格ゲーおじさん、貞操逆転世界で無双する

久保田

一話・トイレットペーパーを買いに

 勝利が、欲しかった。

 それは永遠の栄光なんかじゃない。

 ただ、ただ一度の勝利が。




 格闘ゲームの歴史は長い。

 その頃のゲーム機が、社会の教科書に載ってしまうほどに。

 自分の子が小学生になって、その教科書を読ませてもらった時には鼻水が出るほど驚いたものだし、黎明期から格ゲーをやっていた身としては本当に……なんというか、本当に歳を取ったものだと感じたものだ。

 そりゃ老眼にもなるし、一日中ゲームやってたら身体中バキバキにもなる。


 歴史として語るのであれば、格闘ゲームはまさに転換点だった。

 喫茶店で粗いドットの侵略者を撃つゲーム喫茶から、格闘ゲームを中心に様々な筐体があり、その周りにクレーンゲームが置かれているような「ゲームセンターといえば」という光景が生まれたのはこの頃──と聞いた事はあるが、本当にそうなのかまではさすがにわからない──らしい。

 格闘ゲームは、ゲームをプレイさせる場所そのものを変えてしまったのだ。

 まさに太陽だった。

 今にして思えばクソ要素盛りだくさん。しかし、当時からすれば最新鋭のスペシャルなゲームだ。

 台が空くたび、オタクも不良もヤクザもサラリーマンも、飢えた犬のように飛び付いて百円玉を叩き込んでいた。

 その一作で終わりではない。

 次々に、もはや百花繚乱とも呼ぶような勢いで格ゲーは次々に発表されていき、




 そして終わった。




 沈んだ理由は簡単だ。

 次々に「とりあえず格ゲー出しておけば売れる」とクソゲーが粗製乱造され。

「もっと面白いシステムを!」と初心者お断りの複雑怪奇なゲームシステム。

 百円入れて自分のキャラがずっとバウンドしてるの見てるだけのゲーム、誰が面白い?

