第八章
「すご〜! めっちゃいいじゃん!」
シアタールーム内をぐるりと見回しながら、逢恋は声を弾ませている。
「え、マジ映画館みたいじゃね!? こんなん最高じゃん!」
「えへへ……」
ソファに腰掛け、興奮気味に話す逢恋に対し、ノエルは照れくさそうに笑っている。
「ねね、早くなんか観よ!」
「あ、じゃあ起動するね」
壁際のミニテーブルから、ノエルはリモコンを二つ手に取った。片方をポチポチと操作しながら、彼はソファの端に腰掛ける。
「薫くん、電気消すよ?」
「ん、あぁ……」
逢恋が三人掛けのソファの真ん中に陣取ったということは、必然的に俺はその隣に座ることになる。
無性に気恥ずかしさを感じつつ、そそくさと腰を下ろす。ふっと明かりが消えたあと、俺は彼女とは逆側の、肘掛けに体を預けた。
「そういえばあいるん、倉橋先生のこと聞いた?」
「聞いた〜。なんか、アタシと会いたいとか言ってんでしょ? ま、暇だし会ったげてもいいかな〜って」
「そっか。確か、十七時だったよね。昨日の続きのはちょっと長過ぎるかなぁ」
スクリーンには、いくつもの作品サムネイルが映し出されている。ノエルが手元のリモコンで操作するにつれ、それらが次々と切り替わっていく。
「せっかくだから、昔の名作とかも観といてほしいよねぇ。……っと」
不意に、彼はポケットからスマホを取り出し、画面を一瞥した直後、慌ただしく立ち上がった。
「ごめん、お母さんからだ! 先観てていいよ!」
リモコンを二つともソファに投げ、スマホを耳に当てながら、彼はそそくさと部屋を出ていってしまった。
「電話か」
「行っちゃったね〜」
彼女は両肘を膝に乗せ、手のひらで顎を支えながら、力の抜けた声でぽつりと呟いた。
ふと、彼女がリモコンに触れられないことに気付いた。無言で立ち上がり、彼女の前を横切ってリモコンを手に取る。
「……ふふっ、ありがと」
そんな俺に対し、彼女は微笑みながら、なぜか礼を言った。
俺を見上げ、目を細めて無邪気に笑うその口元には、スクリーンからの反射に照らされた小さな八重歯が、どこか誇らしげに光っている。
不意に向けられたその笑顔の眩しさに、心臓が跳ね、顔が火照りだす。悟られぬよう慌てて顔を逸らし、ごまかすように短く息を吐いた。
「な、なに観るんだ……?」
「アタシはなんでもいいよ〜」
上擦りかけた声をどうにか抑え込み、無理にでも平静を装う。そんな俺とは対照的に、彼女はソファにもたれかかり、両足をぶらぶらと揺らしながら、楽しげに笑っていた。
「……なんか、好きなジャンルとかないのか?」
なんでも、と言われると、困ってしまうのが世の常である。
「んー、昨日は戦うのばっか観てたし、せっかくなら他のとか〜?」
であれば、アクションやバトル系は除外するとして……。
「……ん?」
なんとなく、リモコンの効きが悪い気がする。プロジェクターのほうへ向けてみるも、ボタンが反応したりしなかったりと不安定だ。
「電池切れか……?」
背面の蓋を外し、電池をつけ外ししてみるが、ついには全く反応しなくなってしまった。
「しょうがない、ノエルが戻るまで――」
「ひっ……!?」
背後から微かに、息を呑むような音が聞こえた。反射的に振り向いた俺の視界で、逢恋が正面を見つめたまま硬直している。
さっきまでのリラックスした様子から一転して、小さく縮こまるように座り込んだまま、彼女は指先をそっと口元に添えていた。カタカタと震えるその手首を、もう片方の手で必死に抑え込むように、ぎゅっと握りしめている。
「お、おい、どうした……!?」
俺の問いかけにも応じず、彼女はひどく青ざめた顔で、怯えるように眉根を寄せている。目元には涙が滲み、小刻みに揺れる瞳は、スクリーンに釘付けになっていた。
