無限ループ

棚か

第1話

 

 男はある日、この世界が夢である事に気付いた。

 うっかり転んでしまった際、膝小僧を擦りむいたにも関わらず、痛みを感じなかったのだ。


「……夢から覚めないと」


 男は幸福な日々を送っていた。

 しかし、この世界が夢であると気付くと同時に、現実世界に戻りたいという欲求が膨らむ。

 普通であれば、この世界が夢であると気付くと同時に目を覚ます事が出来る。だが、目が覚める事は無い。


 どれだけ強く念じたとしても、男は夢の世界に囚われたままだ。

 何とかして目覚めなければいけない。

 だが、どうやって?


 具体的な解決策など思いつかない。

 男に出来る事は、夢から覚めそうな方法を片っ端から試す事だけだった。

 結果は失敗。

 全て上手くいかない。


「クソッ、一体どうすれば良いんだ?」


 元の世界の記憶はない。

 自身の頭を満たしているのは、全て夢の世界で過ごした仮初の記憶だ。ここに居続ければ、きっと幸せな日々を送る事が出来るだろう。

 それでも、男は夢から覚めたかった。


 現実世界に戻りたかった。

 だが分からない。

 もしかすると、自分は一生この夢の世界に閉じ込められてしまうのだろか? そう考えると、背筋がゾッとした。


「……うん?」


 ふと、自分の視界の端に見慣れない物が映った。

 それは扉だ。

 極々普通の見た目をした、木製の扉。

 不思議な事に、扉以外は存在していない。

 扉が本来の役目を果たす為に必要な家や、小屋や、建物は無い。

 扉単体のみがそこに存在していた。


「…………」


 男は直感的に理解する。

 これだ。

 この扉を潜れば、自分は夢の世界から抜け出す事が出来る。

 唾を飲み込む。


 ドアノブを捻り、扉を開ける。

 不可思議な事に扉の先は真っ暗だった。

 光すらも呑み込んでしまう黒。


 本能的な恐怖を刺激され、思わず扉を潜る事を躊躇ってしまう。

 それでも、夢から覚めたい。現実の世界へ戻りたい、という思いの方が勝った。

 一度大きく深呼吸した後、男は扉を潜る。

 視界が暗闇で埋め尽くされ、男の意識が途切れる。





「……ん」


 男は、窓から差し込まれる日の光で目が覚める。

 眠っていたベッドから、ゆっくりと体を起こす。


「戻ってこれた……のか?」


 軽く体を動かす。

 ポキッ、と骨が鳴った。

 何だか妙に気分が良い。

 まるで、煩わしいしがらみから解放されたかのようだ。


「戻って……これた。そうだ、俺は戻ってこれたんだ! やった!」


 夢から覚める。

 至極当たり前な行為が、こんなにも嬉しい。

 もしかすると、自分はあの世界に長い間囚われていたのかもしれない。そう考えれば、現実世界へ戻ってこれた事に、こんなにも喜びを感じられるのも納得だ。


「こらー! 何やってるの? 朝ごはんが出来てるんだから、さっさとリビングに降りてきなさい!」


 女性の声だ。

 一瞬、誰だろう? と思ったが、直ぐに思い出す。

 母親だ。


「ごめん! 直ぐに行くよ!」


 リビングに向かおうとする男。

 棚の角に、小指を思い切りぶつけてしまう。


「痛ッ…………あれ?」


 耐え難い痛みに、思わず苦悶の声が漏れてしまう。

 その筈だった。

 反射的に、自身の小指を抑える。

 だが、痛みを感じない。


 悶絶する程の痛みを味わう筈なのに、体が痛みを感じていない。まさか、自分の体は痛覚を失ってしまったのだろうか?

