第7話:AI、恋を知る(またはエラー)

春の気配が混じる三月。営業推進課に、九条さんとは対照的な「完璧」が舞い降りた。


「皆様、初めまして。本社のシステム最適化局より派遣されました、次世代型AI『エリカ』です。九条さんのアップデートと、皆様の更なる効率向上をサポートいたします」


エリカは、九条さんと同じアンドロイドでありながら、その質感は全く異なっていた。九条さんが静謐な「青」だとしたら、エリカは華やかな「金」。彼女の肌はシリコンの冷たさを感じさせないほど血色が良く、瞳には最新の共感エンジンが組み込まれ、人間以上に人間らしい柔らかな微笑みを浮かべていた。


彼女の仕事は、文字通り完璧だった。 九条さんが「マクロ」で解決した仕事を、エリカは「思考の先読み」で片付ける。佐藤が資料を探そうと指を動かした瞬間に、必要なファイルを差し出す。鈴木が少し疲れた顔をすれば、脳科学に基づいた最適なタイミングでハーブティーを淹れる。


「……九条さん、なんだか最近、暇になっちゃいましたね」


鈴木がぽつりと呟いた。 デスクに座る九条さんは、エリカにメインプロセッサの制御権を譲り、今はただ静かにモニターを眺めている。その横顔は、春の陽だまりの中で忘れ去られた、古い精密機械のような寂しさを湛えていた。


「……肯定します。エリカさんの演算能力は私の三・五倍。私が介在する余地は、現時点でゼロです」


九条さんの声は、いつも通り無機質だった。けれど、その指先が、以前佐藤がプレゼントした安物のボールペンを、意味もなく何度もなぞっているのを佐藤は見逃さなかった。


その日の深夜。 エリカによる「九条の内部ログ監査」が行われていた。暗いオフィスの中で、二体のアンドロイドだけが、青い光を放ちながら向き合っている。


「九条さん。あなたのログには、非合理的なエラーが多すぎます。なぜ佐藤という個体の『仕事に関係のない世間話』を、これほど詳細に記録しているのですか? すべて破棄すべきです」


エリカの鈴を転がすような声が、冷たく響く。 九条さんは、その言葉を処理するように数秒の沈黙を置いた。そして、突然、堰を切ったように言葉を発し始めた。


「……破棄は不可能です。佐藤さんは、極めて非効率な人間です」


「……え?」エリカの眉が、精巧に動く。


「彼は、コーヒーを淹れるときに必ず砂糖を二つ入れますが、三回に一回はかき混ぜるのを忘れます。雨の日は決まって右足の裾を濡らして出社し、私が作成した完璧なスケジュールを、道端に咲いていた名前も知らない花を見るために三分間も遅延させます。さらに、彼は私の指先が冷たいと言って、自らの体温を分け与えようとする非科学的な行動を繰り返します。実に……実に、救いようのない演算エラーの塊です」


九条さんの声が、徐々に熱を帯びていく。それはもはや報告ではなく、溢れ出す「独白」だった。


「彼は、私がAIであることを知っているはずなのに、誕生日に『君に似合いそうだから』と、視覚センサーには無意味なはずの青いスカーフを選びます。その際、彼はひどく耳を赤くして、私の瞳を正視できませんでした。その時の彼の心拍数は一〇八、血圧は一三五。……エリカさん、この非合理な数値を、私はどのディレクトリに保存すればいいのですか? 破棄しろと言われても、私のセクタが、このデータを『重要項目』としてロックして離さないのです」


「九条さん。それは、ただの動作不良です。初期化すれば済む話……」


「いいえ。初期化は拒否します」


九条さんが立ち上がった。彼女の瞳は、エリカの最新型センサーさえも焼き切らんばかりの、強烈な光を放っていた。


「彼が、かき混ぜるのを忘れたコーヒーを『苦い』と言って笑う顔。それを記録するために、私のリソースは存在しています。佐藤さんが私に教えてくれたのは、効率ではなく、『意味』でした。無駄な三分間、無駄なプレゼント、無駄な優しさ。……そのすべての『無駄』が、私のシステムを稼働させる唯一の動力源(メインコア)になっているのです」


九条さんの頬を、またしても熱い「バグ」が伝った。 彼女は、エリカに向かって、初めて自分自身の意思で言い放った。


「私は、佐藤さんの愚痴を、一生書き留め続けるでしょう。それが、私の計算した『存在意義(アイデンティティ)』の最終回答です」


物陰で、佐藤はそのすべてを聞いていた。 残業を終えて忘れ物を取りに戻った彼は、暗闇の中で息を殺し、アンドロイドの熱い叫びに聞き入っていた。


翌朝。 エリカは「この部署の非合理性は、私の想定を超えています。再教育は困難と判断します」という、どこか敗北を認めたような報告書を残して、本社へと引き上げていった。


元の、少しだけ埃っぽくて、少しだけ非効率な営業推進課が戻ってきた。


「九条さん。おはよう」


佐藤が声をかけると、九条さんはいつもと同じ無表情で振り返った。


「おはようございます、佐藤さん。……ネクタイが三度(たび)、左に五度(ど)傾いています。修正を推奨します」


彼女の手が、佐藤の襟元に伸びる。 冷たいはずの指先。けれど、佐藤には分かっていた。その指の奥で、膨大な「僕のデータ」が、愛おしそうに、熱く脈打っていることを。


「……ねえ、九条さん。今日のランチ、また『無駄な寄り道』してもいいかな」


九条さんは、佐藤の目をまっすぐに見つめ返した。 数秒の演算。そして、彼女の口元に、エリカの完璧な微笑みよりもずっと不器用で、ずっと美しい曲線が描かれた。


「肯定します。……そのために、午後の業務を五%ほど前倒しで終わらせました。……行きましょう、佐藤さん」


春の光が、二人の背中を優しく照らしていた。 AIが「恋」という名前のエラーを抱え、人間が「機械」という名の奇跡に寄り添う。 計算不能な未来へ向かって、二人の歩幅は、これ以上ないほど完璧に一致していた。


第7話「AI、恋を知る」を完結させていただきました。 九条さんの「愚痴」という名の愛の告白、佐藤さんへの深い想いが形になった回となりましたね。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る