幕間その三

 視聴覚室で一人、友を待つ逢恋は、室内をスマホのライトで照らしながらキョロキョロと辺りを見回していた。

 ライトを部屋の隅に向けたとき、壁に張りつけられた紙切れが彼女の目に留まった。その真下には大きな棚が横倒しになっており、そこは本来は人目につかないよう、隠されている位置だった。

 好奇心に突き動かされるように、彼女はそろそろと近付き、指を触れた。その瞬間、その『お札』はひとりでに剥がれ落ちた。

 直後、部屋の中央で水面を叩くような微かな音が生じた。しかし、振り返った逢恋の視界に映ったのは、荒れたままの室内だけ。彼女は僅かに体を強ばらせながらも、床に落ちたお札へ手を伸ばそうと身を屈めた。

 次の瞬間、糸の切れた操り人形のように、彼女の体は力を失い、静かに崩れ落ちた。


 影に潜む怪異として生まれた『籠鰐亡』は、自らの影を人の影へ重ね合わせることで肉体から魂を引き剥がし、それを捕食するという特異な性質を持っていた。

 その力により肉体から弾き出された逢恋の魂は、床に横たわる自身の体を見下ろし、状況を理解できないまま混乱の表情を浮かべていた。直後、再び水面を打つような音が室内を震わせた。

 床に転がったスマホのライトが、空を泳ぐ籠鰐亡の姿を照らし出した。その姿は、幼少期に逢恋の深層心理へ刻まれた化け鮫の像と酷似しており、怪異がまとう瘴気と相まって、魂のみの状態となった彼女の精神に強烈な衝撃を与えた。

 恐怖から錯乱状態となった逢恋は、我を失ったように扉へ向かって走り出した。籠鰐亡も即座に追尾しようとしたが、間の悪いことに入口の扉がゆっくりと開きはじめた。

 『籠』の名が示す通り、籠鰐亡は閉ざされた空間を生息域とし、その内部では自由に空を泳ぐことさえ可能であった。しかしその状態にあるうちに密室が解かれた場合、体が形を失い、しばらくの間再顕現もできなくなるという弱点を抱えていた。

 扉の開放とともに、籠鰐亡の体は影へ溶けるように崩れていった。消失の過程にありながら、籠鰐亡は逃げゆく逢恋の背を、断ち難い執着の色を残して見送っていた。


 なぜ扉が開いたのか、そんなことを考える余裕もなく、ただ恐怖に駆られるまま必死に逢恋は走った。扉の裏にいた、舘入の姿にも気付かぬままに。

 正面玄関ドアを押し開けようと伸ばした手が、そのまますり抜けた。愕然とした表情で自らの手とドアを交互に見つめたあと、彼女は意を決した様子で体を投げ出した。


 逢恋の表情は恐怖に蝕まれ、涙が止むことなく溢れていた。追い詰められた魂そのものが、隠れ場所を探しながら崩壊の縁を彷徨っていた。


 目立った外傷のないまま意識を回復しない患者が現れた場合、事案は自動的に『機関』へ通達されるよう体制が整えられていた。派遣員の確認を経て、病院へ搬送された逢恋の肉体には生命維持装置が装着され、駆けつけた両親とともに、事件の全容が明らかとなるまで隔離措置が取られた。


 翌朝、報告を受けた倉橋は学校に姿を現すなり、頭を抱える結果となった。彼が校内に入り込んだ瞬間、校舎に漂っていた僅かな怪異の気配が、痕跡ごと消失したためである。相当に警戒心が強く、手がかりすら掴ませない深度へ潜伏している怪異。倉橋には、即時の対処が必要であることだけが明確だった。

 ただし、その用心深さは逆利用が可能だった。怪異が潜伏を選ぶのであれば、自身を抑止力として校内に置くことで行動を大幅に制限できる。そう判断した彼は、学校内部への潜入を決めた。


 事件発生から八日が経った朝の休み時間。教室の一角で交わされていた会話に、『幽霊』という単語が混じった。その言葉は、怪異の対処に頭を悩ませていた倉橋の注意を、確実に捉えた。