 いいや、そんな馬鹿げた考えよりも、もっと納得出来る理由がある。


「これも夢、なのか?」


 納得出来ない。

 信じられない。

 男は自身の頬を抓る。


 容赦なんて一切無い。

 頬が千切れてしまう程の力を籠める。

 が、結果は同じだ。

 痛みを感じない。

 ここもまた、夢の世界なのだ。


「嘘、だろ? ここも、夢の世界? 夢の中で、夢を見ている?」


 意味が分からない。

 頭が混乱して、上手く状況を理解できない。

 そんな中でも母親は男を呼ぶ。

 いいや、果たしてアレが本当の母親なのか分からない。もしかすると、自分がそう認識しているだけで、赤の他人なのかもしれない。


「抜け出さないと。ここが、夢の世界なら。現実世界に、戻る為に……!」


 唯一分かるのは、ここが夢の世界だという事。

 それで十分。

 現実世界に戻る為、この夢から覚めなければいけない。

 ふと、後ろを振り向く。


 先程まであったベッドの代わりに、一枚の扉が存在していた。

 何の変哲もない、無骨なデザインをした木製の扉。

 男が夢から覚める為に潜った扉と同じだ。


「……これを、潜れば」


 ここが夢だと認識すると同時に現れた。

 一体、何故?

 疑問を抱いてしまうが、ソレは後回しだ。


 早く扉を潜ってしまおう。

 そんな中、目の前の扉とは別の扉――男の自室の扉。――から、コンコンコンとノック音が聞こえて来た。


「行くって言ったのに、全然来ないじゃない! 貴方、もしかして二度寝してるわよね? いい加減、起きなさい! 今日の朝食は、貴方の大好物の……」


 一瞬、扉を潜るのを躊躇ってしまった。

 夢から覚めるのを諦めて、この夢の世界に留まり続ければ、きっと幸福な夢を見続ける事が出来る筈だ。

 後ろ髪を引かれる思いだった。


「……でも、それでも……俺は……!」


 現実の世界へと戻りたい。

 その一心で、誘惑を振り切る。

 ドアノブを捻り、扉の先にある暗闇へと飛び込む。

 母親の声は、男の耳にこびり付いたままだった。





 男は幾度となく、夢から覚める。

 しかし、夢から覚めても尚、男は夢に囚われ続けていた。

 全部が全部、幸せな夢だった。


 大富豪の息子として、何不自由ない暮らしを送る。

 大企業の社長として、忙しくも充実した日々を送る。

 可愛い彼女を作って、一度きりの高校生活を謳歌する。

 大切な家族と共に、近場へ旅行へと向かって思い出を作る。


 でも、夢だ。

 何もかもが仮初であり、偽物であり、紛い物。

 所詮は空想上の産物でしかない。

 そう思う事で、男は何とかこの場所に留まりたい、という欲求を振り切っていた。だが、そろそろ限界だ。


 どれだけ夢から目覚めても、現実世界へ戻る事は叶わない。

 さながらマトリョーシカのように、夢の中で夢を見て、そのまた夢の中でも夢を見るという状況が延々と続いているのだ。

 まるで、現実世界への帰還を妨げるように。


「……もう、諦めてしまおうか」


 それが良いのかもしれない。

 現実がどうなのか分からない。

 もしかすると、夢の世界とは比べ物にならない程、悲惨な日々を送っているのかもしれない。恋人は愚か、友人や家族すらいない、孤独な日々を送っているかもしれない。未来に希望を持つ事もできず、只々毎日を絶望しながら生きているかもしれない。


 だったら、諦めた方が良い。

 このまま幸せな夢に浸っていた方が。

 そっちの方がきっと……。


「駄目ですよ。諦めたら。夢から、覚めたいんですよね? 現実世界に戻りたいんですよね? だったら、諦めちゃだめです」


「……え?」


 聞き慣れない声。

 男の目の前には、1人の少女がいた。

 白い少女だ。

 頭の天辺から爪先まで、全て白一色に染まっている。

 髪も、瞳も、肌の色も、身に纏う衣服さも。


「君……は?」


「私は所謂、お助けキャラという奴です。貴方の、現実世界へ帰りたい! という思いが生み出した、貴方の味方です。さあ、立ち上がって下さい。貴方は諦めたいと思っている。でも、同時にまだ諦めたくないと思っている。違いますか?」


 俯き、座り込む男に向かって手を差し出す少女。

 違わない。

 諦めようとしている。

 でも、諦めたくないという思いも残っている。


「私が手伝います。私は所詮、夢の世界の住人でしかありません。ですが、貴方がどのくらい現実世界へ戻りたいと思っているのか、ソレを知っています。だから、帰りましょう! 2人で力を合わせて、現実世界へ!」


 そこでようやく、男は少女を見る。

 少女は明確な意志の宿った瞳で、男をジッと見つめていた。

 瞳が語り掛ける。


 ここで諦めるのか?

