怪物少年

@azhr123

目の中が擦れて、瞼が目の玉にへばりついて離れない。呼吸すると、腐敗した臭気が生温かい湿気と共に唇を割って口の中にのめり込んでくる。その匂いに、思わず咳き込む。そうすると、喉の奥から苦くて酸っぱい空気がつっかえながら湧いてきて、内蔵ごと吐きそうになる。

口の中がどろどろとした涎で満たされる。

彼は目を覚ます。

その体は、孵化する前の芋虫に酷く似た、醜く皺を増して爛れた肉塊だった。





彼は怪物ながら、ヒトに酷似した生活を送っていた。

彼に手足は無い。その代わりに、歩く時は胴体の下が粘体状になって地面を滑る。物を掴む時は、体から液体を纏った触手のようなものが伸

びる。

そんな彼は、起きてまもなく階段を降りて1階へ行こうとしていた。

彼の目前にある階段からは、呻き声と叫び声が混じったかのような、強烈な濁音が聞こえてくる。近づくと、階段はでこぼこした肉のような質感のそれで覆われていて、そこが時々割れてぎょろぎょろした目の玉が覗いている。

彼は慣れた様子で、階段を降り始める。

すると彼の足が、ふと目玉に当たってしまい、

そこから出る粘性の液体が目玉を何かが焦げる音と共に半分ほど覆うと、目玉はどこからともなく「ぎゃああああ」と怪鳥のような泣き声を発した。

彼は、「ああ、ごめん」と枯らし声で申し訳なさそうに謝る。

しかし、この体の下は、何とかならないものだろうか。彼は考えた。

歩く度に、ぐじゅぐじゅと液体が漏れる音と、ぷか、ぷかと気泡の潰れる音がする。1歩、また

1歩と階段を降りる度、この体の下は粘り気を増してねっとりとした臭気を放つ。

自分の体のことながらどうしようもないので、彼はため息をつくしかなかった。

1階に降りると、まだ誰も起きていないようだった。

この1階も、部屋全体が腐った肉のようなもので覆われていた。殆どが茶に赤錆に腐り、時折鼓動に似た蠢きで薄らと目立つ青く様々にくねり曲がった血管が波打っている。階段と同じく、目玉が至る所に覗いている。階段と違うのは、肉壁の殆どに幼児の歯のような、未完全の骨の出っ張りが生えていることと、部屋の中央に腐臭を放つ大きな口が構えていることだ。

彼は部屋を見渡して、やがて洗面所へ向かった。

電気をつけると、辺りの目玉たちが眩しそうに目を瞑った。

彼はそれを然程気にせず、鏡の前にたった。

鏡の中には、肉塊の怪物が写っている。

彼の身長は低い。頭から先までは短く、頭皮は存在しない。その代わりに全身に所々短い毛が目立つ。表面は紫や赤の血が膿んだかのような打撲痕で覆われていて、その全てがぶよぶよした粘土のような質感だった。

目は体の真ん中に1つ。口はその右下くらいにぱつくりと割れている。鼻や耳はあるが、肉に埋もれて目立たない。

(もっと口と、目玉欲しいんだけどなー)

最近の流行りでは、体に視覚と聴覚が物並みに多く備わっているほど格好がいいらしい。

彼は自分の顔を不満げに見つめつつも、蛇口を捻り顔を洗うことにした。

蛇口からは血のように赤くどろどろした液体が流れ出る。それは、肉で覆われた下にとぷとぷと重みのある音と共に溜まるのにそう時間はかからなかった。

彼は、自分の顔にその酷くどろりとした血肉を砕いたかのようなそれの中に自分の粘って糸を引く手をとっぷりと突っ込んで、掬いあげて打ち付ける。

掌が血塊と粘る体液とが混ざり合って、ぬらぬらとした泥色にまみれる。

彼は、その手のままに顔を擦る。

それを伸ばすと、顔の肉の皺が伸び、そこに隠れていたように溜まった垢が摩擦によって糸状になって細かくなった。

それが血と入り交じって赤黒く変色し、まるでまだ固まっていない瘡蓋を爪で引っ掛けて剥いだ時みたいな痛みと、ねっとりとした体液が微かに滲む感触が伴った。

彼はそれに表情を顰めながらも、汚れているのは嫌なので、全部取れるように擦り洗いした。

「ふう……………」

彼は顔を拭かずに、鏡の中のへどろのような血に塗れた自分の顔を見つめた。

(今日はなかなかにいけてるぞ…………)

