だし巻き天使

ゆかのねこ

だし巻き天使

「先生」


 背後から声をかけられた。振り向くと、わたし――秦ひかりが担任している五年二組の児童の母親が立っていた。教室を訪ねてきた彼女の手には紙袋があり、その中に白い薬の袋がのぞいている。


「すみません、薬持たせるの忘れて……」


「いえいえ、お気になさらず。渡しておきますね」


 児童の母親はうつむいたまま、ぼそりと言葉を継いだ。


「一回くらい忘れても大丈夫だと思ったんですけど、心配になっちゃって……。先生は、子ども産んでないから、分からないですよね」


 母親はぺこりと頭を下げ、靴音を立てて廊下の向こうへ消えていった。





「保護者の一言って、たまーに尖ってますよね……」


「なになに? 何か言われた?」


 放課後の職員室に、尾畑先生の声が響いた。隣の席の尾畑先生は五年一組の担任で、二人の子どもがいる四十代の先輩教員だ。

 気持ちを立て直すために、顔を上げて別の話題を出す。


「いや、大したことじゃないんです。それより、夫から玉子焼き器だけ送られてきたんですけど、どういう意味だと思います?」


「別居してる旦那さん?」


「別居っていうか……単身赴任です」


 尾畑先生が「意味って……使えってことじゃない?」と言う。


「そうですよね。宅配ボックスに届いてて。なんか、ちょっと不気味じゃないですか」


「旦那さん、料理しないの?」


「しないです。わたしもそんなに上手じゃないけど」


「玉子焼き器って、玉子焼き作るための四角いフライパンだよね?」


 わたしは足元から玉子焼き器をスッと取り出して、顔を隠すようにして掲げた。


「お、高そうなやつだね」


 それがまた、不気味なんだよなあ。新品の玉子焼き器が蛍光灯の光をはね返して光る。銀色って、いつだって時間を拒否してるように見える。

 そのとき、教頭先生が職員室に入ってきて、「五年生の先生方、稲作体験で作ったお米、届きましたよ~!」と声をかけてきた。

 五年生は一年を通して稲作体験学習を行い、収穫した米を調理実習で炊飯する。

 わたしと尾畑先生は届いた米袋を家庭科室まで運び、覗き込んだ。


「けっこう量ありますね」


「予定より多い気がするわ。農家さんが、少し多めに入れてくれたのかも。 一つだけ包装も違うし」


 紙袋の口がほどけて、白い米がこぼれた。蛍光灯の下で、一粒一粒が骨みたいに光っている。


「秦先生の二組は、明日が調理実習だよね」


「はい。調理実習って、給食もあるからちょっと困るんですよね」


「今回は炊飯だけだけど、給食残らないといいね」


「ガラス鍋で炊くの難しいんで、そっちが心配です」


 調理実習では、炊けていく様子が分かるように、ガラスの鍋で炊飯する。


「中が見えるの学習にはなるけど、焦げやすいんだよなあ。気をつけてね」


「これからちょっと試してみます」


「えらいね」


「暇なんですよ」


 言ってから、少しだけ笑った。





 夕日が、家庭科室に差し込んでいた。下校時刻を過ぎた学校はしんと静かで、誰もいない家庭科室はやけに広く見える。

 コンロに火をつける。鍋の底で泡がふくらんで、弾けて、また、ふくらんで、弾けた。水が生きものみたいに動いている。


「さて、玉子焼きも作るか」


 誰もいない部屋で声を出すと、少し安心する。米だけあってもな、と思って、さっきコンビニでひととおり材料を買ってきた。

 卵を割る。黄身が崩れると、光がその中でひとまわり小さくなる。

 砂糖を大さじ二分の一、醤油をほんの少し。

 油をひいた玉子焼き器が、ジュッと音を立てた。その音が、小さな拍手みたいに思えて、それだけで少しうれしかった。

 夫の貴幸は料理が下手だ。だから料理を作るのはわたしの役割だった。何を出しても文句を言わず、褒めてくれるので作りがいがあった。

 自分にとって料理は、反応が否定であれ肯定であれ、誰かのために作るものだった。

 久々の料理。焼きあがった玉子焼きは、黄色くて、ふつうで、何の主張もない。


「ふつうでいいのにね」


 つぶやいた声が、空気の中で薄く溶けていく。

 火を止めた瞬間、ガラス鍋の中からブクッと音がして、湯気が立ちのぼった。

 白くて濃くて、まるで生き物みたいに揺れている。


