二階の音は数えない-間宮響子-
江渡由太郎
二階の音は数えない-間宮響子-
夜の音は、必ず“上”から降ってくる。
間宮響子は、淳のアパートに足を踏み入れた瞬間、そう確信した。
築年数の古い木造二階建て。廊下に染みついた油と、かすかな甘辛い臭い――焼肉のタレだ。鼻腔の奥に残るそれは、すでに料理の匂いではなく、生活そのものが腐敗した痕跡だった。
「今も……します」
淳は声を潜め、天井を見上げた。
その瞬間、ミシ……ミシ……と、はっきりと足音がした。
大人の体重だ。
一定の歩幅。
目的もなく、部屋の中を歩き回る音。
「もう、誰も住んでいないんですね?」
「はい。引っ越してから、三週間です」
響子は目を閉じ、意識を“上”へ伸ばした。
そこには生活の気配がない。家具も、呼吸も、温度もない。
だが――重さだけがある。
(いる……)
記憶が、淳の言葉と重なる。
以前、二階に住んでいた若い夫婦と四歳の女の子。
走り回り、飛び跳ね、夜中でもお構いなしの騒音。
苦情を入れれば、逆に警察が呼ばれる。
異臭。
焼肉のタレの匂い。
密閉された部屋で、肉を焼き、煮込み、何かを隠すように。
「奥さん、赤ちゃんも抱いてました」
淳の声が、わずかに震えた。
「四歳の子の手を引いて、もう一人、乳児を……」
以前、ガス点検の業者も二階の住人は「子どもは二人」と言っていた。
二階の家族の引っ越しの日、淳の母親が何気なく「お子さんは二人ですよね?」と尋ねると、奥さんは顔色を変えた。
「――子どもは一人だけです!」
流産したため子供は一人だけだと言う。
響子は、そこで違和感を確信に変えた。
流産した子は、“いなかった”のではない。
生まれなかったことにされたのだ。
その夜。
今回の依頼内容を検証することにした。
アパートの玄関前に立つと、闇の中に人の形をした濃さがあった。
老婆だった。
腰が折れ、背中を丸め、
まるで暗闇に溶け込む練習をしているように、じっと佇んでいる。
顔は見えない。
だが、視線だけが正確にこちらを向いている。
「……あれは?」
淳が息を呑んだ。
「“将来”です」
響子は低く答えた。
老婆は、二階の“それ”が辿り着いた姿だ。
部屋の中を歩き回り、自分が何を探しているのかも分からないまま、音だけを残す存在。
「流産した子は、この穢れの家族として数えられなかった。でも、この建物は数えてしまった」
夜が更けると、音は増えた。
ミシミシ、ミシミシ。
ときおり、小さなトン……トン……という床を小突く音が混じる。
新生児が床に寝かされている音。
そのすぐ後に、ぬちゃ……と、何か柔らかいものを引きずる音。
淳は耳を塞いだ。
「止められますか……?」
響子は、首を横に振った。
「これは“家鳴り”じゃない。家族の続きです」
翌朝、淳は一睡もできなかった。
だが、音は消えた。
安心したのも束の間、天井に、無数の小さな手形が浮かび上がっているのを見つけた。
指の数が、合わない。
五本ではない。
七本、八本――潰れたような形。
その夜から、淳は気づいた。
眠りかけると、必ず上から見下ろされている。
歩き回る音は、もう聞こえない。
代わりに、耳元で、小さな声が囁く。
――ねえ。
――ぼくも、かぞえて。
その声が、天井ではなく、自分の内側から響いていることに気づいたとき、淳は初めて、あの老婆がなぜ玄関前に立っていたのかを理解した。
彼女は、順番待ちをしていたのだ。
次に“二階の音”になる者が、下から上がってくるのを。
――(完)――
二階の音は数えない-間宮響子- 江渡由太郎 @hiroy
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