「や、やだ……! こないで……!!」
慌てて彼女の視線を辿る。その先、スクリーンでは、ある映画のプロモーション映像がプレビューされていた。それは公開当時、世界的に社会現象を巻き起こしたほどの大ヒット作であり、パニック映画の原点とも呼ばれる作品だ。
シンプルながらも特徴的なテーマ曲が不気味な雰囲気を盛り立てる中、海を泳ぐ『その生物』が姿を現した。
「ひぃっ!? いやああああ!!」
画面いっぱいに獰猛な『サメ』の頭部が映し出されると同時に、逢恋が金切り声を上げた。その反応は、過激な演出に怖がる通常の反応とは明らかに違っていた。それはまるで、自分が本当に襲われたかのような、本能的な叫びだった。
「わ、悪い! すぐに……あぁ、クソっ!!」
すぐさま映像を止めようとリモコンを操作するが、ボタンを押しても全く反応せず――その間も彼女は、両腕で顔を覆い、呻き声をあげながらガタガタと震え続けている。
とにかく映像を止めないと。そう思い、急いでソファの裏へと回る。小さな台の上に乗せられたプロジェクターから伸びる電源コードを、勢いよく引き抜いた。
「電気……!」
真っ暗になってしまった部屋の中、もう一つのリモコンを、ソファの端から手探りで取り出しボタンを押す。部屋の中が、フッと明るくなった。
「だ、大丈夫か……?」
ソファの上、逢恋は浅く激しい呼吸を繰り返し、指が腕に食い込むほどの力で自らを抱きしめていた。
小さな子供のように怯えるその姿は、普段の明るく堂々とした彼女からは到底、想像もつかず、俺はどうすればいいのかもわからずに、ただ立ち尽くしていた。
「――あれ、電気ついてる……って!? ど、どうしたの!?」
「……ありがと、のえるん……」
ソファの上で俯いたまま、逢恋は呟いた。
「ん、落ち着いた?」
しゃがんだまま彼女の顔を覗き込み、ノエルは問いかける。
部屋に戻ってきたノエルは、怯える逢恋を見るなりすぐさま彼女の元へと駆け寄り、声をかけた。俺から事情を聞き、なおも震え続ける彼女に、優しい言葉をかけ続けていた。
――そんな簡単なことすら、俺にはできなかった。
「うん、もう大丈夫……」
そう答えた彼女の手は、まだ微かに震えている。
「無理しないでいいよ」
優しく微笑みかけるノエルに、顔を上げた逢恋の表情が少し和らいだ。
「……その、なにがそんなに怖かったのか、聞いてもいい?」
ノエルの問いかけに、逢恋は僅かに体を跳ねさせ、また顔を伏せてしまった。
「あぁごめん! イヤだったら全然……!」
「ううん、平気……」
俯いたまま、彼女はひとつ深呼吸をした。
「……自分でも、よくわかんない……。あれが映った瞬間、急にすっごく怖くなって……」
「……サメが怖いんだね?」
ノエルの口からその単語が出た瞬間、逢恋の体がまた、ビクッと跳ねる。
「そっか……あれになにか、トラウマがあるんだね」
ノエルの問いかけに、逢恋は小さく頷いた。
「……あれ? でもあいるん、なにも覚えてないんだよね?」
「うん……。だから、なんでこんな怖いのかもよくわかんなくて……」
か細くこぼしたその声に、戸惑いが滲んでいる。
「まあとにかく、落ち着くまでもう少し休んでていいよ」
そう言って、ノエルは立ち上がった。
「先生との約束も、気にしなくていいからね。無理そうなら、僕らで断っておくから」
「ん、ありがと。……ごめんね、のえるん……」
軽く見上げながら、逢恋は呟いた。少し驚いたような顔で、ノエルは彼女を見つめ返す。
「かおるんも、びっくりさせてごめんね……?」
不意に彼女はこちらを向き、申し訳なさそうに言った。
