真理の書

丸山弌

真理の書

 その図書館には、奇妙なうわさがあった。


 とはいえはじめは、それを知っているのは僕くらいなものだったんだけどね。なにせみな、アヴェスターの作成とやらで忙しそうにしてるんだ。その間、僕は様々な信徒たちの布教路上ライヴを巡っていて、色々な思想やうわさ話を聞いて回ることを趣味にしていたのさ。


 数日かけてクテシフォンにまでいけば、それはもう荒唐無稽な酷い〝神の言葉〟とやらを聞けたものだった。


 みなそれぞれが真のユダヤ教を名乗っていてさ、愛とか夢とかを高らかに説いているんだよ。


 それなのにその根底にある神話ときたら、今や刺激を求める土民に即したくだらないエンターテインメントと化していて、過激な殺戮劇に聴衆はみな興奮の歓声をあげているんだからね。


 これもすべては約500年前、かの有名なアレクサンドロス大王が世の中の文化をかき乱してくれたおかげなんだな。彼がナイルの北西にアレクサンドリアを作ったこともあって、ローマ帝国の地中海を挟んで南にあるアギプタス地方の宗教まで入り込んできている始末だ。


 でも、そんな熱狂的でロックとパンクが入り乱れる空気も、僕の地元であり父とキルディールがいるイスタルフよりは全然マシだった。


 辺境、イスタルフは陰気臭い。


 厳格な拝火教の神官たちが重たそうな装束を身に纏って、その教義を聖典アヴェスターに記そうと躍起になっている。


 これまで拝火教は口伝が常だったから、ウチみたいな大寺院の守護者であるなら事細かにその内容を伝承されているけれど、そのあたりの土民には教えのほんの隅っこしか伝わっていない。


 これまではそれでよかったかもしれないけど、ライヴの内容を書物に残しはじめた異端の筆頭たるナザレ派の勢いが無視できなくなってきて、偉い人たちが慌てているらしいんだ。


 そのうえ神官同士で伝承の解釈も異なる部分があるらしく、内部でもいざこざが絶えないんだから呆れちゃうってものさ。


 ユダヤ教ナザレ派発生のきっかけとなったイエス・キリストという人物の路上ライヴは、いまやアレクサンドロス大王に次ぐ伝説になりはじめている。もう200年前の話とはいえ、十字架を背負って磔だからね、大したものさ。


 それにそのあと、パウロという信徒が彼を神の使い、その母を聖母として、その言葉を広めて回った伝道の旅も大きかったと思うよ。なにせナザレの人イエスの話は巷に溢れている愛や夢といった言葉の源流で、パウロはそれを実に上手に自分のライヴに組み込んだものだから、聴衆はそれこそヘドバンしながら夢中になったらしいんだ。


 そんなふうにパーパク爺さんが自分の曽祖父から聞いたと話していたんだから、たぶん本当にすごい雰囲気だったんだろうなと思うよ。


 ところが、だ。


 ある日、僕が嫌いな若い神官キルディールが、父に耳打ちしていたのさ。


「世の真理が記された書がクテシフォンにあるだと?」


 父が叫ぶ。

 厳格な拝火教の守護者である父は、どうもそれが許せなかったらしい。拝火教はペルシア土着の古い宗教だ。遥か昔はスキタイ人なんかと揉めながらも、その伝統と信仰を守ってきた。


 それがかの英雄アレクサンドロスに蹂躙されて土地を奪われ、いまや国とも呼べない領地の一角で肩身を狭くしているんだ。


「アルタバノスめ。奴はなんでもかんでも受け入れる。おかげでテグリス流域はカルトの宝庫だ」


 代々守り続けていたものが奪われ、その地で好き勝手されている。そんな怒りもわからなくはないけれどね。


 でもそれもまたおもしろいんじゃないかと、こっそりと笑ってみたのさ。すると、父の神鳴りが落ちたんだな。


「シャープール!」


 我ながら酷い名さ。〝王の子シャープール〟だって。それが僕の名前。



「お前もそうだ。お前たちはどうしてそうも軟弱なんだ。この世界は異端どもの妄言で飽和している。由緒正しい我々拝火教は日に日に衰えるばかりだ。加えて西には皇帝カラカラがこちらへ睨みを効かせているんだぞ! パルティアがいつ滅びるかわかったもんじゃない!」


