第1話
意識を取り戻した時、彼はエメラルドグリーンの草原に膝をついていた。そよ風は柔らかく暖か、深い青空はまるで神の筆で描かれたかのようだった。遠くには雄大な山々が地平線を縁取り、森は緑の海のように広がっている。
秋浩は困惑しながら瞬きをした。空気は澄み渡り、汚れひとつない。彼は呆然としたまま動けずにいた。
「一体……何が起きたんだ?」
ショックを隠せないまま、彼は呟いた。ゆっくりと立ち上がると、ベルベットのように柔らかい草の感触が靴越しに伝わってくる。
「これは……本物なのか?」
喉から笑いが漏れた。最初は不安げに、やがて興奮と否定が入り混じった笑いへと変わる。
「嘘だろ! 本当に異世界召喚なんて……マジかよ!」
彼は狂ったように笑いながら空に向かって叫んだ。
「でも、最悪のスタートだぜ! 美人の女神もいなけりゃ、髭面の王様もいねえ! スキルメニューすら出ないのかよ! せめて街くらい用意しとけってんだ!」
彼は再び草の上に倒れ込み、笑いを唇に浮かべたまま仰向けになった。
「……まあ、悪くないか」雲がゆっくりと流れるのを眺めながら、彼は漏らす。「これなら慣れそうだ。説教もなけりゃ、自分を偽る必要もない。そして何より……あの馬鹿な英明の顔を二度と見なくて済む――」
「無事なようで安心したよ」
聞き覚えのある、落ち着いた声が割り込んだ。
秋浩の体が凍りついた。全身の筋肉が強張る。
(嘘だ。そんなはずがない)
彼は慌てて飛び起き、ゆっくりと振り返った……。そして、見てしまった。
運命の悪質な冗談のように、そこに立っていたのは霧沢 英明だった。非の打ち所のない、静かな佇まい。教科書通りの笑顔と、いつもの見下すような表情。
「英明……。お前、なんでここにいる?」
「秋浩」兄は重々しく腕を組み、問いかけた。「私のことを何と言っていたか、詳しく聞かせてもらおうか?」
秋浩は一歩後ずさりした。まるで学校の重圧が、この新世界まで追いかけてきたかのようだった。
「冗談だろ……」
「この馬鹿者が! 兄に対する礼儀を忘れたか!」
次の瞬間、予告もなく英明の拳が秋浩の顔面に叩き込まれた。長年の鍛錬に裏打ちされた正確な一撃。秋浩は後ろに倒れ込み、血とプライドを吐き出した。
草の上に転がったまま、彼は苦々しく空を見上げた。
「そうだよな……」歪んだ笑みを浮かべて呟く。「お前がいなきゃ始まらないよな」
「何か言ったか?」
「別に。繰り返す価値もないことだよ、兄貴」
袖で血を拭いながら、秋浩はふらつきつつ立ち上がった。英明は、彼が最も嫌うあの表情――失望と道徳的優位性の入り混じった顔で弟を見ていた。
「大人になれ、秋浩。今は二人とも状況が分かっていないんだ。お前の子供じみた態度は一番の足手まといだ」
「へえ、仰る通りで、賢明なる英明様。跪いて、助けてくれてありがとうって言えば満足か?」
「いいや」彼は冷徹に言った。「一生に一度くらい、その脳みそを使えと言っているんだ」
秋浩が言い返そうとしたその時、女の声が二人を遮った。
「あなたたちも、今来たの?」
二人が振り返ると、森の境界から五人の少女たちが近づいてきていた。全員が同じ学校の制服を着ている。その表情には驚き、混乱、そして微かな恐怖が浮かんでいた。
「他にも生徒が……?」秋浩が呟く。
「私たちだけではなかったようだな」英明は眉をひそめ、声を険しくした。
奇妙に光る葉を持つ木々に囲まった広場で、一行は自己紹介を始めた。
最初に前に出たのは、ヴァニア・ミツラ。一年生の彼女は、華奢な体格と消え入りそうな声で、この荒野には不釣り合いに見えた。
