『ねこのけんしと万華鏡の城――万華鏡(カレイド)は、明日を映さない』(短縮版)

Lemon the cat

第1話 夕陽に消える少女

<――ねこのけんしさんだ!>


それは、もう戻らない声だった。


幼いころ、父がページをめくるたびに、

私、霧野カナタは胸を弾ませてそう叫んでいた。


黒い猫の剣士。小さな背に剣を背負い、人助けの為に悪を斬る、絵本のヒーロー。

その時間が、私の居場所だった。


父はいつも少し照れたように笑って、ゆっくりと、その名前を読んでくれた。


その声を、


もう思い出すことしかできない――。




―――




放課後の教室。


「霧野って……可愛いのにさ、なんか暗くて勿体ないよな~」


「なんだお前、知らねえの?」

「え?」


私は鞄に手をかけた。

今日も、1日が終わった。あとは、家に帰るだけ。

そんな毎日。


廊下を抜けると、夕方の光が差し込んでいた。

生徒達の笑い声が、どこか遠くに聞こえた。




―――




家へ向かう帰り道、石段をひとつずつ上る。

夕陽が低く、その縁だけが光っていた。


ふいに視界が滲んだ。



(……私は、ひとりでも、大丈夫……)



誰かなんて、必要ない。

そう言い聞かせる癖だけは、身についていた。


手のひらだけが、わずかに震えていた。


「……」


ふいに、石段の脇から、野良猫が姿を現した。

ゴロゴロと喉を鳴らしながら、身を寄せてくる。


「また、貴方なの?」


私は呆れるように声を漏らした。

一度ご飯をあげてから、どうやら近場に住み着いたようである。


「もう……仕方ないなぁ」


鞄の中に、昼のサンドウィッチが残っているはずだった。

探る指先が、いつの間にか落ち着いていた。


理由もなく、口元がわずかに緩む。




だが、そのときだった。




「フシャァァ!」


猫の毛が、ぶわりと逆立った。

低く唸り、石段の先を睨んでいる。


「……?」


石段の途中に、何かが落ちている。

ガラスの筒。中で、色と色が折り重なっている。


万華鏡だった。


誰かが落としていったのだろうか?

私が一歩、近づいた瞬間。 猫は、はっきりと後ずさった。


「……大丈夫だよ」


私はなだめるように手を伸ばした。

猫はなおも唸り、石段の先から目を離さなかった。


猫の瞳には、私の足元――私の影を覆うような、もう一つの歪な影が映っていた。


私は、なにか違和感を感じながらも、万華鏡を手に取った。

ひんやりとした感触が、指先に残る。


覗くつもりはなかった。

ただ、持ち上げただけだったはずだ。


突然、だがゆっくりと。

ガラスの中の色がほどけ、見たことのない模様に変わっていく。


あの絵本には絶対になかった……冷徹で異質な極彩色。


「……?!」


胸の奥が、ざわついた。

音はない。 なのに、"何かが合わさる感覚"だけが、確かにあった。


――調律される前の、ずれた音みたいに。


おかしいと思った時には、もう手遅れだった。


視界の中に広がったのは、まるで色の海だった。

鮮やかな紅、深い蒼、金色の輝き……すべてがひとつの点で交わり、また裂けていく。


それぞれの色が、まるで生きているかのように絡まり合い、私を包み込んだ。




―――




瞬間。


世界が、静かになった。

立っているのか、落ちているのか、わからなかった。


真っ暗な視界に、大量の銀の破片。

そのひとつひとつが、今の私を、部分的に映し出していた。



そして……、私は見てしまった。






解けた私。

 解けるはずのない、私を。







  その瞬間   





        私の視界は






   ――そっと閉じた。







夕暮れの石段に、万華鏡が転がっていた。


そこには、 霧野カナタの姿だけが、最初からなかったかのように、

世界が続いていた。



……誰も、それに気づかないまま。

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