 暴君カラカラはこのあたりでも有名だ。子どもが言うことを聞かないと、母親が「カラカラがこの土地を襲いにくるよ」と脅すほどにその傍若無人さは伝わっていた。


 でも、実際の所、そんな心配はないような気がするんだな。


 たしかに強大なローマ帝国と張り合えば、パルティアなんてひとたまりもないだろう。けれどその支配者がカラカラというのは、その中でも比較的幸運な方だ。


 というのも、僕をして思うのは、奴は破壊者であり消費者でしかないということなんだ。今あるものを使うことしかできない、創造性のない人間ってことさ。


 そういう人間は、周囲の物も人も際限なく壊していく。そしていつか、自分の身すら破壊することになるんだ。きっとそのうちだれかに裏切られて暗殺でもされるだろうさ、賭けてもいいね。


 それよりも、だ。

 父が例のうわさを知ってしまったのは、少しだけ悔しかったな。


 パルティアの首都クテシフォン。

 あらゆる宗教や思想に寛容なパルティア王アルタバノスのおかげで、クテシフォンはアテネやアレクサンドリアになりつつあった。


 世界中の色々な書物が集められて、そこには、神が記したとされる真理の書があるなんてうわさが出回った。もっとも、実のところそんなものはなくて、蓋を開けてみたらアラム語に翻訳されたアリストテレスあたりの書だろうと予測はしているけどね。


 いや、もちろんそれはそれで読みたいとは思うだけどさ。色んな偉人が彼の言葉を引用しているから、いつか西の言葉を学んで西の本を読んでみたいという気持ちは強い。


 でもそれ以上に僕は、そういったものを読んで触発された人の主張を聞くことが好きなんだ。つまり、神の啓示を受けたとか言って声高らかに路上でライヴに勤しんでいる人たちの言葉に耳を傾けることが好きだったのさ。


 布教は心地が良い。


 その人が信じた美しい言葉と聴衆を焚き付けるためのくだらない話が入り乱れて調和しているんだからね。いつかそうした人たちを集めてフェスでも開けたら楽しいだろう。地方守護者の王の子たる僕の、小さく密かな夢だった。


 *


 それからたった数日というもの。

 ローマ帝国の泣く子も黙る皇帝カラカラがパルティアに戦争を吹っ掛け、パルティアがピンチだという情報が飛んできた矢先に、カラカラが死んだらしい。


 あまりに唐突過ぎるできごとに、思わず僕は笑ったよ。そんな伝聞は風よりも早くバビロニアを駆け抜けイスタルフへと届いていた。


 死因は案の定、暗殺だったそうだ。

 そりゃそうだろう、奴は我欲に忠実な暴君なんだ。でもそれよりも痛快だったのは、その混乱に乗じて、パルティア軍は攻勢を強め、2ヶ月後にはついにローマ軍を撃退。一瞬だけローマに土地を支配されたものの、それを取り戻すことができていたらしいんだ。


