この部屋は、割と親切です。
前野チロル
この部屋は、割と親切です。
引っ越しを決めた理由は、特別なものではなかった。
職場から少し遠くなり、家賃が上がった。
それだけだ。
住んでいた部屋に不満があったわけでもない。
ただ、更新のタイミングが来て、改めて家賃を見て、少し考えただけだった。
短期賃貸のアプリを開いたのは、気分転換に近かった。家具付き、即入居可。
条件をいくつか絞ると、
やけに安い部屋が一件、表示された。
駅から遠く、築年数も古い。
写真は少ないが、室内は思ったより整っている。
詳細ページの一番下に、
小さな注意書きがあった。
※この部屋は、割と親切です。
深く考えず、
予約ボタンを押した。
入居初日、
部屋は思ったより静かだった。
隣の生活音も聞こえない。上の階の足音もない。少し不安になるくらい、音がなかった。
床に目立つ傷はなく、壁紙も新しい。
水回りも問題ない。
エアコンをつけると、
すぐに部屋が暖まった。
設定温度は、自分がいつも使っている数字だった。偶然だろう、と思った。
似たような人が住んでいたのかもしれない。
数日住んでみて、この部屋は、割と住みやすいと感じた。
朝起きると、
カーテンが半分だけ開いていることがある。
日差しが苦手なので、
いつもそのくらいにしている。
夜、帰宅すると、
玄関の照明が点いている。
助かった、と思った。
仕事が忙しくなった。
残業が続き、
帰宅はいつも遅かった。
そんな日でも、
部屋は変わらなかった。
照明は目に優しく、
エアコンはちょうどいい。
冷蔵庫には、
買い置きしていた飲み物が冷えている。
理由を考えるのは、やめた。
ある朝、
ゴミを出し忘れたことに気づいた。
仕方なく、そのまま出勤した。
帰宅すると、玄関横に置いてあったはずのゴミ袋がなくなっていた。
管理会社のサービスだろうか、と思った。
部屋にいる時間が、
少しずつ長くなった。
外食をしなくなり、寄り道もしなくなった。
部屋に戻れば
生活は整っている。
洗濯物は乾き
シンクはきれいだ。
考えなくていい。
それは、とても楽だった。
━━━━━━━━━━━━━━━
その頃、大学時代の友人から連絡が来た。
「最近、連絡つかなくない?」
久しぶりに会うことになり、部屋に呼んだ。
友人は、部屋に入るなり、
一瞬だけ、表情を変えた。
「……きれいだな」
褒め言葉のはずだったが
どこか引っかかる言い方だった。
コーヒーを出すと
彼はカップを持ったまま、部屋を見回した。
「お前さ、こんなに片付けるタイプだったっけ?」そう言われて、少し考えた。
答えが出る前に
友人は続けた。
「なんか……生活感がない」
悪い意味じゃない、と付け足したが
その視線は落ち着かなかった。
しばらく話したあと、
友人は早めに帰った。
玄関で、少しだけ言い淀んだ。
「無理、してないよな?」
意味が分からず、笑って流した。
━━━━━━━━━━━━━━━
その後、職場の同僚と付き合うことになった。
彼女は、よく笑う人だった。
初めて部屋に呼んだ日、彼女は驚いた顔をした。「落ち着くね、この部屋」それを聞いて、
少し安心した。
彼女は、よく泊まるようになった。
歯ブラシが増え、スリッパが並ぶ。
部屋は、それを当然のように受け入れた。
エアコンの温度は、二人にとってちょうどいい。
照明は、少し柔らかくなった。
彼女は言った。
「ここにいると、考え事しなくていい」
同じだ、と思った。
ある日、彼女がふと尋ねた。
「ねえ、ここって、前に誰か住んでたの?」
「うーん?どうなんだろうね」
彼女は頷いた。
「まぁ。別にいっか。私たちにとって快適だからね」
友人から、再び連絡が来た。
「一回、ちゃんと話そう」
理由を聞いても、はっきり言わなかった。
部屋に呼ぶ気には、ならなかった。
その夜、彼女が眠りについたあと
一人でソファに座った。
部屋は、静かだった。
照明は、少し暗い。
考え事をするには
向いていない。
それが、ありがたかった。
短期賃貸アプリを開く。
通知が一件、届いていた。
※この部屋は、長期親切プランに切り替わりました
特に、驚かなかった。
引っ越しは、もう考えられなかった。
翌朝、彼女は言った。
「ずっと、ここに住めたらいいのにね」
その言葉に、何も違和感を覚えなかった。
スマホを置き、ソファに座る。
すると彼女は舌を出し、艶やかな表情で僕のズボンのベルトを急いで外そうとする。
部屋は、今日も整っている。
何も求めない。何も問いかけない。
ただ、最適な形を保っている。
――割と、親切だ。
そう思った。
「この部屋は、割と親切です」完
前野チロル
この部屋は、割と親切です。 前野チロル @chirorumaeno
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