ユマニチュードな僕たち

赤ぺこ

1話

 夜勤前にコンビニに寄って烏龍茶とメロン味のグミと海苔弁当を購入したら、店員さんからスプーンを渡された。割りばし以外を渡されたのは今月七回目。ちなみに、何も渡されなかった時は今年に入って四回。これは世界がカトラリーを放棄して、手づかみでの食事がスタンダードになった証拠。箸の消滅だけで済んだ今日はラッキーなのかもしれない。

 比留田さんはスマホを持っていないから大丈夫だと思うけれど、タッチ決済がこの世から無くなった時に備えて、財布には一万円札が一枚と、千円札が七枚入っている。渋沢栄一と北里柴三郎ではなく、福沢諭吉と野口英世の旧紙幣の方。新紙幣は比留田さんが知らない可能性があるから、念には念を入れてだ。

 七百三十三円のレシートを貰い外に出ると、スマホが短く鳴った。夜闇にぼうと浮かぶ画面を見ると、所長からのLINEが届いていた。


【ハルキくんが比留田さんの息子になってしまったので、今日からメイン担当をお願いできますか?】


 覚悟はしていたが、思ったより早かったな。ハルキ先輩は比留田さんのお気に入りだから、こうなるのも時間の問題だったのだろう。直接聞いた方が早いと思い『ひなりすハウス』に向かうと、所長から【比留田さん手当を今以上に増やすから!】のメッセージと、ペンギンみたいなキャラクターが両手を合わせてお願いポーズをしているスタンプが連続で届く。スタンプは可愛いけれど、五十歳のおじさんが送ってくるのはちっとも可愛くない。

 それに、そんなお願いをされなくても、比留田さんの担当をすることは既に決めていた。なぜなら、比留田さんをお世話できる夜勤専従の男性職員は、所長と自分と新卒のユウマくんしか居ないから。異性の職員が担当することを、比留田さんはとても嫌う。男性職員がメイン、女性職員がサポートという配置でも駄目だった。同性介助の原則を維持するためにも、ユウマくんの急成長あるいは経験者の中途採用に期待するしかない。それまではなんとか持ちこたえたいが、比留田さんの息子になるタイミングはこちらでは操作できないから実に厄介だ。

【了解】と短く返信をして、再び自転車のペダルを踏む足に力を込めた。破壊、改変、創造。比留田さんによって誕生する世界は、今日も新鮮な表情を僕に見せてくれる。


【12:30 お昼ごはんの肉じゃがを手づかみで食べようとしたため、「これを使って食べるんですよ」とお声がけをして箸を手に取ってもらった。すぐに箸をテーブルに置いたので、代わりにスプーンをお渡しする。いつものように食事を始め、自力摂取で7割ぐらい食べ、その後は職員が介助した。食欲は旺盛で、白米と肉じゃがとキュウリの酢の物と茶碗蒸しをぺろりとたいらげた。食事と一緒に出したお茶も全て飲まれている。先週と比較して食事量に変化はなし】


 おむつを棚に補充しながら、介護記録アプリの比留田さんのページを見る。日勤のカズトくんが残した対応履歴は、いつも分かりやすくて助かる。思った通り、比留田さんが箸を嫌がったことで、箸が存在しない世界へと作り変えられたみたいだった。

「おっ、出勤してたか。LINEでも言ったけれど、今日から比留田さんの担当頼むな」

 施設内の見回りをしてきたのか、所長が息を切らせながら備品室に入ってきた。

「所長、また大きくなりました?」

「そう? 一キロ瘦せたんだけどな」

 ユニフォームのポロシャツは伸縮性がある分、パンパンに膨れたお腹のシルエットがくっきり浮かんでいる。夜食の海苔弁当は半分だけにしておこうかな。

「介護記録をざっと見ましたが、明日の世界改変も箸ぐらいですかね」

「そうだなぁ、引継ぎの時にカズトくんに直接確認したけれど、それぐらいって言ってたぞ」

「でも、念のため注意しておきましょうか」

「何がキッカケになるか分からないからな」

 比留田さんが世界を変え始めたのは、『ひなりすハウス』に入所して間もない頃。ドッグセラピー用の犬がすべて柴犬になっていたのが最初だと、ハルキ先輩が教えてくれた。なんでも、比留田さんが昔飼っていたのが柴犬だったらしい。それ以降も、クリスマスが一週間続いたり、「あの、あれ、ふくやつ」と言ったことでトイレットペーパーの名前が世界から消失したり。様々な世界改変に立ち会った僕たちは、いくつかの結論を導き出した。