 ――鍋の中に何かが、ある。


 一歩、あとずさった。そして次の瞬間、


「おーおーあーたーりー!」


 湯気の中から声がした。それが人間の声だと理解するまでに、少し時間がかかった。

 湯気の奥に、黒いコートの男が立っている。

 背中には、翼。

 光の粒みたいな羽毛が、蛍光灯の白さの中で、ゆらゆらと揺れている。


「ひっ」


 叫ぼうとしたわたしの口を、男がふさいだ。その手はふんわりと妙に暖かい。


「驚かないでくださいよぉ。ほら、私の背中の、見えますか?」


 下がり眉の男が、おどおどと自らの背中を指し示す。わたしはもう、叫ぶどころではなかった。


「は、羽がある……」


「そうです、羽です!」


 男がくるりと背を向け、自慢げに翼を広げる。羽があたりそうになって、慌てて後退すると机に体がぶつかった。


「私は、稲の妖精のような、なんというか、天使のようなものです」


 男が正面に向き直る。


「私はね、あなたのような方をずっと探していたのです」


 よく喋る不審者だ。小学校の家庭科室で、翼の生えた黒コートの男が夕日を背負って喋っているという事態に、頭が追いつかない。


「……通報しますよ」


「構いませんが、他の人には私の姿が見えません」


 これはわたしの頭がおかしくなったに違いない。炊いた米に幻覚作用でもあったのか。

 ため息をついた。玉子焼きはすっかり冷めてしまった。


「はあ。……お酒、持ってくればよかった」


 いっそ、酔っぱらってしまいたい。


「次回は用意して参ります! その代わり、私を助けてください!」


 米の妖精なら日本酒だろうか。というか、次回とは。いろいろと、どうでもよくなってきた。


「助けるって……?」


 天使はがばりと床に手をつき、頭を下げて叫んだ。


「どうか、私に料理を教えてください!」


 鍋の中では、米がまだ静かに蒸らされている。米と卵と何か知らない匂いがひとつになっていた。


「私、本気なんです。上司の宴会が近くて」


「上司……」


 天使の上司は、やはり神様なのだろうか。


「上司は、食べることが好きなんです。必要ないのに。どんどん味にうるさくなってきてて、出来合いのものは嫌だとか、冷めてないものが食べたいとか……もううるさいんですよ」


「わがまま上司ね」


「まさにそうです。しかもあの方、気まぐれでセンスがない。不味いものを作ろうものなら――恐ろしいことになります」


 天使はスーパーの袋から卵を取り出しながら話し、取り出し終わると椅子に腰を下ろした。


「恐ろしいことって?」


「……私は上司の手で作られた眷族のひとりです。だから姿かたちも、上司の気分ひとつで変えられてしまう。不味いものを作った者は、今とは別の姿に変えられるんです」


「変えてもらった方がいいんじゃない?」


 天使を名乗るなら、美少年とか美少女のほうが、説得力がある気がする。


「私は今の姿が気に入ってるんですよ! 羽の色が変わったり、動物になるくらいならまだいい。でも最近は俗世に染まり過ぎて、『もっと可愛く、ゆるキャラとかにしない?』って言いだしてて、ほんと怖いんです!」


 天使は真顔だった。わたしは壁の時計を見て、ため息をひとつ。


「とりあえず、なんか作ってみてよ」


「はい! 喜んで!」


 天使はすっくと立ちあがり、反対にわたしは椅子に腰を下ろした。天使は黒いコートを脱ぎ、エプロンを首にかける。袖をまくる仕草が、やけに人間くさい。


「玉子焼き用のフライパン、借りますね」


 玉子焼きに挑戦するつもりらしい。

 夫が送ってきた玉子焼き器は、炊飯実験のあと家庭科室に置いたままだった。「どうぞ」と言うと、天使はガラスの戸棚から玉子焼き器やボウルを取り出した。

 ステンレスのボウルに卵を割る手つきはぎこちなく、混ぜるたびに金属の音が放課後の廊下に響く。

 焦げた匂い。焦げたスクランブルエッグのような何かが出来上がる。


「味がしないね」


「私たち、ものを食べる必要がないので……」


 これをどうにかするのは大変そうだ。


「うーん。そもそも玉子焼きは、形をまとめるのが難しいから、避けた方がいいかも。別の料理に挑戦したほうがいいと思う。アドバイスとしてはそんなとこかな。まあ、あとは自分で頑張って」