 やるじゃないか、アルタバノス。

 まるでカルエラの戦いの再来だ。


 情報をいち早く届ける騎馬民族もその表情をどこか高揚させている。


 けれど僕にとって、それは不幸な出来事の始まりでもあった。


「アルデシール様! 今こそ好機!」


 その報を受けたキルディールが、父の名を呼んで声をシャウトさせる。


「異端の存在を許すアルタバノスの一軍は疲弊しています。ペルシア人の力を結集させ、アフラマズダーの名のもとにバベルの地を光の世界へと導く時です!」


 石でできた大神殿の奥深く。

 ザラスシュトラの火が中央の祭壇で燃え続ける中、キルディールはじめすべての神官はパダムという白いハンカチを口にあて、厳格な雰囲気を漂わせている。


 その一番偉い席にはパーパク爺さんが鎮座していたけれど、この神殿の実権を握っているのは実質、僕の父アルデシールなんだな。


 キルディールのパダムが、その意味をなしているのかわからないほど弾けて揺れる。


「我らペルシア人、拝火教の安寧を! そして一刻も早く、アヴェスターの完成を!」


 アヴェスター。

 キルディールといえばアヴェスターだ。


 父の隣で良い子にしていた僕は、内心呆れかえっていた。父とキルディールは拝火教の守護者であり神官であり、その教義を疑っていない。


 光は善で闇は悪。

 人はそのどちらの勢力につくことも可能なのだけど、闇は無知の象徴であり、逆に光は真理の象徴と世界の調和を意味している。


 人は火の儀式を通じて心身の浄化を促し、アフラマズダーの力を得ることで信者は自らの善思・善語・善行を省み、正しい道を歩むことができる——キルディールら神官は、信者に向けて毎日そのように説いているんだ。古くから伝わる、聞いていて退屈な子守唄さ。


 本来、そんな平和を願う宗教家たちが、どういうわけか戦争を望んでいる。そしてキルディールに焚きつけられている父の瞳にも、まいったね。好戦的な光が灯ったように感じられたんだ。


 まだ青年のようなキルディールがどうして神官の中でここまで発言力を持っているか、その熱心さからよくわかっていたつもりだけど、僕が思っていた以上の人物であったことをこの時に確信したよ。


「異端がのさばるパルティアに、火による浄化を」


 父は拳を掲げ、神官たちの中央に立ったんだ。


 *


 あーあ。

 なんだかつまらないことになりそうだ。


 僕はいつもの趣味に勤しむべく、イスタルフからクテシフォン方面へと向かっていた。僕なんかよりもよっぽど大きな馬に乗って、ペルシアンブルーの空へとのんびり大地を歩む、悠久の旅路。


 街が近い街道にはオリーブやメロン、かぼちゃ、アーモンドの山を売る土民たちが絨毯を広げている。御付きはいらないと父に言ったのだけど、「お前は王の子だ」と僕自身の名を根拠に、腕に覚えのある若い神官を何名か帯同させているから鬱陶しい。


 野菜売りたちの隙間には、奇抜な衣装でその場に直立して、自身が信じる言葉を語る自称神の使いたちが路上ライヴを繰り広げている。世間は相変わらず路上ライヴブームの真っ最中だ。