 そんな事はない、格闘ゲームはいつだって人気だったと思う人間もいるから、あまり表では言いたくはないけれど。

 それでも俺はいつもこう思っていた。


「あれ、みんな格ゲーつまんないのかな?」


 触れた瞬間、踵を返す初心者。


「いつまでも遊んでられないよ」


 あいつは就職を機に、ゲーセンに来なくなった。


「今度結婚するからさ。金貯めたいんだ」


 ゲーセンに金を突っ込み過ぎて必死にかき集めたご祝儀が一万円ぽっちだったのを、よく覚えている。

 あの日、ゲーセンが終わった深夜におごってもらった缶コーヒー一本、その借り。自分が惨めで涙が出そうになった。

 名前も知らない、でもゲーセンでいつも見た顔が、気付いたら見なくなっていた。

 それでも。


 俺達の前に、道はなかった。

 これが野球なら「ひょっとしてプロ選手になって億万長者だ」なんて夢が見れたかもしれない。

 eスポーツなんて言葉は、世界中探しても無かった時代だ。

 東京さ行って音楽やってビッグになったる、の方がまだマシだ。

 練習を重ねて台の向こうの相手をやっつけた所で、入れた百円すら帰ってこない。

 上手くなりたかった。勝ちたかった。

 いつだって貧乏で、どこまでも無意味だと知っていて。

 それでも。


 格ゲーと生きてきた。

 真剣にやればやるほど、摩擦が増えていった。

 もし仕事で「釣りが趣味なんです」と言えば、「お、それでは今度一緒にいかがですか?」なんて話が転がるかもしれない。

 しかし、格ゲーが趣味と言ったところで、そんなにウケるわけでもない。何より知ってる顔は貧乏人ばかり。

 仕事の何かに役に立つ縁になるわけがないだろう。




 そして、だ。

 何故、こんなつらつらと訳のわからない話を延々としているのかと言えば、だ。

 例えば大会だ。

 負けたくない奴がいる大会で、絶対に勝ちたい。

 そう思った時、俺はめちゃくちゃ緊張するのだ。

 指が震えて、水をがぶ飲みして、わけのわからないことをわめき散らしてゲロを吐きそうになる。




 格ゲーに生かされた。ある日、突然に。

 あの格闘ゲームの六作目を、女の子が楽しそうにプレイしていた。

 配信者の動きに合わせて絵が動くVtuberの女の子だ。

 登録者なんて目も眩むような数で、流行に最大限乗っているような女の子だ。

 そんな女の子が、格闘ゲームを、楽しそうにやっている。

 これは格ゲーおじさんにしかわからない驚きだったと思う。

 そんな女の子がゲーム会社の公式大会に出るからと、コーチとして教えなければいけない事になった時、俺は本当に困った。

 自分の子供くらいの娘だ。今さら彼女を性の対象として見ない程度の分別はついている。

 それ以上に何話せばいいんだ。干支いくつ差なんだよ。

 まさか飲み屋のねーちゃんと同じように話すわけにもいかないだろう。行かないし、行けないが。

 その当時、一応暇潰しに配信していた俺は、その依頼にすっかり困っていた。

 一度断っても二度三度としつこく依頼が来るし、あまりに面倒になって受けてしまったが、いざやるとなると本当に嫌になってきた。

 それにそんな大手配信者の女といえば、わがままで性格が悪いかに決まっているんじゃないだろうか。

 まぁ適当にやって、適当に終わらせよう。




 タバコが欲しい。酒でもいい。

 今すぐこの緊張をなんとか出来れば、なんでもいい。

 酒もタバコもやれない身が、なんとも憎い。




「今日からよろしくおなしゃす!!」


 第一声は鼓膜の代えが必要になるくらいにでかい声。

 そして、何より実際に顔を合わせたわけじゃない。

 顔をカメラで写して、それをなんかどうにかして絵に反映させる……みたいなあれだったはずだ。

 その絵が、キラキラと輝いていた。

 溢れんばかりの情熱と、楽しさが、ただの絵をギラギラと輝かせている。


「厳しくお願いします!全力でついていきますんで!」


 一流の配信者だからなのか、だからこそ一流なのかはわからない。

 それでも。


「今、格ゲーすげー楽しいんですよ!めっちゃ上手くなりたいんで!私のこと勝たせてください!お願いします!」