「じゃあ何ならいいんですか。ひかり先生、お願いしますよ」


「ひかり先生って呼ぶのはやめて」


「いいじゃないですか。私にとっても、貴方は先生なんですから」


 子どもに呼ばれるならまだしも、成人男性にそう呼ばれるのはなんとなく落ち着かない。

 けれど、言い返すのも面倒で、それ以上は何も言わなかった。





 いつまでも学校に置いておくわけにもいかず、昨日の玉子焼き器は家に持ち帰った。そういえば、夫にお礼のメッセージも何もしていない。LINEで『玉子焼き器ありがとう』とだけ送った。

夫からの返事はすぐに来た。内容は『よかった』とだけ。

 わたしもだけど、夫も言葉が少ない。何が“よかった”のかと考えても、心の中だけに止めておく。

 家に帰ると、玄関にスーパーの袋が置かれていた。いつの間にか天使が家の中にいる。


「勝手に入ったら泥棒だよ」


「私は霊的存在ですので」


「そういう問題じゃない」


 彼はきちんと座り、まるで生徒のようにノートを開いていた。


「カレーを作ってみました」


 鍋の中をのぞくと、確かにカレーだった。具材はどれも大きすぎる気がするけれど、色は悪くない。匂いもちゃんとする。スプーンですくって口に入れた。


「うん。ふつうに美味しいよ。これ出せばいいんじゃない?」


 ひと口食べてそう言うと、天使は神妙な顔をした。


「でも、宴会にカレーは変じゃないですか?」


「そうねえ。持ち寄りパーティーでカレー持ってくる人いたら、ちょっとチャレンジャーとは思うかも」


「ですよね」


 天使は真面目にうなずき、ノートに『カレー×』と書いた。


「あの、お米炊いてもらえますか。炊飯器の使い方が分からなくて」


「え、そもそもこの材料どうしてるの」


「……まあ、アリエッティ的な感じですね。借りぐらしの……」


「ちょっと! やめてやめて。言わなくていい。次から材料はわたしが用意するから、勝手に作らないで」

 しかし、お米の炊き方も分からないのに、どうやってカレーを作ったのだろう。

 そう思っていると、天使がテレビの電源を入れた。リモコンの『YouTube』ボタンを押し、動画を再生する。


「これ、すごくないですか。だし巻き玉子。ふわふわで、黄金色で、まるで月を切り取ったみたいです」


 と、うっとりと言った。

 ――なるほど、YouTubeか。

 カレーが様になっていた理由も納得した。

 わたしはキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。一人暮らしとは思えない卵の量だ。もともと家にあった分と、家庭科室で余った分をあわせて十個くらいはある。


「作ってみよっか。チャレンジ、チャレンジ」


 ひととおりの材料を入れて混ぜるよう指示を出す。左右に切るように、泡立てないように混ぜて、最後に茶こしで濾(こ)す。

 油を染み込ませたキッチンペーパーで油をひき、火をつける。玉子焼き器が少し温まったところに、ほんの少し卵液を垂らす。ジュッ、と音がして、天使が小さく息をのんだ。


「動画思い出しながら、やってみよ。最初は巻かずに寄せる感じでいいから」


 卵液を流し込むと、玉子焼き器の表面に黄色が広がった。

 巻く、押さえる、また流す。

 その動作のたびに、天使の目が真剣になる。


「一回、火を止めるね。巻くの続けてやってみるから、見てて」


 再び火をつけ、玉子焼き器を持ち上げる。時折アドバイスを加えながら、形を整えていく。


「美しいです!」


「食べてみなよ」


 だし巻き玉子の匂いが、部屋いっぱいに広がった。玉子焼きを食べやすく切って渡すと、天使は箸でつまんで口に運んだ。

 まだ湯気の立つ熱々の玉子焼き。


「ふわふわで、おいひいです!」


 天使が目をまるくして感想を言う。熱さで口がまわっていない。


「ほんとは数分置いて、熱を冷まして切ったほうがいいんだけど、熱々もいいよね」


 おいしいと言われて、少しだけ嬉しかった。言葉の温度が、喉の奥まで届く感じがした。

 スマホの通知音が鳴った。母からのLINEだ。


『貴幸さんとは話してるの? 子どもは早い方がいいんだから、早く話し合いなさい』


 一気に胃がぎゅっとなる。既読をつけたことを後悔した。返事をしないと、今度は母の長い電話が始まる。電話を取らなければ鬼のように着信が続く。取っても説教が待っている。

