっとしていたのだ。脳みそが壊れていたようだった。意識が覚めてからは机を叩いたり壁に物を投げつけたりし始めた。一通り暴れたあとは少し落ち着いたのか、もう一度パソコンの前に座った。ふと、ペン立てに立てられた仲間はずれが目に入る。それを手に取り、こいつは使い物になるだろうかといじってみる。まずは一度やってみようと思い、それを持ったままお風呂場に入った。――はずだった。あれが、最初のループだった。何が起こったのかが瞬時に理解できず、逆に脳みそが息の根を吹き返した。あの日から、一度も朝日を見ていない。


 腕時計を見る。もうすぐ五時になろうとしていた。

「ありがとう。そろそろ行くよ。」

「まだそんなに話してないけど、いいのか?」

 イハラの瞳孔に焦点を絞って、「はい。」とだけ返した。猫背はもう直っていた。イハラは僕を見つめ返したあと、納得したように力強くうなずいた。

「だったら俺は先に帰る。会計は頼んだぞ。」

 イハラはイタズラっぽい笑みを浮かべて、席を立った。去り際、僕の肩に手を置いて、「スズキに会えたことだし、またあいつに連絡してみないとだな。」と呟いた。


 イハラの背中を見届けたあと、僕は会計を済ませてお店のドアをくぐる。徐々に夜が薄まっていく空が見えた。白い息を吐き出し、突き刺すような澄んだ空気を丁寧に肺に注ぐ。夜の余韻が残る時間帯、東を向いてまた歩き出す。僕は夜が好きだから。

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