 一つ目は、比留田さんの思ったことや発言した通りに、世界が作り変えられること。

 二つ目は、世界改変は一日一回。比留田さんの起床と共に新世界が始まること。

 三つ目は、改変の震源地である『ひなりすハウス』の職員は、改変前の記憶があること。

 四つ目は、比留田さんを直接お世話する職員は、改変の干渉を受けてしまうケースもあること。


 この四ルールは、比留田さんの個人情報をまとめたフェイスシートに記され、勤務開始前に必ず復唱した。復唱したからって世界改変は止められないけれど、影響を最小限に抑えることはできる。たとえば、比留田さんが世界に絶望しないよう、寄り添ったケアでさり気なく導いてあげるとか。現在は、ペーパーホルダーの脇に名札シールを貼ってある。だからトイレットペーパーの名前がこの世から消える心配は、しばらくないだろう。


     *

 比留田さんにとってバナナは特別な存在だった。なんでも僕たちが生まれる遥か昔、比留田さんが小さい頃には高級品だったらしい。「一本のバナナを六等分して兄弟姉妹で食べたもんだ」と、調子が良くて会話がスムーズな時に懐かしんでいた。

「そんなに高級品だったんですね。なら、安くなった時には嬉しかったんじゃないですか」

「最初はな。でも、安すぎるのもいけねえな」

「安く食べられるのはありがたいですよ。僕もスーパーでよく買いますもん」

 そうなのだ、安く食べられるのは本当にありがたい。比留田さんの調子が悪く、昔と現実の境目が曖昧になると、バナナは高級品になってしまう。値段はその時によってまちまちだけれど、一房千円を超えることも珍しくない。

「安くなった頃はオレもいっぱしの給料とりだったからよ。腹いっぱいバナナを食ってやろうと思って、手に抱えきれねえぐらい買ったんだよ」

「あぁ、そういうのってありますよね。僕は一度でいいから三食グミ生活をしてみたいかな。それで、けっきょく何本食べたんですか?」

 比留田さんの体を拭きながら尋ねると、彼は恥ずかしそうに親指から薬指までを立てた。比留田さんは親指を一、人差し指を二……といった風に、独特な数え方をする。ヨーロッパ式でカッコイイですね、と言ったらとても喜んでいた。

「四本ですか? 憧れの食べ物だったんですよね」

「それが、いつでも食べられると思うと、そんなにありがたみを感じなくてなぁ。けっきょく、職場の連中に配っちまったよ」

 ねっとり溶ける甘さを初めて口にした時の鮮烈な感動も、おいそれと手の届かない高根の花に抱く憧憬も、今は全て忘却という過去の中にしかない。それは身を毟られるほど辛いことではないけれど、最初から無かったことにして生きることはできない。比留田さんも、僕も、その他大勢の人間も、そこは平等だ。


「おいおまえ、オレのバナナをぬすんだだろ」

 比留田さんの調子が悪いある日、サポート役のユウマくんが疑われた。骨ばった比留田さんの右手が、ユウマくんのユニフォームの裾を掴んでいる。ハルキ先輩が息子になる前は、犯人役は僕だったから、不謹慎だけれど懐かしい光景だった。