 急いで『変わりないよ。貴幸さんとは月末に話す予定』とだけ返した。夫は十一月後半の休日にこちらへ来る。


「すんごい顔してますよ」


 天使がスマホを覗き込んだ。


「お母さまからですか」


「まあ、そう」


「母というものがいないので分かりませんが、私にとっての上司のような存在ですかね」


「そうかもね。……心配してくれてるのよ。わたしのことを」


 スマホを伏せたまま、天使のほうを見た。天使は残りの玉子焼きを静かに味わっている。


「玉子焼きは、練習あるのみだね」


 翌日、天使の姿が見えたのは、学校から帰るため車を運転しているときだった。助手席からいきなり話しかけられ、手元が狂いそうになり思わず叫び声をあげた。天使はそんなわたしの様子などお構いなしに話し続ける。


「ひどいですよ、一つも残ってないなんて!」


「ほんとに危ないから、運転中にいきなり話しかけないで」


「ひかり先生がお一人で作ったんじゃありませんよ! 二人で作った玉子焼きなの

に……。私がいないときに一人で全部食べちゃうなんて、ひどい!」


 卵がまだ余っていたので、あのあと追加で玉子焼きを作らせた。なるべく手伝わず、どうにか天使が一人で作ってもまあまあ形にできるようになった。残った玉子焼きは冷蔵庫に入れ、今朝、食べてしまった。カレーはまだ残っている。


「悪くなっちゃうし、食べちゃったよ」


 文句を言い続ける天使を横目に、自宅のマンションに到着した。駐車場に車を停め、エレベーターで四階の玄関へ。そこでようやく静かになった。

 上着を脱ぎ、洗面台で手を洗っていると、インターホンの音が鳴り響いた。こんな時間に、誰だろう。嫌な予感がした。

 モニターパネルには、母が映っていた。通話ボタンを押すと、はじけるような母の声が飛び出した。


「よかったぁ、家に帰ってて。待ちぼうけになるかと思ったわ。早く入れて~!」


 母がデパートの紙袋をいくつも腕にかけたまま、はやくはやくと手を振って催促する。紙袋どうしがぶつかる低いがさがさという音が、モニター越しに聞こえた。

 靴を脱ぐ間も惜しむように上がり込み、買ってきた総菜をダイニングテーブルに並べる。透明の蓋が外され、匂いが一気に広がった。照り焼きの甘い匂い、ポテトサラダのマヨネーズ、少し香水。わたしの家の匂いが押し出されて、別の家になる。


「こんなにいいのに……。事前に連絡してよ」


「だってさ、月末に貴幸さん来るんでしょ。だったらその前に顔見とこう思って。あんたがどうするつもりか、聞いておきたいし」


 天使は並べられた総菜を興味深そうに眺めている。これから母の口から出てくる様々な言葉を想像して精神がざらつき、聞かれたくなくて出て行って欲しかったが、人から見えない相手に声をかけて追い出すことはできなかった。


「さっき帰ったばっかりなんでしょ、食べなさい」


 と母が着席を促す。わたしは席に着いて鶏肉の照り焼きを口にした。少し、しょっぱい。


「カーテン、もう少し明るい色にしたほうがいいわよ」


「そう?」


「だって陰気よ。あと、照明、暗くない?」


「最近まぶしいのが苦手で」


「そう。老眼?」


「ちがうよ」


「それで、どうするつもりなの?」


「どうって……。急いで決めずに、話し合うつもり」


「なに悠長なこと言ってんの! 子ども欲しいんでしょ? 貴幸さんはいい人だけど、不妊なら、別れるしかないじゃない」


 夫の貴幸は、男性不妊症だ。

わたしは子どもが欲しかった。子どもが好きだから、学校の先生になった。授からない原因は自分にあると思って検査に行ったが、医者に勧められて夫も検査し、精子がないと分かった。その結果が出たころ、夫の転勤が決まった。

 ついていくために異動届を出すことも考えた。出したところで、すぐに異動先が決まるわけでもない。仕事を辞めることも考えた。けれど夫から言われたのは「子どもが欲しいなら、このまま別れたほうが良いよ」だった。