 ろくに面白い事を言えない俺は、最初から最後まで彼女におんぶに抱っこされ、初日の配信を終えたのだった。




 ああ、胃の中の物を全て吐き出してしまいたい。

 トイレの中に顔を突っ込んで、汁という汁を垂れ流してしまいたい。




 自分のチャンネルも、ごそっと人が増えた。

 適当に格ゲーや他のゲームをしながら、適当に喋っているだけのつまらない配信なのに、どういうわけか人が来てくれる。

 俺の配信の特徴と言えば、ノスタルジーというか昔のゲーセンというか。

 コメント欄はみんな好き勝手に話してもらって、たまーに俺がそれに触れるような自由形なくらいか。

 わけわかんねー話してる時もあれば、何故かコメント欄で人生相談が始まったりもする。

 うちでだけ流行してるミームとかある。なんだよ、配信主も知らないミーム流行らすなよ。

 ケンカもしている時もあるが、秩序の欠片もない混沌とした空気が何故か好きだったし、いつも来る視聴者も気にいってくれているように思えた。

 収入は増えたが、それよりも登録者が増えても変わらない空気感が嬉しい。

 それでも、そんな彼らを裏切るとしても。




 初手は土下座から入った。

 床に頭を打ち付けるほどに──実際に打ち付けて床壊したら、それこそ本気で怒られるからギリギリ──深々と頭を下げた。


「た、頼みがあるんだ!」




 彼女は初心者だった。

 よく言えば他ゲームの癖はなく、悪く言えば何もない。

 せいぜいFPSの経験が多少ある程度か。

 細かいあれこれを教えて格ゲーが嫌いになられても困る。

 なるべく『たのしいかくげー』をしていただいて、今後も出来たらちょっぴり触って宣伝していただければ十分だ。


「あの、センセ。ちょっといいっすかね」


 初回の配信が終わった後、配信外の彼女と話した。

 滑舌はもちろんいい。だが、どこか吐き出すように喋る癖がある。

 音を作るのがもどかしい、とでも言うような喋り方だ。


「あー……ごめんね、面白いこと言えなくて。人とやる配信慣れてないんだよね」


 コマンドを入力して技を出す。格ゲーの最初の壁はそこだ。

 簡略化したシステムもあるが、どうしてもひたすら地味な画が続くことからも、正直やらせたくない。

 適当に対戦して、適当に勝ち負けを繰り返すだけで終わってしまった。

 彼女が盛り上げてくれたからこそ、配信が成り立ったのだろうし、それに対して文句を言う権利が彼女にはある。

 その時の俺は、そう考えていた。


「今日の練習続けたら、強くなれるっすか?」


「あ?」


 身バレ対策だろうか。俺のPCの画面には、彼女とされている絵が映っている。

 配信中はニコニコと柔らかい表情を浮かべていたのだが、今は左目を閉じ気味にしていて、口元は固く結ばれていた。


「あの、私は学もなくて育ちも悪いから、あんま深いことわかんないんすけど、センセは私を強くしてくれようとしてます?」


「あー……まぁ格ゲーって難しいからさ。時間かけないと」


「一日どんくらいやればいいっすかね?」


 それでも配信外の彼女も、ギラギラと輝いていた。

 表情を取り繕わずとも、どこか重い圧がある。


「一日……えーと」


「なんでもしますよ、ウチ」


 声は変わらない。

 配信の中で聞く彼女の声より、少し早口で言葉が荒いだけだ。

 この程度で表から裏に豹変した、なんて思わない程度には彼女によく馴染んだ声だった。


「ウチ……いや、私……ごめん、センセ!言葉崩すね。ちょっと真剣に聞いてもらうのに、ややこしいこと出来ないや」


「あ、ああ……構わないけど」


 彼女の声が少し上に上がる。

 ひょっとしたら画面の向こうの彼女は、椅子の上で正座をしているのかもしれない。

 その証拠に、彼女の絵が妙な方向を向いている。

 ちょっと面白い。


「ウチの居場所って多分配信にしかないんすわ」


「……いや、そんなことは」


「そうなんすわ。まぁ詳しく話してもセンセ困らせるから省略させてもらいますけど。で、ファンのみんなに嘘吐きたくないんです」


 俺の、いい年こいたおっさんのもごもごとした言い訳じみた何かは、速攻でばっさり切り捨てられた。