 彼らを呼び出し、聞き出した『少女の霊』という存在。それが事態を好転させる確証はなかったが、正体の特定は必須だろうと倉橋は判断した。

 とはいえ、一般人への情報開示は厳しく禁じられている。自らが陰陽師であることはもちろん、霊的事象に関する知識を持つ事実すら明かすことはできなかった。そこで倉橋は、自らを道化として振る舞うことで、彼らの行動を誘導する手段を選ぶことにした。


 翌日、彼らに連れられ現れたその霊は、報告にあった少女そのものの姿をしていた。その姿を目にした瞬間、倉橋の頭に二つの結論が浮かび上がった。彼らを導きさえすれば、事態は収束へ向かうこと。そして同時に、その過程が彼らの心に、深い傷を残す可能性があるということ。

 それでも倉橋は、その責を自ら負う覚悟を固め、計画を続行することとした。


 倉橋の妻であるフラヴィアは機関の監視下に置かれてはいるものの、その一員ではなかった。ゆえに倉橋よりも自由度が高く、彼女を霊能研究家として接触させることで、生徒たちに幽霊に関する基礎知識を与え、保護のためのお札を手渡すことが可能となった。また倉橋自身も、舘入に関する情報をわかりやすく机上に配置し、彼らが自然に真実へ近付くよう細かく導線を整えていった。すべては早期解決のためであり、怪異に狙われつつある彼らを、一刻でも早く救うための措置であった。


 こうして計画どおり、彼らを囮とすることで、倉橋は怪異を祓うことに成功した。また、怪異に襲われたことで彼らも当事者としての立場を得ており、情報を開示する正当な理由を持つこととなった。本来なら口にすべきではない事柄も含めて、倉橋が全てを語ったのは、危険な目に遭わせてしまった彼らに対する、せめてもの誠意であった。


 ――しかし、彼の計画はまだ終わってはいなかった。


 病室で眠る逢恋の肉体と、倉橋の前に姿を見せた彼女の魂。肉体から離れてしまったのなら、元に戻せばいい。その発想自体は自然なものだった。

 だが実際には過去の延命儀式等とは異なり、肉体から完全に離れた魂を戻す術式は記録されていない。魂が離れた時点で、肉体は器としての機能を失うとされているためである。

 それでも倉橋が、彼女を救うことにこだわった背景には、彼女らを危険な目に遭わせたことへの負い目だけでなく、制度によって身動きを縛られる現行の機関への反発があった。古い価値観に固執し、仕組みを改めようとしない機関への抵抗感は、彼の判断に強く影響を及ぼしていた。

 逢恋の肉体は病院に搬送され、派遣員によって『魂の離脱』が確認された。現行制度ではそれは脳死と同一の扱いであり、公式には死亡と発表される。家族が望めば、延命処置の中止も可能だった。

 脳死とは異なり、魂を失った者は静かに眠っているだけに見える。その外見と制度上の扱いとの隔たりに、倉橋は強い違和感を覚えていた。


 もし『死亡』として処理された少女が再び目を開けるなら、機関は避けられない混乱に直面するだろう。倉橋は、その事態を想定したうえで、独断で彼女を元へ戻す道を選んだ。


 病室のベッドに横たわる逢恋の肉体。その胸元に、彼は一枚のお札を置いた。それは、光に包まれて消えた彼女の魂が、最後に持たされていた札そのものだった。

「周郷さん、聞こえてるかな? これから君の魂を、体に戻すための儀式を行うよ」

 静かに呼吸を繰り返す逢恋に向け、倉橋は声をかけた。

「それにあたって、君にやってもらいたいことがあるんだ。といっても、すごく簡単なことだから安心してね」

 倉橋が微笑みかけるも、彼女の体に変化は生じなかった。

「目が覚めるまでの間、楽しかったことだけを考えていてほしいんだ。幽霊になっちゃう前のことでもいいし、もちろん、笹ノ間くんたちとのことでも構わないよ。あとは、起きたらなにがしたいか、とかもいいね。もうすぐ夏休みだし、いろいろやりたいこと、あるんじゃない?」

 倉橋は、彼女の思考が負の方向へと傾かぬよう、穏やかな調子で語りかけた。生への執着、それがこの術式の鍵だったからだ。

「……さて、そろそろ始めようか」

 彼が呟くとほぼ同時に、病室は淡い光に満たされていった。

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