 わたしはすぐに答えを出せなかった。


 ――俺はひかりの夢を叶えてあげられないから。


 その言葉が、まだ耳の奥でくすぶっている。

 母はまくしたてる。


「だってあんた、趣味らしい趣味もないし、歌手とか芸能人みたいにものすごい才能があって、ひかりしか出来ない何かがあるわけでもないでしょ」


 ポテトサラダを取り分けながら、母は続ける。


「子どもでもおらんと仕事ばっかりになるよ。仕事なんて死ぬまで一生できるわけじゃないんだから。公務員で安定してるし、器量も悪くないし、すぐ動けば、ひかりの年齢ならまだ間に合うんだから」


 ポテトサラダは、砂利を噛むみたいに何の味もしない。天使も何も言わない。

 昔、政治家が言っていた。『子どもを作らないカップルは生産性がない』。

 政治家のその発言は非難されていたけれど、違うかたちで同じことを、ほんとうはみんな心のどこかで思ってるんじゃないか。

 子どもがいれば、母という肩書が、そのレースからわたしを降ろしてくれると思っていた。

 夫の事は好きだ。でも、自分の子どもも欲しい。

 決めなければならない。

 夫が送ってきた玉子焼き器には、離婚届も同封されていた。

 母は、わたしの顔を見て言った。


「なに考えてるの? 子どもが欲しいなら、答えは決まってるじゃない」


 それから母はそのまま一晩うちに泊まり、昼前に出かけて行った。嵐のような人だ。

 入れ違うように、いつの間にか消えていた天使が、ダイニングの椅子に腰かけていた。

 母の前で縮む自分を見られてしまった。


「誰にも言わないで」


「言う相手なんていませんよ」


 自分の情けなさにどうしようもなく苛立ち、涙がにじむ。

 腹が立つ。母にも、夫にも、自分にも。


「天使なら奇跡の一つも起こせないの? あなたはいいよね。気にしなくていいんだから。産むとか、肩書きとか。関係ないから」


 天使は黙っている。黙るのが仕事みたいに、上手に黙る。

 感情が昂って涙がぼろぼろと流れてくる。


「あんたなんか、ひよこにでも変えられて、ピヨピヨ言っとけばいいじゃない!」


 天使は呆気にとられた顔をして、それから、小さく笑ったように見えた。笑ったのか、悲しんだのか分からない表情で、


「……何もできなくて、ごめんなさい」


 それだけ言って、輪郭が、ゆっくり薄れていった。





 土曜日。十一月も終わりに近づき、昼が過ぎると日の入りまでが短い。

 日が傾くのが早く、午後の空気には冬の気配が混じっていた。風は紙のように乾いている。

 今夜は、夫が家にやって来る。

 天使が消えてから、数日が経った。朝起きても、教室でも、もう声はしない。

 部屋の空気は少し広くなったようで、でも、どこか冷たかった。

 スーパーで買った卵のパックを冷蔵庫に入れるたび、このまま何も作らず腐らせてみようかな、と少しだけ思う。

 冷蔵庫を閉めて振り向くと、天使がいた。相変わらず心臓に悪い。

 黒いコートの襟を両手で整え、羽根をひと筋、わざとらしく出してみせる。


「今日は、どうしてもお願いがあって」


「もうやめて。わたし忙しい」


「うそです」


「うるさい」


 天使は申し訳なさそうに、両手を胸の前で合わせた。


「今日、仲間たちが集まるんです。あの、上司の……宴会で」


「聞きたくない」


「でも、もう……連れて行くって言っちゃいました」


 言われるがまま歩かされ、会場だという神社の石段をのぼる。今日は行事があるようで、境内はにぎわっていた。


「こんなに歩かされると思わなかった……」


「徒歩で、すみません」


 天使は両手にスーパーの袋を持っている。玉子焼き器もその中にある。材料はわたしが渡した。約束だったから。

 拝殿の脇の細い道を進む。光が少しずつ竹の影に変わり、赤い提灯の列が、風にほぐれた糸のように揺れていた。

 その奥に、古い木造の家が見えた。

 わたしは立ち止まって、「帰る」と言った。


「ちょっとだけ。顔見せるだけです」


 玄関を開けると、熱気がどっと押し寄せた。

 酒。焼けた魚の匂い。湿った笑い声。

 畳の上におじさんとおばさんが十人ほど。天使のように羽はない。

 宵口のスナックか、知らない親戚の集まりに迷いこんだようだ。「人間だ」「先生やって」とざわついている。


「座って、座って」


 空いている席に促され、着席する。湯呑みが手の中に置かれて、透明な液体が注がれる。水かと思って口をつけると、日本酒だった。すっきりと冷たくて、飲み込むころにだけ熱が立つ。美味しい。