寄せられたままの眉と引きつった微笑みからは、いつものような明るさは感じられず、ただ、胸を締めつけるような痛ましさだけがあった。
「謝る必要なんてないよ。あいるんは、なにも悪いことなんてしてないんだから」
そんな彼女を気遣うように、ノエルは笑顔でそう告げた。
「……ノエルの言うとおりだ。だから、気にすんな」
俺も何か、彼女の気が楽になるような返答をしなければ。そんな思いを巡らせたのち、ようやく口から絞り出したのは、ただ彼の言葉に乗じただけの、陳腐なセリフだった。
怯える彼女を慰めることもできず、気の利いた言葉の一つも伝えることができない。そんな自分の不甲斐なさに、僅かに眩暈を覚えた。
「あとさー、広告で見たんだけど、蜘蛛の人って仲間なるん?」
「そうだよ、もともとはおんなじレーベルだからね」
ノエルが隣に寄り添い、声をかけ続けていた甲斐あってか、逢恋の話ぶりに、普段の彼女らしさが戻りつつあった。
「え、てかこんなにいっぱいあんの? やば。全部観んのに一年くらいかかんじゃね?」
「映画だけならそんなにかかんないよ。外伝のドラマとか含めるなら、全部で三百時間くらいあるらしいけど……」
並んでソファに腰掛け、スマホの画面を覗き込みながら、二人は他愛のない会話を交わしている。
そんな二人を前に、俺はどことなく居心地の悪さを抱えていた。彼女の隣に座るのは少し気が引けて、ソファの肘掛けに浅く腰掛けていた。
「……あ、もうすぐ十七時だ」
言いながら、ノエルは立ち上がった。
「あいるん、先生との約束、どうする? 無理そうなら、僕が今から……」
「ん、ありがと。でも大丈夫」
ノエルの言葉を遮るように、逢恋も同じく立ち上がり、大きく伸びをした。
「せっかくだしアタシも、そのイケメン教師に会ってみたいし?」
「ふふっ、そっか。でも、無理しないでね?」
優しく笑いかけながら、彼はドアノブに手をかけた。
「かおるん、置いてくよ〜?」
部屋を出る寸前、逢恋はくるりとこちらを振り返り、俺に向かって言った。
不思議そうに俺を見る彼女の表情からは、さっきまでの怯えが嘘のように消えている。
僅かな安堵を胸に、無言のまま俺は立ち上がった。
朝からぐずついた天気が続いていたが、今では梅雨晴れの空に、うっすらと赤みが差している。吹き抜ける風は湿り気を帯びているが、気温はそれほど高くはなさそうだ。
「そのイケメン先生ってどんな人なん?」
「んー、優しくてフレンドリーで、いい先生だと思うよ。まだ来て三日だけど」
「ふ〜ん、ちょっと楽しみかも」
二人、並んで歩くその後ろを、俺は一歩引いたままついて行く。
「ふふっ、ならよかった。……っと、時間ぴったりだ」
周囲に五時のチャイムが響きはじめたころ、前方に校門が見えてきた。
そのとき、不意に逢恋が足を止めた。
「……あれ? あいるん、どうかした? ……あっ、しんどいなら今からでも――」
「あのさ……。さっきあんなことあったし、正直に話しときたいんだけど……」
気遣うノエルを遮り、逢恋は真剣な口調で話しだした。
「アタシね、ほんとはあそこに行くのも、怖くてヤなの」
「あそこ……って、まさか、学校……?」
じっと正面を見つめる逢恋の視線を辿り、ノエルは怪訝な顔で問いかけた。
「幽霊になっちゃってから、いろんなとこ歩き回ってたんだけどさ? 学校だけは、なんか怖くて近寄れなかったの」
「怖い……っていうのは、その……」
「そう。さっきの……『サメ』と一緒……」
片腕をそっと自分の体に回し、俯き加減で彼女は続ける。
「なんで怖いのかわかんないけど、とにかく怖くてしょうがなくて……」
