3. 視界を奪う熱気と、吐瀉物の重み



 当時の救急外来(ER)は、文字通りの地獄だった。


 ゾーイングという名の、ビニールカーテン一枚で仕切られた境界線は、押し寄せる患者の波に容易に飲み込まれた。


 特に記憶に刻まれているのは、日本中が熱狂に包まれていた、あの東京オリンピックの開催期間中だ。アスファルトが溶け出しそうなほどに暑い、真夏のことだった。


 病院の待合室のテレビからは、華やかな開会式の様子や、メダル獲得に沸く実況の声が漏れ聞こえていた。限界に挑むアスリートたちの輝かしい姿。けれど、自動ドアを隔てたこちら側の世界では、別の意味で「限界」を超えた戦いが繰り広げられていた。


 冷房など無意味に思えるほど、防護服(PPE)の中は過酷だった。一度袖を通せば、そこは外部と完全に遮断された密室になる。着脱には膨大な手間と感染リスクが伴い、貴重な物資を無駄にするわけにもいかない。一度「中」に入れば、数時間は脱ぐことなど許されないのだ。

 

 袖を通して、わずか5分。

 

 肌にまとわりつく空気がじわりと湿り気を帯び、10分もしないうちに、全身が自分の汗でびっしょりと濡れる。防護服の内側は、自分の体温で温められた熱帯のような湿度に支配され、逃げ場のない熱気が皮膚を刺す。

 

 全身を覆う防護服と、N95マスクで呼吸を制限される。自分の熱で、ゴーグルはあっという間に白く濁り、視界は常に深い霧の中に閉じ込められる。その中で、額から流れ落ちる大粒の汗が、容赦なく目の中に滑り込む。

 

「痛い」

 

 激しい痛みと塩分が網膜を焼く。けれど、どれほど涙が溢れても、どれほど視界が奪われても、ウイルスに汚染されたその指先で汗を拭うことは断じて許されない。私はただ、痛みに耐えて瞬きを繰り返し、流れる汗をそのままに、曇った視界の向こう側で喘ぐ患者の影を追い続けるしかなかった。

 

 

 ある夜、救急車で運ばれてきたのは、自宅で動けなくなった高齢者だった。


 認知症を患い、自分がどこにいるのか、なぜ苦しいのかも理解できないその患者は、治療を拒むように激しく暴れ、胃の中のものを全て私に浴びせかけた。


 ドロリとした温かい感触が、防護服の越しに伝わる。鼻を突く酸っぱい胃液の臭いと、混じり合った汚物の臭い。防護服が吐瀉物まみれになり、その重みが肌にへばりつく。だが、手を止めることは許されなかった。

 

 当時は、抗原検査やPCRの結果が出るまでに数時間が必要とされた。陽性か陰性か、その「答え」を待っていては、目の前の命が消えてしまう。

 

 私たちは常に、相手が「陽性である可能性」を抱えたまま、手探りの処置を強行するしかなかったのだ。


 その後の検査で、その患者のコロナ陽性が判明した。それは、なんてこともない予想の範疇であった。


 私は、ウイルスと排泄物の感触を残しながら、その日の処置を続けた。シャワーを浴びる暇さえ、当時の現場にはなかった。


 清潔であること、安全であること。そんな医療従事者としての尊厳さえ、あの地獄のような熱気の中では贅沢品でしかなかった。



「あっちではお祭り騒ぎなのに、なんでここはこんななんだろうな」


 誰かが力なく呟いた言葉が、重く湿った空気の中に溶けて消えた。


 あの夏、金メダルの数に一喜一憂する世間と、一人、また一人と増えていく重症患者の数に絶望する私たち。この薄い壁一枚の向こう側で起きている熱狂は、私たちにとってはまるで異世界の出来事のように遠く、そして空虚だった。




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