 岩のような、山のようなでかい物を押し付けられそうになっている。

 それがはっきりと、わかった。


「ウチ、みんなに格ゲー楽しいって言ったんすよ。勝つって言ったんすわ」


 それは何度も見てきた物だ。

 感情的な何かだ。

 ひたすらでかい熱量。


「ウチのポケットマネーから依頼のお金追加します。これやれって言えば、絶対にやります。だから真剣にウチを助けてください」


 負けず嫌いの勝ちたがり。

 何よりも負ける事が死ぬほど嫌いで、勝つ以外に価値はない。

 そういう性格だけの生き物が、格ゲーに入ってきて生き延びてきた。


「ウチの言葉、マジにしてください」


「はあ……」


「なんぼ追加したらいいっすかね。これでも稼いでる方なんで好きな金額言ってくださいよ」


 色は違う。

 純粋さは恐らく足りていないだろう。

 だが、熱量だけは問うまでもない。


「いらない」


「へ?」


「一日何時間とかないから。空いてる時間、全部突っ込んでくれる?」


「あの、センセ」


「その全部に付き合ってやる」


 心がへし折れるまで、付き合ってやる。

 何故か、妙に彼女にムカついた。





「コンボミスったから、もう一回」


「はい」


 音圧はもう薄い。

 それよりもひたすら集中した彼女は、画面の中のキャラをまともに動かしている。

 だが、それだけだ。

 配信の撮れ高なんて物はない。まるでうちの配信みたいなしょーもない配信だ。

 それでも彼女の視聴者はちっとも離れず、応援の──なお、俺の方には三日で彼らのお気持ちを綴ったメールが百通を超えた。こわい──声が途切れることがない。


「くっそ……!」


 負ければ悔しがり、


「センセ、見てた!?ゴールド突破ァァァァァァァァァァァァ!!!!!!」


 勝てば大喜びだ。


「リーサルあるかなぁ、これぇ!?わかんねーなぁ!超必ぶっこんで確かめてみよぉ!」


「体力一ドットにリーサルもクソもないだろ!?」


 地味な練習を繰り返し、オンライン対戦を繰り返し、最後に俺との対戦。

 うんざりするくらいに、アホの負けず嫌いしかやらないような練習を繰り返す。

 才能の有無なんてわからないが、それでも。

 それでも時計の長針が動くように、彼女は強くなっていった。


「そういやなんで俺に依頼したの?他にプロチームもいたのに」


 当時の俺はいくつか来ていたスカウトを断って、無所属でやっていた。

 年齢的なこともある。

 eスポーツのプロとして、最前線に立てるとはちっとも思えなかったのだ。

 昔の知名度で「ワタシはプロです」なんて言うのは、みっともなく感じていた。

 その知名度だって「昔ゲーセンでブイブイ言わせてました(笑)」なんてくだらなすぎる。


「あれ、話してませんでしたっけ?ウチ、センセの配信好きなんすよ」


「なんであんな地味な配信好きなのさ……」


 ガチャガチャとボタンを叩く音が聞こえる。

 共有されたゲーム画面は、そろそろ見ているだけの俺も辛くなっている。

 それ以上に実際にプレイを続けている彼女の方がしんどいはず。


「あー……いや、ちょい照れるんすけど、ウチの理想っていうか」


「はあ」


 彼女の迂闊な攻めを咎めた後、ひたすらボッコボコにしていく。


「乙」


「ぐぬぬ……先が遠すぎる。で、センセの配信ってみんな友達みたいじゃないっすか。気軽にアホなこと話してるみたいな」


「そうかね?」


 今度は逆に判断をミスれば、即座に持っていく苛烈な責めでひたすら追い込んでいく。

 案の定、わざと晒した隙に食らいついた彼女をボコボコに。

 今さら気を使ってられるか、とばかりに短文でしか喋らなくなった俺はきっちりとリーサルまで持っていった。


「で?」


「ムカつくっすね、聞き方も勝ち方も。……ウチもああいう配信したいなーって思うんすよね。それならセンセ呼んじゃおうと思ったんすけど……センセ、ちゃんと連絡先用意しときましょうよ。連絡先が配信のコメント欄しかないって案件来ないっすよ」


「案件ねえ」


 なんか飯食って美味い美味い言っておけばいいのかね?