「自分じゃないっスよ。ほら、どこにも無いじゃないデスか」

 ユウマくんが両手を上げ、何も持っていないことをアピールする。

「どうせかくしたんだろ、どこにやったんだ」

 このまま誤解を解かずに明日になってしまうと、ユウマくんがバナナ泥棒になってしまう。

「比留田さん、バナナなら盗まれないように金庫に保管していますよ。比留田さんのものだって分かるよう、一本一本に名前も書いています」

「ほんとかい?」

「ええ、本当です」

 僕の説得に安堵したのか、比留田さんはベッドに入りそのまま眠ってしまった。母親に抱かれている赤ん坊みたいな、無垢な笑顔で寝息を立てている。

「先輩、助かったっス」

 比留田さんのいる「あおいの部屋」を出ると、ユウマくんが軽く頭を下げた。感謝しているのかよく分からないのが、実に彼らしい。もう慣れたけれど。

「別に大丈夫だよ。でも、利用者さんの言葉を否定してはいけないって、あれほど言ったでしょ」

「すんませんっス……泥棒扱いされたので、ついつい言い返しちゃって」

「起きたことは取り返せないから、次から気をつけてね。それに、世界改変が起きた時に困るのは、君自身でもあるんだからさ」

「……っス。でも、よく金庫なんて用意してましたね」

「なに言ってるの。金庫なんてあるわけないじゃん」

「どういうことっスか」

「だから実際に金庫はないけれど、比留田さんの心の中にはある。それがこの世の真実、いや理なんだよ」

 ユウマくんは珍しく神妙な表情でしばらく黙っている。

「……先輩は大嘘つきなんスね」

 ユウマくんの姿が、数年前の自分と重なる。僕もハルキ先輩に同じことを言ったっけ。

「そう、僕たちは利用者さんのためになるなら、どんな嘘でもつかなきゃいけない。泥棒よりも質が悪いかもね。でも、こうやって世界の秩序は守られているんだよ」

 あのまま比留田さんが癇癪を起こせば、大切なバナナを守るために多くのものが犠牲になっていただろう。泥棒になるならまだしも、ユウマくんという存在が消失していた可能性だってある。


 翌日、職員の休憩室に立派な金庫が鎮座していた。全身が真っ黒で、ダイヤルが金ぴかに輝いている昔ながらの由緒正しい金庫。僕たちの嘘は、世界の真実でもある。

 この中には、比留田さんの名前が書かれた大量のバナナが入っているのだろうか。暗証番号が分からないから確かめようがない。こういうのって、何て言うんだっけ。シュレディンガーのバナナ? いや、ちょっと違うかな。とりあえず金庫を休憩室の端に移動させるために、ユウマくんを呼びに行くことにした。


     *

 夜勤が終わり帰ろうとしている時に、ハルキ先輩が面会に訪れた。いや、今は比留田さんの息子シンジさんか。

「父がお世話になっています。これ、みなさんで食べてください」

 ハルキ先輩が差し出した松風堂の紙袋を開けると、水ようかんセットが入っていた。つるりと口に入る羊羹は利用者さんにも人気のお菓子だ。これは偶然ではなく、職員時代に染み付いた考え方が無意識に出たのかもしれない。そう結論づけるのは、いささか飛躍しているだろうか。いずれにしても、シンジさんになってもハルキ先輩は変わらず気配り上手な人だった。

「それじゃあ、比留田さんを呼んできますね」

「いつもすみません」

 中庭のテーブルでお茶と水ようかんを食べている二人は、どこを切り取っても親子に見えた。息子になって半年。ハルキ先輩の腕はすっかり細くなり、腰を無意識に叩く癖も無くなった。介護の世界からだいぶ離れてしまった今の方が幸せなのかもしれない。

 それにしても、ハルキ先輩が息子になったことで、本当のシンジさんはどうなったのだろう。確か機械部品メーカーの営業だったらしいけれど、今はハルキ先輩がその役に収まっている。どこかで別人格の人間として生活しているのだろうか。しかし、シンジさんがハルキ先輩と純粋な交換をしたわけではないから、消失したのはシンジさんじゃなく、実はハルキ先輩の方なのかもしれない。


 面会があった日は気持ちが昂っているのか、比留田さんは午前三時半に起床することが多い。調子はあまりよくなくて、施設内を徘徊して各部屋の前に『ひなりす通信』を置いて回った。施設の活動や利用者さんの様子、職員のコラムなんかを掲載した社内報(今号は僕が紹介されている!)で、どちらかというとご家族向けの内容だ。でも比留田さんは、じっくり時間をかけて配達をする。

「比留田さん、精が出ますね」

「あんたどちらさんかね」

「今日から新聞配達のバイトを始めることになった者です。所長が比留田さんに教えてもらいなさいって」

「おおそうか、このまえのばいとはやめちまったかこんじょうなしだな」

「一緒に回ってもいいですか?」

「おおよ、ていねいにおしえるつもりはないからな。見ておぼえろぉ」

「はい、じゃあ回りましょうか」

 長年の習慣で身体が覚えているのか、比留田さんの手際は良かった。題字が見えるよう『ひなりす通信』をキレイに三つ折りにして、ドアノブの隙間に挟んでいく。

「凄いお上手ですね」

「おだてるない」

 照れくさそうにしている比留田さんはちょっと可愛い。ハルキ先輩が先輩だった時に聞いた話だと、息子さんの大学費用を稼ぐために、比留田さんは本業の提灯づくりが終わった後に暫く新聞配達をしていたらしい。その時の記憶が今の行動に繋がっていると、先輩は教えてくれた。