彼はどこか嬉しそうに笑った。

彼はふと窓を見た。

外はもう明るいらしい。空は淡褐色に染み、辺りには濃紫の霧が立ち込めている。

空気は濁り、埃と塵のようなものが飛散している。

まだら模様の苔色の靄がかかる空上には、黒い鶏のようなものが、ギャアギャアと得体の知れない鳴き声を上げて回転しながら飛んでいる。

(もうこんな時間か…………)

彼はぼんやりと、そう思った。




リビングには父と母がいた。

今日も今日とて、どちら共がお互いを威嚇するように雄叫びを上げている。

母は肉塊で、父は瓶底のような形状をしていた。

母は、胴体から二股に分かれた2つの顔に裂いた口で、きんきんとした癇声を上げ叫ぶ。

一方は小汚い嗄れた顔で、一方は綺麗な顔をしていた。

「だから、お酒はやめてって何回もいってるのに、何でやめてくれないの!?いつもいつも飲んだくれて家事もろくにやらない癖に!だらしないと思わないの?!子供に悪影響でしょ!煙草も!受動喫煙で肺が汚れるから、もうやめてよ!」

父は、それに反抗するように、瓶底の焼きかすの混じった泡を吹く液体に溺れた口で母を貶した。

「お前だって家に引きこもって働きもしない癖に!専業主婦の分際でうるさいんだよ!

誰が稼いだ金で生活できてると思ってんだ!酒と煙草ぐらい自由にさせろ!」

2人の怪物は醜く互いを抉りあう。

彼は怪物達の気が触れないように、気配を消して机の上の干し肉を取って逃げるように2階へ上がった。



彼は、干し肉を上下の唇で挟み、噛みちぎる。

「………まったく、朝からとんだ迷惑だ」

両親はここの所ずっとこんな調子だ。

朝から晩までずっと汚い唾を飛ばし罵りあっていて、飽きないのかと疑問に思う。

起きても、起きない時も、歯を磨いていても、歯を磨かない時も、食べる時も、食べない時も、出かける時も、出かけない時も、帰った時も、帰らない時も、手を洗う時も、手を洗わない時も、暇を過ごす時も、暇を過ごさない時も、忙しい時も、忙しくない時も、風呂に入る時も、風呂に入らない時も、風呂から出る時も、風呂から出ない時も、寝る時も寝ない時も。ずっとずっとずっとずっとずっと、あの金切り声と怒鳴り声が耳の鼓膜にねっちょりと根を張って錆び付いて離れない。

そのせいで、四六時中頭の脳みその皺の中がぐちゃぐちゃぐちゃと指で掻き回されるみたいに、静かにならない。

脳髄から頭の骨が飛び出て野晒しになったみたいな、そんな頭痛がずっと続くんだ。

それが潤った状態から、空気に撫でられてかぴかぴに乾いた感触を、この指で触って感じてみたいと、彼は思う。

それくらいに、今は騒騒しい。

空は蛇の鱗のように斑紋に畝り腐っている。

すると、窓の外から何やら呻き声のようなものが聞こえてきた。彼が妄想に耽っているうちに、時間は流れるままに過ぎ去っていたようだ。

彼ははっとして焦る。

「………やばい!」



彼は急いで1階へ降りる。

リビングからはまだあの声が聞こえてくるが、構っている暇はない。

素早く足袋を取り付け、彼は転けるようにして玄関を飛び出した。

「遅刻だ!」




彼は走って道を駆け抜ける。

足の触れる通り道は、緑の砂利に覆われ、液体の漏れ出た足袋に砂利が吸い付くのを感じた。

いつも通りの見慣れた通学路だ。

そこには、いつも見かける顔馴染み達も歩いていた。

体の真ん中が大きく裂けた脂塊の横を通り過ぎると、次はとても小さな鼠のような生物。こいつは蹴り飛ばしたら大変なので足元に気をつける。

薄い紙に、泥が溶けたようなもの、球状にヒモの足が生えたもの、犬の顔をした蟲。

皆それぞれ、違った個性ある形々をしている。

空にはいつの間にか真っ黒な太陽がのぼり、灰色の巨大な何かが大きく翼を広げて浮遊している。それが太陽に照らされ暗い影を遮って白い光を作り、彼を含めた街全体を明るく照らした。

彼は、その眩しさに慌てて目を瞑った。

やがてそれが過ぎ去ると、彼は安心したように気を取り直して道を走った。

通学路は塵の混じる濁った霧に包まれている。

彼はその霧を吸って吐き、楽しそうに笑った。

(今日も、良い一日になりそう!)

彼の囁かな「日繞」は、今日も暗く始まろうとしていた。

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