 ただ、もし父がパルティアを獲った場合、こうした活動は許さないだろうね。隣にはあの若いキルディールがいるんだからなおさらなんだな。


「ハレルヤ!」

「ハレルヤ!」


 布教者と聴衆のコールアンドレスポンスが盛り上がっている。ナザレ派もだいぶ東まで来たものさ。


「くそ、異端者どもめ」

「でかい顔しやがって」


 御付きの若い連中が殺気を強めていて、あー怖い。でも悪い奴らじゃないんだぜ。純朴な拝火教信者ってだけなのさ。


 僕はなにかおもしろいことがないかと馬に合図し、さらに街道を進んだよ。するとしばらくして、全身白装束の異様な姿をした野菜売りの少年が目についたんだ。


 その様相はどこか聖職者めいているのに、素足は埃だらけ。場違いなほど透き通った瞳だけが、こちらをまっすぐ射抜いてきた。同じ年端の少年だろうか。


「……こんにちわ。商売は順調?」


 なんて気まぐれで声を掛けてみた。わかるだろ、それだけ僕は退屈だったんだ。


 もちろん冗談半分ですぐにその場を立ち去るつもりだったんだけれど、少年はオリーブの籠を胸に抱えたまま、まっすぐと言ったんだな。


「順調――光が導くかぎりはね」


 達観したような口ぶりに思わず吹き出したさ。僕らが拝火教の人間だとわかって媚びでも売ってるのかと思ったからね。


「そんなことを言っていいの?」と僕は聞いてみた。「その衣装はナザレ派でしょ?」


「不本意で着てるだけだから。俺はナザレの人には興味ないし、拝火もしていない。でも、いつか路上に立ちたいとは思ってる」


「立ってどうするのさ」

「真理を述べる」

「それはおもしろい!」


 思わず僕は爆笑してしまった。

 まったく我ながら意地の悪い人間だよ。彼もまた路上ライヴに憧れる人間だったんだ。


「それで、君の真理ってなに?」


「世界には光と闇があった。光は精神、闇は物質。ある時、光と闇が衝突し、光は闇に飲み込まれてこの世界が生まれた」


「ウチの宗教観を語っているなら、少し解釈が違うようだけど」


「真理の書に書いてあったんだよ」


 真理の書。

 真理の書だって?


「〝この宇宙は巨大な爆発的拡散によって発生した〟」


「君はクテシフォンに——」


「うん。クテシフォンの図書館には、未来から来た本が眠ってる。その本はいくつもあって、一つの本にたった一行だけ真理が記されている」


 さらりと言われ、心臓が馬みたいに跳ねたようだったさ。


「うわさは聞いたことあるよ。でも、君はそれを」


「見たことがあるよ。奇しくもちょうどそれは俺が12歳の誕生日だった」


 ナザレの人が啓示を受けた伝承と同じじゃないか。謎めいた笑みととも、彼は一粒のオリーブを差し出した。


「買ってくれないの?」


 そう言う彼は、僕以上に意地悪な人間のような気がしたね。それにやけに甘い香りがするオリーブだった。僕が馬を降りて、巾着袋から硬貨を取り出そうとした時だった。


「シャープール殿下、お戻りの刻が近うございます」


 くそ、堅物め。


「だそうだ。ごめんね」


 僕は笑みを浮かべて手を振った。


「ところで、君の名前なんか教えてもらえないかな」


「マニです」


 少年が手を振り返し、白装束が陽光を跳ね返して、ちょっとだけ神々しくみえたのは気のせいだったかもしれないけどね。


「〈やし園〉のマニ」


〈やし園〉がなにを指すのかは知らないけれど、きっとテグリス流域に土地を持つカルト集団かなにかに属しているんだろう。


 なんとなく、らしくないなって思ったさ。


 というのも、彼はもっと立派であるような気がしたんだよ。あるいは、それは僕の単なる願いなのかもしれないけれど。


「そうか、マニ」


 だから期待を込めて、僕はこう言ったんだ。


「もし君が君の夢を叶える努力をするなら、僕もまた君を探す努力をしてみるよ」


「そっちは、シャープール……王の子?」


「本当にそうなるかは、父しだいかな」


 僕の馬が僕より御付きの言うことを聞いて踵を返す。子どもだと思ってむかつきながらも、マニには愛想よく笑顔で手を振ってやったさ。乾いた空気。無限に澄んだ青い空。砂埃の向こうに、マニの姿が滲んでいったよ。


 それから幾星霜。

 僕は例の街道に通ったけれど、ついにマニに会うことはなかったね。クテシフォンの図書館にも行ってみたけれど、うわさの本はマニを探す以上に大変で、うわさの話をしたら司書に笑われたりもしたから、心が折れて探すのを諦めた。


 そうしているうちに父の軍旗は大王道を駆け抜け、ついにクテシフォンにまで進軍したんだ。そこからはもうあっという間のできごとで、父はアルタバノスを打ち取り、パルティア王国はペルシア帝国、ササン朝へと名を変えたんだな。


 ただ、祝勝の烽が夜空を赤く染めても、僕の胸にはあの日の白い影が残ったままだった。


 ――マニ。

 未来の本。

 光と闇の衝突。

 宇宙の発生。


 父が王となったササン朝は、僕の予想通り異端の排除を開始した。というか父は自分のことを〝王の王〟なんて名乗るもんだから笑っちゃったのさ。


 だって僕は〝王の子〟なんだぜ?