「それにしても、比留田さんはなんでこんなに頑張れたんですか?」

「そらあんた、かねかせぐためだよ。それ以外なんかあんのか?」

 シンプルで分かりやすい答えだ。僕はこんな風に割り切れない。

「ねぇ比留田さん。僕はお祖母ちゃんに酷いことをされたし、酷いことをしたんですよ」

「おばあちゃんはかねでかえねえから…………ひどいのはおっかないぞ」

 リノリウムの廊下に二人の足音が響く。祖母と二人で歩いた記憶を探すが、どうしても見つからなかった。

「実は、僕が学校を卒業して上京する前日、入院していた祖母を訪ねたんです。その時はだいぶ記憶があやふやな状態で、孫のことをぜんぜん理解できてなくて。信じられます? 帰り際にトシオのことをよろしくしてやってください、ってお願いされたんです。あぁ、トシオってのは数年前に亡くなった父の名前です」

 比留田さんは僕の勝手な独白には反応しない。理解する必要がないと思っているのか、小さく足を動かしながら次の配達先を目指していた。それで構わない。だから僕も素直に懺悔できる。比留田さんの数歩後ろをついていきながら、独白を続けた。

「幼い頃は祖母に懐いていただけに、無性に腹立たしかったですね。孫のことより、いい歳をした息子の心配かよって。いや、それも詭弁かな。全然違う姿の祖母が怖くなって、五分も経たずに病院から逃げ帰ってしまって。上京後もなにかと理由をつけて、ほとんど会いに行かなかったんです。とんだお祖母ちゃん子ですよね」

 死の予感を消毒液で隠すような病院特有の匂い、廊下の手すりのひんやりとした感触、遠くの部屋から聞こえる看護師のせわしない足音。あの日のことは鮮明に思い出せた。

 比留田さんはずっと黙っている。左手に抱えた『ひなりす通信』が減った分だけ息遣いが荒くなる。そういえば、入所の時から一度も面会に来ていない、本物のシンジさん。比留田親子の間に何があったかは知らないから、迂闊な憶測はできない。しかし、比留田さんは息子のために今も新聞配達を続けていて、無意識ながらハルキ先輩を息子に見立てている。シンジさんの気持ちは分からないが、比留田さんの想いは充分に推測できる。

「だからこの仕事を続けている間は、利用者さんが願うことは何でも叶えようと決心したんです。僕が祖母から逃げたことに対する贖罪……って、そんな気持ちじゃ利用者さんに失礼ですかね」

 両手が空になった比留田さんは、少し笑った後に「わかんね」と言った。そうか、分からないか。この後、比留田さんは再び眠りについて、世界の改変が行われるはずだ。その時に祖母が生き返っている可能性を信じて、僕は再び夜勤を続けるだろう。

 利己心を満たすために比留田さんの能力を使うことが、どれだけ卑怯なことかは充分に理解している。それでも次に来る夜の配達時には、また同じ懺悔を僕はするだろう。叶って欲しい気持ちと叶わないで欲しい気持ちを、胸の内でどろどろにかき混ぜながら。

 翌日、この町にある住宅の郵便ポストに、僕が掲載された『ひなりす通信』が朝刊として届けられていた。


     *

 それから三ヶ月ほどは、比較的平和だったと思う。施設の庭に種まきしたネモフィラが翌日に狂い咲きしたり、比留田さんと分かり合えなかったユウマくんが「¢£%#&□△◆■!?ス★◎[#*」と宇宙語を話したり(和解して無事に元通りになったけど)。幾つかのイレギュラーはあったが、利用者さんは「まぁそんなこともあるわね」とすんなり受け入れてくれた。

 僕たちは施設の見回りをし、洗濯物をたたみ、検温をし、とろみ茶をつくり、リネンを交換しながら、毎日を過ごした。ただ、比留田さんの調子が良い日は少しずつだけど確実に減っていった。