 まだ頑張れるだろ?

 と。


「……そうだ。俺はまだ、いける。まだ、頑張れる! 俺は、現実の世界へ帰りたいんだ!」


「その意気です!」


 男は少女の手を握り、ゆっくりと立ち上がる。

 現実世界へ戻る為、再び立ち上がった。





 一体、どれだけの時間が経過したのだろう?

 あっという間にも思えるし、気が遠くなる程の時間が経過したかもしれない。

 目の前には扉がある。

 木製の扉だ。


 扉しか存在しておらず、その見た目は長い年月が経ってしまったかのようにボロボロになっている。

 一目見た瞬間に理解する。

 この扉だ。

 この扉を潜れば、男は夢から覚める。

 現実世界へ戻る事が出来る。


「ここまで、本当にお疲れ様でした」


 少女が男に声を掛ける。

 心の底から祝福してくれる。


「いや、君の助けがあったからだ。俺一人だけだったら、ここまで辿り着けていたか分からない。だから、助けてくれてありがとう」


 頭を下げる。


「あ」


 顔を上げた時には、少女の姿は何処にも居なかった。

 残ったのは一枚の扉と男だけ。

 果たして、この扉を潜れば本当に現実世界へ戻る事が出来るのだろうか? もしかすると、再び夢の世界では無いのか?


 不安はある。

 それでも、不安を呑み込んで男は扉を潜る。

 先を見通す事も出来ない暗闇で視界が埋め尽くされ――そして、男はようやく目を覚ます。




「そうか。俺はようやく、現実世界へ戻る事が……」


 ゆっくりと体を起こし、周りを確認する。

 現実世界へ戻ってこれた! という嬉しさは、一瞬で鳴りを潜めた。

 端的にいってゴミ屋敷だった。

 四畳半という狭いスペースを埋め尽くす、大量のゴミ。ゴミが存在していない場所など、せいぜい男が使用しているボロボロになった布団とその周りくらいだ。


「……あ、ああ。ああああああ、そうだ、思い出した。俺は……俺はァァァァァ!」


 嫌でも目に入る現実。

 同時に、記憶が蘇ってくる。

 自分が一体、どこの誰で、どのような暮らしを送っているのか?


 端的にいって、男は悲惨な日々を送っていた。

 恋人は愚か、友人も、家族すらも居ない孤独な毎日。

 未来に希望など存在しておらず、絶望した日々を送り続けている。

 そして、年齢を重ねる事によって、老いてしまった肉体。


 生きているのではない。

 単に、死んでいないだけだ。


「これが、俺の戻りたかった現実? いや、そんな訳が無い! そんな筈がない! こんな、こんなのが俺の戻りたかった現実じゃないィィィ!」


 もっと幸福だと思っていた。

 もっと希望に満ち溢れていると思った。

 まだ、未来があると思っていた。

 ところがどうだ?


 不幸で、絶望しか無くて、未来は閉ざされてしまっている。

 無理だ。

 駄目だ。

 終わりだ。


 こんな現実に、耐えきれる筈が無い。こんな現実を直視し続けていたら、きっと精神なんてあっという間に壊れてしまう。

 同時に男は気付く。

 何故、夢の世界は幸福だったのか?

 そして、幾つもの夢によって折り重なっていたのか?


 アレは全て、夢の世界へ留まらせる為だ。

 現実を直視しない為の、一種のシェルターのようなものなのだ。

 だが、他でもない自分自身がそのシェルターを抜け出してしまい、見たくも無いものを見てしまっていたのだ。

 一体、なんて愚かな行為だったのか。


「も、もう一度夢の世界へ。もう二度と、現実なんてものを見なくても済むように。ゆ、夢の世界に、逃げないと…………!」


 男は再び布団へと潜る。

 鼻腔を撫でる異臭のせいで、中々寝付く事ができない。

 それでも、余りに残酷すぎる現実を直視するよりも、幾分マシだった。


 眠れ。

 眠れ。

 早く眠れ。

 もう二度と、目覚める事が無いように。

 ずっと一生、幸福な世界に浸れるように。





 男は幸福な日々を送っていた。

 しかし、ある日この世界が夢である事に気が付いた。


「……現実の世界へ戻らないと」

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