 僕と父の間の純粋な〝王〟はどこにいっちゃったのさって思わず言いたくなっちゃったね。


 そんな厳格ながらもどこか抜けてる父によって、国は生まれ変わっていったんだな。僕は大人になって、きっとマニもどこかで大人になっているだろうと予感だけはしていたのさ。


 *


 父がクテシフォンに凱旋し、玉座の背凭れに守護霊であるフラワシを彫り込んでからしばらく経った。それにしても、クテシフォン。改めてその土地に身を置くと、ここがあまりに混沌とした都市なんだっていうことに気付いたね。


 街の至る所にギリシア風列柱がまだ白く残っているかと思えば、泥れんが塀にはペルシア式の色釉タイルが貼り付いているのさ。


 テグリスを挟んで物資を積んだ筏が絶えず行き交っているんだけど、川面には干草と没薬の匂いが混ざっている。


 街はパフラヴィー語、アラム語、ギリシア語が入り乱れていて、日時計の影より早くうわさが流れて消えていく。


 狭い路地を抜ければ王宮区――破壊されたパルティア王国の残骸と、まだ建設途中の拝火教伝統の巨大ヴォールトが砂塵を吸い込んでいて、遠目に蜃気楼めいて揺れている。


 夜になると宮廷の油松明が川霧に滲み、月が黄金色に歪んでいる。


 そんな、光と闇とが裏地で縫い目を取り違えたみたいな都さ。


 その都市の一角にある、アルタバノスによって建造された大図書館の奥、万巻の書架があったはずの円形閲覧室――そこに集められていた神官たち曰く〝光を曇らせる闇の写本〟は、宵闇と同時に積み上げられ、乾いたパピルスが焚付け代わりに轟々と燃えさかったんだ。


 その炎は夜空を真昼みたいに明るくさせて、焚書の煙がテグリスからの湿った風に巻き上げられて星座を隠していた。


 なんとも寂しい光景だったよ。

 これでうわさの真理の書は灰になってしまったってわけ。だからこれ以降、僕の知る限り、真理の書を読んだのはマニだけになったんだ。


 そうした父の統制17年は一瞬のようだった。父アルデシールはクテシフォンを中心にササン朝をかつての強大なペルシア帝国を彷彿とさせるかのような発展をさせたのち、崩御した。


 王印は自然と僕の指に嵌まり、今や僕は尻の痛い玉座に坐骨を磨耗させるようになったんだな。


 一方でキルディールは健在だ。

 なにせ当時からまだ若かったからね。


「陛下、アヴェスター編纂室へのご下賜を!」


 大神官となったキルディールは、石版と羊皮紙を持ってきていた。僕は王の仮面で頷きながらも、心の奥では少年の僕が笑っているのさ。


 ――え、まだやってんの? ってね。


 神官同士は相変わらず仲が悪く派閥もあって、今もまだ教典の解釈で毎日毎日喧嘩の日々を繰り返しているらしい。


 ホント、楽しそうな人生で羨ましいよ。


 一方の僕は、ずっとマニを思う毎日さ。

 あの日会って以降、僕はマニのことを忘れたことがないくらいだった。たった一回会っただけなのに、おかしいのはわかってるさ。だから今日も、こっそり土民に扮して、路上ライヴが繰り広げられている街道にお忍びで向かうんだ。


 もちろんそうした異端活動は父の時代から禁止されて厳しく取り締まられるようになってたんだけど、それでも隙をみてささっと説法を始めるどこぞの信徒や自称啓示者はまだまだ沢山いたんだ。どうしてそんなに夢中になれるのかわからないけど、なんにしても聞く側の僕にとっては嬉しい誤算だったね。