 その日は比留田さんが三日前から続く微熱でずっと寝ていると、介護記録アプリに申し送りがあった。体調の悪化は精神にも影響を与えるから注意が必要だ。明け方に見る不安定な夢のように、世界が歪んで改変されてしまう恐れがある。ただし、今日は深夜の配達はないはずだ。予定が空いたので、ユウマくんと一緒に日勤が作成しているアルバムのお手伝いをすることにした。

「遠足とかレクリエーションで撮った写真は分かるんスけど、なんで利用者さんの昔の写真が必要なんスか?」

 ユウマくんは文句を言いながらも、手際よく写真を整理していく。特に、専用端末を使った写真のスキャンは、ものすごく速くて正確だった。

「回想法って言ってね。昔の写真や思い出の品を見ると、脳の働きが活性化されるんだよ」

「ああなるほど、たしかに利用者さんは昔のことをけっこう覚えてますもんね」

「そう、アルバムつくりはとても大切なんだから、ぶつぶつ言ってないで仕事をするよ」

「了解っス…………ってあれ? これ、比留田さんの若い頃の写真じゃないっスか?」

 ユウマくんが見せてくれたのは、一枚の家族写真だった。比留田さんは二十代後半から三十代前半といったところだろうか。今より全身が引き締まり精悍な印象を受けるが、気難しそうな太い眉毛もちょっとだけしゃくれた顎も変わっていない。面影は充分にあった。

 一番端にいる奥さんらしき人が抱えている赤ん坊は、おそらくシンジさんだろう。比留田さんの前列には、彼によく似た両親と老婆が椅子に腰かけている。そして、一番真ん中にいる年老いた女性を見て、僕は愕然とする。


 写真の女性は、僕の記憶にある上京前日の祖母の姿によく似ていた。やけに黒い部分が多い瞳を、たるんだ瞼が覆い隠している。それでいて表情は柔和で、世の中のあらゆる制約から解き放たれた様子だった。皺が刻まれた手をちょこんと前に組んでいるその女性は、間違いなく私の祖母だった。なぜ比留田さんの家族写真に納まっているのか。白黒の写真から推測するに、僕は生まれてすらいない。

 僕は祖母との記憶を必死に辿るが、あの日の病院のシーンしか思い出せなかった。遊んだ記憶も叱られた記憶もない。なぜお祖母ちゃん子だと認識していたのだろう。

「先輩? さっきからずっと固まってるけど、どうしたんスか?」

「ユウマくん、比留田さんの四ルールを覚えている?」

「毎日復唱しているから当然じゃないスか」

「じゃあ四つ目は?」

「比留田さんを直接お世話する職員は、改変の干渉を受けてしまうケースもある、っスよね」

 嫌な予感がする。僕は所長のデスクに向かい、一番下の引き出しを開けた。そこには職員の履歴書をまとめたバインダーが入っているはずだ。

「急にどうしたんスか」

 ユウマくんは心配そうに尋ねるが、構っている余裕はない。僕の履歴書はバインダーの最後の方にあった。学歴や職務経歴の欄を見るが、まったく知らない人生だ。こんな高校に通った覚えはないし、コンビニでアルバイトをしたことだって一度もない。添付されている写真の中には、アッシュ系の長髪を結んでこちらを睨んでいる若者がいた。人手不足とはいえ、所長もよくこんな奴を採用したな。顔は間違いなく僕だったけれど、こんなのは僕じゃない。


「あぁ、ついに君も気づいちゃったか」

 振り向くと、仮眠をしていたはずの所長がドアの入り口に立っていた。そして、「今日は世界が不安定だったから仕方がないか」とため息をつきながら、タプタプお腹を揺らして僕に近づいてくる。

