一月六日、中央線を東へ

siaglett

ほんの数時間の出来事

Ⅰ. 逸脱する荷物


 中央線は、規格化された荷物を運ぶベルトコンベアだ。

 本来なら今頃、僕は国立から吉祥寺へ出荷され、駅前の加工工場で研磨されている時間だ。そこで検品され、社会という市場に出るための準備をする。それが正しいルートだ。


 だが、今の僕はさらに東へ向かっている。

 吉祥寺で降りるはずの足を止め、そのまま電車に揺られた。新宿駅も、今日の僕にとってはただの通過点だ。窓の外を流れる摩天楼の群れを、僕は特等席から眺める。


 ドイツ製の高いイヤホンからは、RADWIMPSの『スパークル』が爆音で流れている。ふと、イヤホンを外してみる。

 普段はノイズでしかない駅の雑踏が、映画のサウンドトラックのように再構築される。イヤホンを外してみても、世界はリアルな音を取り戻さなかった。


 ジーンズのポケットの中のスマホが震えている。

 画面は見ない。けれど内容はわかる。

 母からの連絡だろう。

 それは僕の足首に繋がれた見えない鎖が、ピンと張った合図だ。

 ただ、今日は無視する。

 僕は窓ガラスに薄く映る自分を見る。

 親の金で通っている塾をサボり、都心へ向かい、一人で悦に入っている自分。

 最低で、不誠実で、どうしようもない奴だ。でも、そんな自分が面白くて、なぜかかっこいいと感じてしまってやまない。



Ⅱ. 黒い違和感


 四ツ谷駅で降りた。思ったより静かだった。

 駅前の自販機で、BOSSのホットコーヒーのボタンを押す。喉が渇いたわけじゃない。ただ、何かを体内に入れないと落ち着かなかった。

 ガタン、と落ちてきた青と金の缶を拾う。冷たい風の中で、温かい缶のプルタブを開けた。

 一口飲む。……苦い。

 胃の中に、黒い液体が落ちていく。吐き気とまではいかないが、明らかな「違和感」としてそこに留まっている。


 ふと、トイレに行っておけばよかったと頭をよぎる。そこまで切羽詰まってはいないが、一度意識すると微かなノイズとして気になる。

 ずっと背負っているリュックの重みが、じわじわと肩に食い込んでくる。痛みというよりは、疲労の蓄積だ。

 俺は世界の理から外れた自由な存在のはずなのに、肉体という器に縛られている。

 そのアンバランスさが可笑しいけれど、僕は背筋を伸ばして歩いた。自分の中のなにかが負ける気がしたからだ。



Ⅲ. 障害物としての他者


 誰もいない公園のベンチを見つけ、僕は鞄から夏目漱石の『こころ』を取り出す。

 パラパラとページをめくる。指先に伝わる紙のざらつき。

 はたから見れば、都会の片隅で純文学に耽る、憂いのある文学青年だろう。けれど、実情は違う。これはただの「冬休みの宿題」だ。

 塾をサボってまでやっていることが、学校の課題図書だなんて。あまりに間抜けだ。

「人は関係ない。ここに俺がいる」

 誰もいないベンチで、独り言をつぶやいてみる。

 ……痛い。最高に痛いな。

 でも、その「痛い自分」に酔いしれる権利が、今の僕にはある気がした。


 寒くなってきたので、読みかけの本を開いたまま歩き出した。

 活字の海に没入していた、その時だった。

 ドン、と腰のあたりに衝撃が走る。

 ぶつかったのは、小学生の男の子だった。黒いニット帽を目深にかぶり、一重の瞳が少し驚いたように僕を見上げている。背中には、スポーツブランドの大きなロゴが入ったリュック。

 数秒間、目が合った。

 謝罪の言葉は出なかった。彼も何も言わなかった。

 ただ気まずい沈黙が流れ、僕たちは示し合わせたように視線を外し、互いに無言でスルーした。


 遠ざかるリュックを見送りながら、ふと中学二年生の記憶が蘇る。

 鎌倉への遠足。あの時、原稿用紙に書いた感想文の一節。

『人は障害物』

 書き出しではなかったけれど、駅で人混みに揉まれながら感じた、偽らざる本音を確かにそこに書いた。やっぱりあれは真理だ。

 今もそうだ。この街を行き交う人々は、僕の物語にとっては何の意味もない障害物でしかない。

 そう再確認すると、胃の中のBOSSがまた小さく主張した。



Ⅳ. 視線とフード


 ふと顔を上げる。

 すれ違った女性に、目が奪われた。

 ミディアムの黒髪に、上品なベージュのコート。

 本当に、美人だった。

 切れ長の二重の瞳は、作り物めいていて、冬の空気のように冷たく完成されていた。

 目が合ったわけではない。彼女は障害物ですらない。僕の存在になんて気づきもしないまま、通り過ぎていっただけだ。誰も俺のことなんて気にしていない。

 わかっているのに、急に恥ずかしくなった。

 喉が詰まる。ツバを飲み込むタイミングが分からなくなる。

 さっきまでの「人は障害物」なんていう尖った全能感はどこへ行った?