「そうだったんだ……。じゃあ、今からでも戻ろう? 無理する必要ないよ」
ノエルからの提案に、逢恋は静かに、首を横に振った。
「……でも、行かなきゃ。なんでこんなに怖いのか、気になるから。なんでアタシがこうなっちゃったのか、全部思い出したいの」
自らを抱くその指先は微かに震え、腕に深く食い込んでいる。
「その先生も、アタシの事故のことは知ってるんでしょ? 直接話聞くチャンスなのに、アタシが逃げたら話になんないから」
それでも、顔を上げた彼女は力強い眼差しで、校舎のほうをじっと見つめていた。
「……そっか。うん、そうだよね。なんにも思い出せないままなんて、そっちのほうがつらいよね」
そう呟き、ノエルは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、やる気に満ちた表情を見せる。
「わかったよ! 僕らも、あいるんの記憶が戻るように、全力でお手伝いするよ! ね、薫くん!」
鼻息荒く、彼は期待を込めた眼差しで俺を見つめている。
「……まあ、そりゃあな。乗りかかった船でもあるわけだし、手は貸すさ」
軽くため息をつき、そう告げると、俺を見るノエルの表情が一気に、満面の笑みへと変化した。
「……二人とも、ありがと」
ぽつりと、逢恋は呟いた。先ほどまでの緊張と怯えの入り混じったような表情とは違い、僅かなぎこちなさはあるが、その口元には微笑みが浮かんでいる。
――怯える彼女に手を差し伸べられなかったことへの後悔と、それを当然のようにやってのけたノエルへの劣等感。胸の奥でジリジリと燻っていた自己嫌悪が、その微笑みのおかげか、少しだけ治まった気がした。
「詮索するなって言われてたけど、本人が直接調べる分には『詮索』じゃないしね! きっと先生も、きちんと答えてくれるよ!」
もともと逢恋の過去に興味津々だったノエルだが、彼女が向き合う覚悟を決めたことで、俄然やる気になってきたようだ。
「よぉし! 早速先生に……あっ!」
張り切ってノエルは歩き出したが、前方から人影が走り寄ってくるのに気付き、足を止めた。
「いやあごめんごめん! 待ったかな?」
「先生! いえいえ、僕らも今来たところですよ!」
爽やかな笑顔を振りまきながら、倉橋は俺たちに軽く頭を下げた。
「ならよかった。臨時教員とはいえ、いろいろとやることが多くてね……」
話しながら、彼はキョロキョロと周囲を気にしている。
「……それで、噂の幽霊さんは今どこに?」
「う~わ……」
「え゛っ……」
「おおう……」
これは、幸先が悪いな……。
「いや、ここにいるんすけど……見えてないんすか?」
「ここ? ここって、ここ……?」
俺の問いかけに、倉橋は逢恋を、正確には彼女がいるであろう空間を指差す。その様子に逢恋は、引きつった顔で冷ややかに彼を睨みつけている。
「ほんとに? なにも見えないけど……」
「はぁ〜……なんか萎えるわ〜……」
怪訝な表情で首を傾げる倉橋を見て、逢恋はガックリと肩を落とし、不満そうな顔で毛先をくるくると弄んでいた。
「み、見えないんですね……あはは……。えと! それはそれとして、先生に聞きたいことがあるんですけど、時間大丈夫ですか?」
倉橋が『見えない人間』である以上、事故の詳細については俺たち二人で聞き出さなければならない。
逢恋、つまり被害にあった生徒と俺たちは、傍目から見ればなんの接点もない、ただの同級生だ。そんな、クラスすら違う俺たちに、果たして彼は事情を教えてくれるだろうか。
「ん、大丈夫だよ。立ち話もなんだし、面談室でも借りようか」
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