 天使は奥の台所に消えて、しばらく戻ってこなかった。卵を割る音、菜箸が金属に当たる音、油のはねる音。

 かすかに聞こえてくる音に、わたしの呼吸が少し整っていく。

 上座から女性が話しかけてきた。


「あなたが教えたんだって?」


 たぶん年齢はわたしより十歳ほど上だろう。見た目は普通の主婦なのに、彼女の周りだけ空気が違う。この人が“上司”なのだろうと思った。


「いえ、教えたというほどでは」


「謙遜もいいけど、いい匂いしてるよ。楽しみだわ」


 なんだか緊張して、お酒をゆっくりと飲み込んだ。授業参観でもこんなに緊張したことはない。

 皿が運ばれてきた。できあがった玉子焼きは、表面がふわっと光って、机に置いたときに湯気の向こうで少しだけ揺れていた。

 「きれいだね」と女性がつぶやいた。天使は緊張した面持ちで「ありがとうございます」と答えた。


「先生も食べな」


「は、はい」


 天使が取り皿にひとつ取り分けて、わたしに渡す。

 ひと口食べると、出汁の味が広がり、あとから卵の甘さが追いかけてきた。飲み込むころには、体の中があたたかくなっていた。


「おいしい」


 子どものころ、初めて母に褒められた料理。夫が「毎日食べたい」と言ってくれた料理。

 人が一生懸命作った料理を食べるって、こういうことだったんだ。


「めちゃくちゃうまい! やっとそのダサい羽とサヨナラできると思ってたのに、これじゃできないわ」


 仲間たちの笑い声が弾ける。

 天使は顔をあげて、ほっとしたように笑った。


「おめでとう。よかったね」


「よかったです」


 羽は、たぶんないほうが生きやすい。

 けれど、天使にとっては、他人に頭を下げてでも守りたい大事なものなのだと、今になって分かった気がした。


 外へ出る。空気が冷たくて、頭がはっきりする。

 境内は行事が行われているようで、人の声と音楽で賑わっていた。

 お祭りかと思ったら、『神社マルシェ』と書かれたのぼりが立っている。神社も今はいろんなイベントをやるらしい。

 クレープ、餃子、ハンバーガー、子どもの笑い声、流行りの音楽。人の声が空にのぼって、空中でほどけていく。


「おめでとう」


 わたしはもう一度言った。


「ありがとうございます」


「この前は、ひどいこと言ってごめんね」


 今さらかもしれない。でも、謝りたかった。

 全部をぐっと飲み込んで、進んでいくには、時間が必要だった。


「あなたの仲間、誰も羽がなかったね。……なんで羽をつけているか、聞いてもいい?」


 少し迷うような沈黙のあと、天使が口を開く。


「……私は、羽をつけているだけの化け物です。でも、羽があると天使に見えるでしょう。天使なら“善いもの”ですから、人間が良くしてくれることがあるんです。羽がなければ、ただの幽霊みたいでしょう。それだと、怖がられるばかりで仲良くはなれない。私は人間になりたいです。ものを食べたり、触れたりしたい。奇跡を望まれたのも、初めてではないんです。本当の天使じゃなくて、ごめんなさい」


 最初から叶わない願いでも、何も生み出さないし、何にもならなくても、持ち続けてしまうものなのだ。けれど、その中であがくことが無意味だとは限らない。


「……本当に、美味しかったよ。玉子焼き」


 天使は笑った。親に褒められた子どもみたいに、照れくさそうに。

 ポケットの中で通知音が鳴った。


『いまどこ? 家についたよ』


 わたしは顔を上げる。天使の姿は、もうなかった。

 手元には、スーパーの袋に入った玉子焼き器だけ。

 新婚のころ、料理がまるでできない夫が、初めて挑戦した料理もだし巻き玉子だった。なんで最初から難易度の高い料理に挑戦するのだろうと思った。案の定、油の量が足りず、卵は玉子焼き器に張り付いてぼろぼろで、ほとんど味がしなかった。

 がっくりと肩を落とした夫は言った。


 ――おじいちゃんおばあちゃんになる前には、綺麗なだし巻き玉子が作れるようになって、食べさせたいな。


 奇跡は起こらない。選択肢は限られている。それでも、その中で、あがくしかない。

 夫にも教えたら、綺麗なだし巻き玉子を作れるようになるだろうか。

 あの天使のように。

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