その後ろでは、アメリア・ナミコがぶっきらぼうに話し、グループから一定の距離を保っていた。英明はスポーツ大会で見かけた彼女を覚えており、少し驚いた様子を見せた。だが、彼女が返した視線は単なる敬意ではなく……それは「心酔」に近いものだった。
三人目は、ナミ・アリカ。腕を組み、常に蔑むような表情を浮かべる彼女は、典型的な自己中心者であることを隠そうともしなかった。
リア・サトルは違った。彼女は急ぐ様子もなく中央へ歩み寄り、まるでリハーサルのない学芸会に無理やり参加させられたような表情をしていた。周囲を冷静だが無関心な目で見渡す彼女には、どこか超然とした雰囲気が漂っている。
最後の一人は、アカネ・キラ。夕闇の中で彼女の濃紺の髪が輝き、その瞳はどこか見えない一点を見つめていた。彼女を見た瞬間、秋浩の心の奥底で何かが波立った。説明のつかない、郷愁に似た痛み。
英明が自己紹介をすると、場の空気が変わった。彼の力強くカリスマ性に満ちた声は、温かい一陣の風のようだった。太陽の光さえも、彼を祝福するように強く差し込む。少女たちは、まるで伝説の英雄でも見るかのように彼を見つめた。完璧な笑顔、堂々とした立ち振る舞い。彼がいれば大丈夫だと思わせる安心感。
対照的に、秋浩はその場に留まったまま、自分の番になると最低限の声で答えた。
「霧沢 秋浩。俺には何も期待するな」
沈黙がその場を包み込む。誰も反応しない。ただ英明だけが、内なる葛藤に負けたかのようにため息をついた。
「さて」英明はリーダー特有の口調で言った。「互いのことは分かった。計画が必要だ。誰かこの場所について、あるいは帰り方を知っている者はいないか?」
だが、その権威の糸を断ち切ったのは、予期せぬ自信に満ちたリアの声だった。
「ここは地球じゃないわ」
英明は困惑して眉をひそめる。「どういう意味だ?」
「周りを見て」彼女は景色を指差した。「奇妙な色の山、あり得ない色調の空、あそこを飛んでいる生き物……。私たちの世界には存在しないものばかりよ」
全員が彼女の視線を追った。空には、鋭い剣のような翼と、太陽に煌めく鋸状の嘴を持つ、金属的な質感の翼竜が舞っていた。
「別の世界よ」リアの瞳に、抑えきれない興奮の火が灯る。「まるでRPGみたいだと思わない?」
初めて、秋浩がニヤリと笑った。
「全くだ。もしここがRPGなら、近くに町があるはずだ。町があれば、レベル上げも始められる」
英明は、弟が森に火を放つとでも言い出したかのような目で彼を見た。
「本気で言っているのか?」
「何が悪い」秋浩は冷ややかに返した。「ここに連れてこられた以上、理由があるはずだ。特別なスキルやステータス……あるいは、頼んでもいないエピックな運命とかがあるのかもな」
皮肉めいた口調ながら、その言葉には微かな希望が混じっていた。リアが小さく頷いて加勢する。
「秋浩くんの言う通りかもしれないわ。まずは文明を見つけて状況を把握すべきよ」
英明はしばし考え込み、数秒後に同意のジェスチャーを見せた。
「……分かった。探索を始めよう。日が沈む方角へ歩くのはどうだ? 戻る際も迷わずに済む」
一行は同意した。秋浩は、自分のアイデアを兄がさも自分のもののように扱ったことが気に入らなかったが、反論はしなかった。苛立ちを飲み込み、歩き出す。
数時間が経過した。オレンジ色に染まり始めた空の下、一行は青白い樹皮の木々が立ち並ぶ丘を進んだ。前向きな態度を保とうとする者もいたが、笑顔は強張り、言葉数は減り、足取りは重くなっていく。
「みんな、まだ歩けるか?」前方から英明が振り返る。
無意識に頷く者もいれば、目を合わさない者もいる。秋浩は最後尾を歩き、静かに景色を観察していた。グループを無視しているわけではない。自分の言葉が届かないことを悟っていただけだ。
