一欠片の勇気と手に入らぬもの
川色歩夢は、人を愛する事に
怯えると同時に憧れを抱いていた。
しかし
自分の中に流れる(父親の血)
がいつか大切な人、愛する人を
傷つけるのでは…。
その様な恐怖が、歩夢の心に
分厚い氷の壁を作っていた。
そんな歩夢の、ひび割れた世界に、
一筋の温かい光が差し込んだ。
看護師の
存在である。
歩夢が働く職場の近くにある病院。
そこに勤める看護師、早良楓は、まるで春の陽だまりのような人だった。
彼女は、患者一人ひとりに寄り添い、決して機械的になることなく、優しく丁寧に接していた。
その姿を見るたびに、歩夢の心は静かに、
しかし確実に温められていった。
楓の笑顔は、歩夢が施設で
凍え、妹の死に絶望し、病んだ母親を支える中で失っていた優しさと安心そのものだった。
楓への憧れは、やがて生まれて初めての恋へと変わっていった。
しかし、一歩を踏み出すことはできなかった。
愛の温かさを知ることは、
いつかまた地獄のような裏切りや、
耐え難い喪失を経験することになる。
その恐怖が、歩夢の足を鎖で縛り続けた。
そんな様子を見かねて
職場の同僚である
佐賀剛が歩夢に叱咤する。
「お前、告白もしないで何、悩んでる!」
「さっさと告白して玉砕してこい!」
剛の一言は無力な歩夢に
一欠片の勇気を与えた。
自分の抱える重い過去や、臆病な心は、
伝えてみなければ何も変わらない。
このまま後悔だけを抱えて生きる方が、
よほど恐ろしい。
歩夢は勇気を振り絞り、心を込めて一通の
手紙をしたためた。
自身のトラウマを語る代わりに、
楓への純粋な憧れと、
初めて知った温かい想いを綴る。
震える手で、何度も書き直し
書いたその手紙を楓に渡した時、
彼女はわずかに戸惑いの表情を浮かべた。
「ごめん、返事はまた今度」
その言葉は保留でありながら、
歩夢にとっては初めて掴んだ
希望の欠片だった。
半年の空白と、届かない愛
歩夢は、それからの半年間、
寝ても覚めても楓のことだけを考え続けた。
仕事中も、家に帰ってからも、歩夢の頭の中には楓の姿しかなかった。
それは、歩夢の人生において、
これまでの全ての絶望を打ち消すほどの、
初めての、純粋でかけがえのない恋だった。
半年という長い沈黙の後、ついに楓から返事が届いた。
その返事は、ただ一言、
「ごめん」だった。
歩夢は(やっぱりな…。)
と頭で理解していた。
自分には特別な才能も、
輝かしい未来もない。
施設での過去があり、
不安定な家庭を持つ自分には、穏やかな幸福を期待する資格などないのだと…。
断られて当然だな。
しかし、初めて心から望んだ光を失った歩夢の心は、ぽっかりと穴が空いて冷たい風が
流れていく。
歩夢は、自分に
「取り柄がないから。」
と自身を納得させようとした。
だが、楓が告白を断ったのは、歩夢への評価や愛情の欠如からではなかった。
楓は、自身が難病にかかっていることを
知っていた。
誰よりも優しく、命の尊さを知る彼女だからこそ、歩夢の真剣な気持ちを安易に受け止めることはできなかった。
いつか歩夢を悲しませることになる。
愛し、失う恐怖を知っている歩夢に、自らの病という名の重荷を背負わせたくなかった。
彼女の「ごめん」は、歩夢の事を想い、
これ以上、喪失の悲劇に巻き込みたくない
という、彼女自身の優しさと、
深い諦めを含んでいた。
歩夢の初めての恋は、
愛する人の側にもあった
誰も手の届かない、理不尽な壁によって
阻まれた。
そんな事とは知らぬ、歩夢の心に
雪が降り始める。
一度だけ知った温かさ、早良楓という
記憶は、凍りついた歩夢の心に、
かすかな痕跡を残していた。
そして歩夢が早良楓の事を
知ったのはそれから数ヶ月後の事だった。
早良楓のご両親が歩夢に
一通の手紙を渡し
「私の事を想ってくれてありがとう。」
「私がこの世にいなくなったら彼に渡して欲しい。」
と言っていたことを話してくれた。
歩夢は、手紙を急いで読む。
そこには
歩夢の想いがとても嬉しかった事。
彼女の分まで幸せになって欲しいという事。
そして今度
生まれ変わったら
彼女の好きな
横浜の海や江ノ電を見に行こうね。
その一文が震える字で書かれていた。
歩夢は、初めて恋をした。
そしてその恋を永遠に失った。
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