 そんなある日のことだった。

 鈴のように冴え渡る異質なほど美しい声と言葉が、静かながらも目いっぱい、街道に響いていたんだ。


「かつての聖戦で、光の神は闇の神によって散り散りにされました。そして闇は光を覆い隠したのです」


〈やし園〉のマニ――あの頃より背は伸びて、白装束は神々しく風に翻っていたよ。


「光は精神、闇は物質。私たちの心は神の欠片です。その心を、物質は肉欲によって支配しようとします。しかし負けてはいけません。私たちの善行や知恵、叡智を結集することが、闇から解放されるための唯一の手段なのです。すなわち科学とは天使。だれにでも備わっている知性こそが神の力そのものなのです」


 人々が歓声を上げている。

 僕も食い入るように彼の話を聞き込んだね。


 なにせ真理の書に書かれている内容を、きっと彼なりに解釈してそう喋っているんだからさ。


 もう焼かれてしまった書物の片鱗がマニの言葉に込められているんだ。でも、そんな幸せな時間はそう長くは続かなかったのさ。


「異端は宣教をやめよ!」


 そう言って拝火教の神官たちが来て、聴衆を追っ払って、マニを拘束しようとしたんだな。だからそれを止めに入ったのは、本当に思わずだったのさ。


「父の国は終わった! これからはこの僕、シャープールの国になる!」


「シャープール様……⁉」


 そりゃ王様が貧相な街道に貧相な姿でいたとなれば、みんな驚きもするよな。神官たちは頭を下げて引きさがったよ。ただ、マニは物おじせず、ただじっと僕を見つめていたね。


「シャープール。もしかして、あの時の」


「そうだよ、マニ。久しいな。会いたかった」


 そして僕はすぐに提案したんだ。

 君の話をもっと聞かせてほしいってね。


 マニは最初は嫌そうな顔をしたけど、それももちろん折り込み済みさ。


 なにせ僕は拝火教の守護者の家系。

 僕自身も拝火教守護者。

 そしてその拝火教は、17年間異端を排除し続けていたんだ。


 そんな中で路上ライヴをはじめたマニも大したものだけどね。でも大丈夫だからと、僕は宮廷に招いたんだ。でも、正直言って、これは失敗だった。


 キルディールだ。


 彼は他の神官と違って、僕に対しても怯まないんだな。


「どうしてナザレの異端がこの神聖な宮廷に?」


 彼に見つかるやいなや、すぐにそう言われたのさ。


「彼はナザレ派じゃないよ。彼が語るのは、この物質で作られた世界を悪の世界、偽物の世界と言ってる新しい教義。マニ教さ」


「余計に酷い。すべての宗教を敵に回す教義ですね」


「そうでもないですよ」と、僕とキルディールのやり取りを聞いていて、マニは少しだけ笑みを浮かべて言った。「それは俺の言い回しがまだ未熟なだけです。なので、インドに行こうと思っています。釈迦の教えは私が知っている真理に近い。いかにしてそうした教義に至ったのか、どのようにして言語化しているのか、詳しく知りたいと思っています」


 言い終えると、マニは宮廷の白い列柱の間から夕闇へ滑り出ていった。


 西の空に残った残照が彼の装束を淡く染めている。


 僕は彼を追えなかった。

 結局、迷惑をかけてしまったからね。


 代わりに手の中の王印を握りしめ、火舎の上に昇る煙を見上げる。


 拝火教は、永遠にこの火を燃やし続けるんだ。


「帰ってきたら、マニ。また話を聞かせてくれよな」


 その言葉に顔をしかめるキルディール。

 一方のマニは軽く手を挙げた。


「お前は早くアヴェスターを仕上げろよ」


 僕が言うと、邪魔なキルディールはようやく姿を消してくれた。


 それから辺りが深い群青に沈むまで、僕はひたすら、マニの背を見送っていたのさ。


 あのうわさ、真理の書、未来の本を読んだと言うマニの言葉は本当に本当なのか。


 真実は僕たちの火が焼いてしまったから、もうわからない。


 でも僕は、マニを信じてみたいと思ったんだ。

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