食料や水に困っているわけではないが、疲労は確実に蓄積していた。身体的な疲れよりも、精神的な摩耗が大きかった。
「まあ、悪くないわね」リアが口を開く。「少なくとも、正しい方向に進んでいる感じはするわ」
秋浩は頷いたが、内心では疑念を抱いていた。静かすぎるのだ。道もなく、モンスターもいない。スライムの一匹すら現れない。もしここがRPGの世界なら、試練があるはずだ。だが今のところ、ここはマップの最も退屈な隅っこに見えた。
休憩中、彼はグループから少し離れた。呼吸を整える必要があった。携帯を取り出す。通信機能は死んでいるが、カメラとしてはまだ使える。彼は発光する花びらを持つ花を撮影し始めた。その青い輝きは、単なる植物以上のエネルギーを秘めているように見えた。回復薬か、あるいは毒か。
再び歩き出すと、日は沈み、空は深紅に染まった。その時、丘の向こうに小さな村が見えた。黒い屋根の木造家屋、灯された提灯、そして焼きたてのパンの香りが文明の到来を告げていた。
「村だ!」英明が叫び、その熱意がグループ全体に伝播した。
一行は足早に向かった。村の建築は中世を思わせ、住人たちは簡素なチュニックを着ていた。彼らは新参者に対し、脅威か珍客か測りかねるような猜疑の目を向けていた。
顔に刻まれた皺が深い、屈強な男が歩み寄ってきた。笑顔は友好的だが、その目は鋭く一行を値踏みしている。彼がこの場所の守り手であることは明白だった。
「おや、客人のようだな。随分と……妙な格好をしているが。エルフの王国から来たのか? どこから来た?」
英明はいつものように丁寧な口調で一歩前に出た。
「いいえ、私たちは東京から来た学生です。ここがどこなのか教えていただけませんか?」
男は眉を上げた。「トウキョウ? 聖なる峠の向こうか?」
「……話せば長くなります。この場所の名前は何というのですか?」
「ブリングス村だ。何もない静かな村さ。村長はこのメインストリートの突き当たり、一番大きな家に住んでいる。彼なら力になれるだろう。何しろ、あそこの娘たちはこの辺りで一番の秀才だからな。あんたたちの言う場所も知っているかもしれん」
「日本じゃないの……?」アメリアが尋ねた。
「さっきも言ったが、そんな場所は知らん」男は不機嫌そうに答え、村長への道を指し示した。
「ひとまず、村長のところへ行くしかなさそうだな」英明が全員に告げる。
一行が動き出そうとした時、秋浩は錬金術の記号が描かれ、薬草が吊るされた店の前で足を止めた。
看板は読めないが、この世界の文字を解読しようと見つめた瞬間、激しい眩暈が彼を襲った。頭を振って数秒で回復したが、彼は疑問に思った。この世界は言葉を読ませたくないのか、それとも単に眼鏡が必要なだけか。
「俺はちょっと調べてくる」彼は店を指差した。
「何をするつもりだ?」英明が眉をひそめる。
「道中で気になる植物を見かけたんだ。ここでその効能を知っているか確認したい」
英明は明らかに反対だったが、会話が終わる前に秋浩は店のドアに手をかけていた。
「面白そう! 私も見たい――」リアが駆け出そうとしたが、アメリアがその襟首を掴んで止めた。
「無茶しないで、リア」アメリアが鋭く言う。「まずは帰る方法を見つけるのが先よ。あの男みたいに勝手なことをしちゃダメ」
英明は弟を追いかけたいようだったが、アメリアの拒絶するような声を聞き、今はグループを優先すべきだと判断した。彼らは先へ進むしかなかった。
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