影の名

竜泉

第1話 置かれた子

長峰十兵衛は、置屋にいた。


育てられていた、という感覚はない。

捨てられていた、とも違う。

ただ、そこに置かれていた。


置屋は、人の声が絶えなかった。女たちの足音、笑い声、時折混じる低い怒声。十兵衛は、それらを聞いていなかった。聞く前に、分かっていた。


声が荒くなる前。

手が伸びる前。

誰かが嘘をつく、その直前。


空気が、わずかに歪む。


十兵衛は、その歪みを見る。


見ようとしているわけではない。

目に入るのだ。


最初から、そうだった。


ある夜、女が階段を踏み外した。

十兵衛は、落ちる前に声を上げていた。


「――危ない」


女は助かった。

だが、十兵衛は叱られた。


「余計なことを言うな」


理由は告げられない。

助かった理由も、問われない。


別の日、十兵衛は黙っていた。

すると、器が割れ、怒号が飛び、誰かが打たれた。


どちらを選んでも、結果は変わらなかった。


置屋の女たちは、次第に十兵衛を避けるようになった。

困ったときだけ視線を向け、用が済めば目を逸らす。


頼りにしている。

同時に、恐れている。


十兵衛は、それを理解していた。


理解してしまうことが、

さらに距離を広げる。


「気味が悪い子だね」


誰かがそう言った夜、

十兵衛は裏口から外へ出た。


月は高く、影が長い。

自分の手を見る。


小さい。

何も持っていない。


ただ、一歩先が見える。


それだけだ。


十兵衛は、そのとき初めて悟った。


これは力ではない。

才能でもない。


人の中にいてはならない、

という印だ。


そして――

印を持つ者は、

いずれ表から消える。


そのことを、

このときの十兵衛は、

まだ言葉にできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る