 そういうのならやってもいい気がするが。あれっていくらくらい貰えるんだろうな。


「いや案件より、ウチの話聞いてくださいよ。センセの所みたいな視聴者どうやったら集まるんすか。教えてくれるなら、それこそ金払いたいくらいなんすけど」


「さー?」


 実際知らない。

 なんか適当にやっていたら、適当にみんなが話し始めただけだ。

 気に入らないコメント、気持ち悪いコメントと色々あるが、ゲーセンではもっと色々なことがあったのだから。

 ヤンキーやヤクザに勝ってしまったら、灰皿飛んでくるかリアルファイトが始まる時代だったからな。

 今にして思えば、とち狂った時代だったわ。




 顔は見れなかった。

 ビビっている自覚はある。

 生活の、人生の話をしようというのだ。

 それも一人でもなく、最低二人の。

 彼女の依頼から一年、俺のチャンネル登録者は相当に増えていた。

 あれだけ君らの推しに厳しくしたのに、よく来たな……?と不思議な気持ちになったのを覚えている。


「どうしたの、パパ?」


 頭上から降りて来る声は、土下座している俺に対してなんとも普段通り。

 それが怖い。

 このままそれなりに配信をやっていれば、まあまあな生活はやっていけるだろう。

 息子と娘に援助してやれるし、孫の入学式に大きな顔が出来るかもしれない。

 それでも、


「い、一年だ!」


 流行はいつか終わる。

 爆発的な、あの頃に比べれば小さな、それでもまた俺たちの格ゲーは甦った。


「今年一年だけ、俺に時間をくれ!今年一年だけ、本気でやらせてくれ!」




「…………」


 彼女はよくやった。

 たくさんの登録者は、彼女をただ遊んでいることを許さなかった。

 それとも許さなかったのは、彼女自身か。

 大量のサインを書き、レッスンもあり、別な配信をすることもある。他にも、他にも、他にもたくさんの仕事が彼女を追った。

 時間が、足りなかった。


「…………っ」


 それでも、


「泣くな!」


 言い訳はいくらでも出来た。

 寝る間は惜しめなかった。

 体調を維持するのは、当然の義務だった。

 限界ギリギリの、何歩手前だったのだろう。

 いや、彼女のスケジュールは休みなんて一日もない。

 そういう意味では、限界だった。

 だから仕方ない。そう、仕方なかった。

 それに誰もが想像していない、ジャイアントキリングも成し遂げた。

 それに別に公式の大会みたいなものじゃない。お遊びの、ちょっと……相当にでかい規模の大会というだけだ。

 彼女はやれることは全てやった。

 誰もが想像していた何倍もやってみせた。


「よくやった。君はよくやった!」


 恐らく、多分、きっと。俺はこんなことを叫んだはずだ。

 絵を、アバターを貫通した彼女は涙を流す。

 流れない涙を、きっと誰もが見ていた。


「センセぇ……ごめん。ごめんね」


「ち」


 違う。そう言いたかった。

 言ったところで何の意味もない。

 火は付いている。

 その熱は、いつだって自分を焼く。


「みんなごめん……」


 百万の言葉を上手いこと並べれば、この火を消せるんだろうか。

 真っ暗でどこにも繋がっていない道を、この火に焼かれてやってきた。

 この火に焼かれながら、生きるしかなかった。

 誰もが見放して行ったつまらない場所で、いつも火を起こしていた。


「負けちゃったよ」


 真剣に意味はない。かけた時間に意味はない。努力の量に意味はない。

 この火が収まる時は、ただ一つしかない。


「……っ。……負けちゃったよ」


「つ、次は!」


 泣き声は聞こえない。

 何かを飲み込んだような音。それでも滑舌はしっかりと、発音は耳に届く。

 プロの声だと思った。


「次は!」


 それに比べて、なんて俺は無責任だ。

 彼女に、俺に時間を捻出する余裕なんて、あるのか?

 もっと金の稼げる楽しい配信をするべきだ。

 当たり前だ。

 大人として、とかそういうやつをしていけばいい。

 それでも、俺は逃げられない。


「次は勝て!泣いてる暇があるなら練習しろ!負けたんだぞ、俺たちは。勝つんだよ、次は!」


 たったそれだけのために、今まで生きてきたはずだ。

 生ぬるい配信して、生ぬるい終わりを迎えるために格ゲーしてたのか?

 そうじゃねえんだよ、俺は。

 もっと上手くやれるなら、とっくの昔にここにはいない。


「俺が格ゲーで最強だ。その弟子は、その次に強いに決まってる」


 まだ持っていないその証明、何をしてでも取ってやる。

 年に一度の公式大会優勝。俺は最強の証明を、よく考えたら何の関係もないだろう誓いを立てた。

 次の約束も、彼女に確認することもなく。


「勝つぞ!」


「はい!」


 なんとも皮肉なことに、その日の投げ銭は記録的な金額になったらしい。




「え、えっと……そ、の。な?」


 結局、土下座してまで言いたいことは、もう終わっていた。

 想定していたはずの言葉は、もうちっとも出てこない。

 彼女を理由にした言葉は、出せなかった。それはあまりに情けない。

 それに、結局のところは彼女は理由じゃない。

 とはいえ、何を言えば……?

 ひょっとしなくても一年もひたすら格ゲーの練習に集中すれば収入は減る。そのわがままを許してくれ、なんて大人の言うことじゃない。


「ねえ、パパ」


 我が愛しの妻は、何故かスリッパを脱いだ。

 家では靴下を履かない派の妻ははっとするほど白い肌で、結婚してからちっとも変わっていないように思えた。

 その白い肌が、君の右足の甲が俺の額を打った。

 反射的に上げられた俺の頭の間に、するりと入った足の甲が顎の下にぴたっと止まる。


「えーと……」


「ね」


 見下ろす妻の顔は、笑っている。

 冷たい、とても冷たい笑顔だ。

 俺の魂と胆はすっかり縮こまっていて、生物学上の俺を男と証明するモノは哀れなことになっている。

 アゴの下に添えられた足が、するすると上がっていく。

 それに合わせられた俺の頭は中腰の高さまで持ち上げられていき、君は深く、深く溜め息を吐いた。


「私、一番強いの男と結婚したはずなんだけど?」


 俺はどこまで、君に逆らえない。

 それを骨の髄まで、改めてわからせられた。


「死ぬまでやってきなさい。あとトイレットペーパー買ってきてね、今日中に」


「はい!」

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