 急に、自分が「あるべき場所にいない」という事実が首を絞める。


 見上げると、思ったよりも空が広かった。

 ビルの隙間から覗くその青さが、今の僕には少し眩しすぎる。

 寒い。

 僕はパーカーのフードを深くかぶった。寒さから逃げるためか、それとも世界から隠れるためか、自分でもわからなかった。



Ⅴ. 階段の上のリアル


 路地裏の居酒屋の前を通る。

 換気扇から吐き出される焼き鳥の匂いと一緒に、爆音のスピッツが流れてきた。

 草野マサムネの高い声。切なくて、でもどこか突き抜けたメロディ。

 フードの中で、その音だけが反響する。

 不思議と、芯までは冷えていない。僕の中にある「サボってやった」という小さな熱源が、まだ体温を保っている。


 適当に歩いていたはずなのに、見覚えのある場所に出た。

 以前、一度だけ来たことがある場所だ。

 須賀神社の男坂。

 まるで何かに導かれたみたいだ、なんて思うのは自意識過剰だろうか。


 息を切らして、階段を上りきる。肩に食い込むリュックの重みが、呼吸と一緒に上下する。

 振り返って、景色を見た。

 ……思ったよりも、良くなかった。

 映画にはなかった新しい建物が、視界の端に入り込んでくる。空を切り取る無粋なコンクリートの塊。

 アニメのような完璧な輝きはない。

 けれど、それがリアルで、美しかった。

 誰かの描いたフィクションじゃない。僕が自分の足でサボって、コーヒーの違和感を抱えながら歩いて、たどり着いた「現実」の景色がそこにあった。



Ⅵ. 音のないシャッター


 階段の先には神社がある。

 せっかくだから、寄っていくことにした。

 今日は1月6日。世間ではとっくに仕事始めも済み、お正月ムードなんて消え失せている。

 賽銭箱の前には誰も並んでいない。

 僕は小銭を投げ入れ、手を合わせる。

 神様がいるかは知らない。塾をサボった僕にバチを当てるかもしれない。

 それでも、今の僕にはこの「遅すぎる初詣」のズレ具合がちょうどいい。


 僕はポケットからスマホを取り出し、ラインのトーク画面を開き、カメラを起動した。

 シャッター音は鳴らない。静寂の中で、画面の中だけに朱色の社殿が保存される。

 指先は寒さで感覚がない。まるで自分のものではないみたいに動かない指で、僕は震えながら送信ボタンを押した。


 写真のあとに、『初詣。』とだけ送った。


 既読がつくかどうかはどうでもよかった。

 送信した瞬間、心臓が跳ねた。

 やってやった。

 凍えた指先とは裏腹に、胸の奥だけが熱い。

 僕はスマホをしまい、背中のリュックを背負い直した。

 肩は痛いけれど、足取りは少し軽かった。



Ⅶ. 保存された記憶


 駅へ戻る。

 ホームに滑り込んできたオレンジ色の立川行きの電車は、無慈悲なほど混雑していた。

 窓ガラスに押し付けられた疲弊した顔、顔、顔。

 それを見た瞬間、強烈な拒絶反応が喉元までせり上がった。

 この中に飛び込めば、僕が今日四ツ谷で手に入れた「美しい時間」は一瞬で圧殺される。黒いノイズに塗りつぶされてしまう。

 それは嫌だ。

 僕は踵を返し、反対側へ向かった。

 東京行きの電車に乗る。戦術的回避だ。

 東京駅まで戻り、自分の乗っている車両が折り返しの始発となる。

 俺は座ったままでいい。



Ⅷ. 藍色の空


 電車が走り出す頃には、車内はまた人で埋まり始めていた。

 時刻は、午後五時。

 僕はバッグからイヤホンを取り出す。

 ザラザラとしたファブリック素材のケースから本体を取り出す。

 耳に押し込む。

 ノイズキャンセリングが働き、周囲の雑音がフッと消える。

 音楽は流さなかった。ただの耳栓代わりだ。

 車内のざわめきが遠のき、ガラス一枚隔てた向こう側で、夜景が流れていく。

 流れる街並みは、行きよりもずっと穏やかに見えた。

 たぶん、僕自身が満足してしまったからだ。

 ささやかな抵抗を終え、神様に挨拶まで済ませた僕は、もう「配送される荷物」に戻る覚悟ができている。

 ブラックコーヒーの苦味も、神社の寒さも、すべて僕だけの秘密として保存された。

 

 長い時間をかけて、電車は国立駅に着いた。

 改札を抜け、駅の外に出た。

 冷たい風が頬を打つ。

 ふと、夜空を見上げた。

 何も変哲もない真っ黒な闇だと思っていた。

 けれど、よく目を凝らしてみる。

 それは黒ではなかった。

 深く、どこまでも澄んだ、藍色だった。


 口の中にはまだ微かにコーヒーの苦味が残っていた。けれど、それはもう不快な違和感ではなく、今日という一日の余韻に変わっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一月六日、中央線を東へ siaglett @siagle

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画