第4話 消失点

 カイは立ち上がる。  全身の骨が悲鳴を上げているが、聖剣から流れ込む莫大な魔力が強制的に身体を動かす。  ミノタウロスが振り返る。  その空虚な眼窩が、本能的な恐怖で見開かれたように見えた。

「行くぞ、化け物……!」

 カイは地を蹴った。  速い。  全盛期すら凌駕する速度。  一瞬で間合いを詰め、横薙ぎの一閃。

 ズンッ。

 重厚な手応えと共に、ミノタウロスの太い腕が宙を舞う。

(――ああ、そうだ。アイは三歳の時、ワイバーンのぬいぐるみが欲しくて泣いたんだ)

 戦闘中だというのに、唐突に記憶が再生される。  市場で泣きじゃくるアイに、なけなしの金でぬいぐるみを買ってやった記憶。    『ありがとう! 父さん大好き!』  『大事にするんだぞ』

 その映像が、音を立てて崩れ去る。  砂のようにサラサラと、脳の海馬からこぼれ落ちていく。   「ガアアアアッ!」  ミノタウロスが残った腕で殴りかかってくる。  カイは紙一重で避ける。

(学院の入学式。真新しいローブが似合っていた。俺の外套の袖を掴んで、緊張した顔で笑っていた)

 消える。  式典の映像が、真っ白に露光して消えていく。  アイのローブの色が、何色だったか思い出せない。  あの日、俺たちはどんな話をした? 帰りに何を食べた?  思い出せない。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 カイは剣を振るう。  一撃ごとに、ミノタウロスの肉が削げ、再生能力を上回る聖なる炎が傷口を焼く。  そして一撃ごとに、カイの中の「アイ」が死んでいく。

 初めて書いた手紙。『父さんだいすき』。  風邪を引いた夜、一晩中看病してくれた小さな手。  授業参観で目が合った時の、照れくさそうな顔。

 消える。消える。消える。  全部、消えていく。  やめろ。それだけは。  その記憶だけは、俺の宝物なんだ。  金がなくても、妻がいなくても、俺が生きてこれたのは、その記憶があったからだ。

「うおおおおおおおおおおっ!!」

 カイは咆哮する。悲鳴のような叫び。  ミノタウロスが最期のあがきで突進してくる。  カイは聖剣を上段に構えた。  これで最後だ。これを振り下ろせば、全部終わる。

(アイ……)

 最後に残ったのは、さっき路地裏で見た、軽蔑するような、でもどこか寂しげな瞳。  そして、助けた瞬間に見せた「父さんすごい」という輝く笑顔。

(……愛してるぞ、アイ)

 カイはその感情だけを胸に抱き、剣を振り下ろした。

 閃光。

 世界が白く染まる。  ミノタウロスの巨体が真っ二つに裂け、光の粒子となって消滅していく。  同時に、カイの頭の中で「プツン」と何かが切れる音がした。

 白い闇。  静寂。

5.空白の英雄

 砂煙が晴れていく。  ミノタウロスは跡形もなく消え去っていた。  カイは瓦礫の上に立ち尽くしていた。  手には、光を失い、錆びついたただの鉄屑に戻った聖剣が握られている。

「父さん……!」

 瓦礫の陰から、少女が飛び出してくる。  涙で顔をぐしゃぐしゃにして、カイの腰に抱きついた。

「父さん! すごかった! 本当に勇者だったんだ! ごめんなさい、私、あんな酷いこと言って……うわあああん!」

 少女の体温が伝わってくる。  小さな震え。髪の匂い。  カイは、ぼんやりとその頭を見下ろした。  心臓がドクドクと脈打っている。  だが、心の中は、驚くほど静かだった。空っぽだった。

 カイはゆっくりと、少女の肩に手を置いた。  そして、優しく体を引き剥がす。

「父さん……?」

 少女が不思議そうに見上げてくる。  カイは困ったように眉を下げ、穏やかな声で言った。

「怪我はないかい? お嬢ちゃん」

 少女の時間が止まる。  その瞳が見開かれ、困惑の色が広がる。

「……え? 父さん、なに言って……」 「危ないところだったね。もう大丈夫だよ。お父さんとお母さんはどこかな? 早く行ってあげなさい」

 カイの声には、一切の悪意も、冗談の気配もなかった。  ただ、見知らぬ迷子を心配する、親切な「他人」の声だった。

「父さん……? 私だよ、アイだよ……?」

 アイの声が震える。  カイは首を傾げる。  「アイ」という単語を聞いても、何も響かない。ただの音だ。  目の前にいるのは、可愛らしい、けれど全く知らない少女。  なぜだろう。胸の奥がチクリと痛むような気もするが、それ以上に、奇妙な爽快感があった。重荷を下ろしたような、憑き物が落ちたような感覚。

「ごめんね、おじさん、ちょっと頭を打ったみたいでさ」

 カイは錆びついた剣を布で包み直すと、よろよろと歩き出した。  ここには用はない。  家に帰ろう。  ……家? どんな家だったか。  まあいい。腹が減った。今日はいい仕事をした気がする。美味い酒が飲めそうだ。

「父さん!!」

 背後で少女の絶叫が響く。  カイは一度だけ振り返った。  少女がその場に崩れ落ち、泣き叫んでいる。  なぜか、頬に冷たいものが伝った。  カイはそれを指で拭い、不思議そうに眺める。

「……なんで泣いてるんだ、俺は」

 わからない。  理由は永遠に失われた。  カイは涙を振り払い、夕焼けに染まる王都の瓦礫街を、一人で歩き去っていった。  その背中は、かつて世界を救った時よりもずっと、寂しく、そして残酷なほどに英雄的だった。

(了)

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勇者の剣、一回銀貨5枚で貸します 深渡 ケイ @hiro12224

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