緋宮硝子②

​***


​ 父が消えたのは、物心つく前のことだった。しかし、その事実は、幼い私の心に底知れない喪失の穴を穿った。

 月日が流れても、その穴が埋まることはなかった。

 母は慈愛に満ちた人だった。けれど、私に口にするのは謝罪の言葉ばかり。

 「苦労をかけてごめんね」「お父さんがいなくてごめんね」。母さんが謝る必要なんて、どこにもないのに。


​ やがて、穴は闇へと変質した。

 父への慕情は形を変え、黒く濁った憎悪となって私の精神を侵食していった。


​ ある、雨の日。

 灰色の景色の中を彷徨っていた私の前に、一人の男が現れた。

 全身を漆黒のローブで包んだ、見るからに異質な男。自らを【預言者】と名乗った男は、私にこう告げた。

「近き未来、この世界に『勇者』が降り立つ。私は、貴女の類稀なる観察眼を見込んで依頼をしたい。その勇者を殺してほしい。完遂した暁には、家族が一生、平穏に暮らせるだけの富を約束しよう」


​ 迷うほど、私は情に満ちた育ち方をしてこなかった。

 それから、私は血の滲むような修練に身を投じた。すべては、母を謝罪の呪縛から解き放つため。

 そして――彼が転校してきた。

​ 蜜柑川悠里。【預言者】から聞かされていた傲慢な英雄像とは正反対の、優しげな瞳をした茶髪の男。けれど、似ていた。記憶の澱に沈んでいた、あの父の面影に。

 彼は、呆れるほどに優しかった。

 だから信じたくなかった。彼が私の「暗殺対象」であるという現実を。


 けれど、天秤は残酷だった。家族の安泰と、出会ったばかりの少年の命。私は、迷わず家族を乗せた皿を選んでしまった。


​***

 意識が浮上する。頭を殴られたような鈍い痛みに、私は弾かれたように身を起こした。

 消毒液の匂い。ここが学校の保健室であることに気づくのに、数秒を要した。

「……どうして、殺さなかったの?」

 視線を落とすと、ベッドの傍らに彼がいた。あの聖剣も隣に立っている。

「殺すも何も、俺はちょっと刺されただけだからね。その傷も、サップの能力で細胞レベルから修復済みだよ」


​ 悠里は、いつもと変わらない穏やかな微笑みを向けてくる。

 なぜだ。なぜ、殺されかけた相手にそんな顔ができる。

 ……いいえ、そんなことはどうでもいい。

 殺せる。今なら、殺せる。

​ 彼は完全に油断している。距離は数センチ。能力を使う隙さえ与えず、その喉笛を断ち切れば、すべてが終わる。

 私は隠し持っていた予備のナイフを抜き、彼の首筋へと一閃を繰り出す。

 切る。

 切り裂く。

 早く、動け。私の腕――。

「……やっぱり、切れないよね」

 悠里は、静かに吐息を漏らした。

 私の指先が、目に見えて震えていた。あと数ミリ力を込めれば、彼を殺せる。母さんを救える。なのに、私の身体は、魂は、決定的な拒絶反応を示していた。


​「君は、まだ『人間』のままだ。だから、俺を殺しきることなんてできない」

「うる、さい……っ!」

「……おかしいと思っていたんだ。チャンスはいくらでもあった。屋上で君を助けて、俺が能力の反動で動けなかった時。それに、さっきの奇襲だってそうだ。もしあれが本気の猛毒なら、俺は今頃死んでいる。なのに、なぜわざわざ麻痺毒なんていう、不確実な手を使ったんだ?」

「うるさい……黙って……っ!」

「別に、殺し合わなくてもいいだろう」

 あんたに、何が分かるっていうの。

 この穴の暗さを。背負わされたものの重さを。


 何も知らないくせに、救うような顔をして、私を惑わせないで。

「君だって、助けたい人がいるんだろ?」

 震える喉から、声が漏れない。

「それは、俺も同じなんだ。……そして、君が守りたい人は、きっと、同じくらい君のことを守りたいと願っているはずだ」


​ もういい。やめて。

「だから緋宮。君はもう、一人で苦しまなくてもいいんだ」

 どうして、まだ、この勇者は。

 私を、人として、見てくれているの?

 どうして、この勇者は、私の隣に座れる。      

 どうして、この勇者は、私に、声をかけられる。

 どうして、この勇者は、まだ、私を、認めてくれる。


「……バカじゃないの?」

 吐き捨てた言葉は、自分でも驚くほど熱を持っていなかった。


 ああ、本当にバカだ。この人は。

 でも。嫌いにはなれなかった。


​「それで、提案なんだけど。緋宮、俺と――んぐっ!?」

 強引に、彼の唇を塞いだ。

 柔らかな感触。そこに確かに存在する「生」の温度。


 それは、私の心に空いたあの冷たい穴を、ゆっくりと、けれど確実に埋めていくような気がした。


​「……ありがとう。悠里」


​「……は、はい。……って、身体が、また動かない!?」

「マスター!? 大丈夫ですか、しっかりしてください! ――この女、キスを媒介にしてまた別の毒を流し込みましたね!?」

​ 私は、ベッドの上で小さく笑った。

 この勇者は、やっぱり詰めが甘くて、どうしようもなくお人好しだ。

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