「気づいたか……って、これは一体どういうことですか」

 僕の履歴書を受け取った所長は、しばらく目を細めながら紙面に目を通す。

「君はどう思う? 推測あるいは憶測でもいいから聞かせてくれるかな」

 所長はこの状況を懐かしむような笑みを浮かべ、「大事な話があるから、ちょっと席を外してくれないか」とユウマくんに言った

「もしかして僕は、比留田さんによって生み出されたんじゃないですか」

「なかなかいい答えだ。ただ五十点というところかな」

 所長は事務所にある冷蔵庫から炭酸ジュースを取り出し、一気に飲み干す。炭酸の粒が弾ける音が響いた。相変わらず緊張感のない人だ。

「履歴書の君は確かに存在したんだよ。もっとも、利用者さんのことを第一に考える理想的な職員とは程遠かったけれどね」

 そう言うと所長は、過去の勤怠記録を見せてくれた。確かに、遅刻は日常茶飯事で、無断欠席も多い。

「ウチは比留田さん手当があるから、待遇目当てで応募する君やユウマくんのような人がちょくちょくいるんだよ」

 所長の言葉が絡みつく。記録を見てもまだ信じられないが、ずっと不思議に思っていたことは確かにあった。僕の左耳にある、開けたはずのないピアス穴。記憶がなくても、身体は記録していた。

「つまり、四つ目のルールは既に君自身に適用されていたんだよ」

 履歴書の写真が「僕なんてお上品な言葉を使ってるんじゃねぇ」と僕を睨んでいる。「俺」と小さく呟いてみるがダメだった。もう僕は僕に慣れてしまっていて、比留田さんに改変される前の俺の世界に戻れる自信はなかった。

「不安にならなくていいよ。干渉を受けたのは君だけじゃない。ハルキくんや私も同様だよ。ユウマくんはまだだけど、これも時間の問題だな」

 ミスをして落ち込む僕に缶コーヒーをおごってくれた先輩との休憩時間や、夜勤明けに所長と行った朝ラーメンを思い出す。それはどちらの僕の思い出なのだろう。そんなことを考えていたら、頭が重くなってきて、先ほど飲んだ野菜ジュースを吐いてしまった。ここ最近食べていないはずの醤油ラーメンが、胃液に混ざり口に残る。人の記憶なんて、案外こんなもんなのかもしれない。

 雑巾とバケツを取りに行こうとしたら、写真を握りしめていることに気がついた。比留田さんの家族写真が潰れてしまっている。僕はふと思い立ち、スマホで介護記録アプリを開き、比留田さんのフェイスシートの項目をタップする。生年月日や身長体重、既往歴の後に、家族構成の項目があった。予想した通り、比留田さんの「父」の欄にトシオの名前を見つけることができた。

「僕が感じた病院の匂いも、手すりの感触も、全て比留田さんの過去の記憶だったんですね」

「それと、看護師さんの足音もな」

 所長がにやりと笑う。あぁそうか、彼もかつて僕だったんだ。

「これは私の都合の良い解釈かもしれないけれどな。比留田さんは自分が許せなかったんだと思う。祖母への贖罪の想いが、理想の職員である君を形成したんじゃないかな」

「二人とも、大切な話とやらは終わったんスか……ってゲロじゃん」

 なんとも都合の良いタイミングで、ユウマくん────いや未来の僕が入ってきた。その時に僕はハルキ先輩になっているのだろう。もちろん、比留田さんに気に入られるのが大前提ではあるけれど。

 

 三日続いた熱が下がったのだろうか、比留田さんは穏やかな寝息を立てていた。乱れていた毛布を直そうとした時に、比留田さんの肌に触れる。右手に残る体温は、彼の生への執着あるいは本能だ。

「比留田さんの世界改変は、彼が無意識にやっていること。こうなったらいいな、というちっぽけで弱い人間の願望なんだよ。しかも現実と過去の境界線もだいぶ曖昧になってきている。だから決して恨むんじゃないぞ」

 先ほどの所長の言葉が何度もリフレインする。比留田さんを恨むことは、所長に釘を刺されるまでもなく、きっとできない。たんなる様式美として言及したに違いない。その証拠に、比留田さんの首に手をかけようとしても、僕の両手は彼の頬を優しく撫でてしまう。比留田さんにとって理想の職員である僕は、そういう風にプログラムされている。

 窓の外が次第に明るくなってきた。世界改変が行われれば、おそらく今夜の真実は全て消えてしまうだろう。知っているのは管理者である所長だけ。ハルキ先輩は変わらず面会にやって来るだろうし、僕も変わらず介助を続けるはずだ。祖母への贖罪の想いを胸に抱きながら。この感情がどの僕から生じたものかは分からないが、比留田さんの手触りは事実として残っている。それだけできっと充分だ。

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