ある雨の日のピアニスト
夜の雨は、街の光を細かく砕いていた。
駅のホームに降り立った美咲は、傘を忘れたことに気づく。
改札を抜けると、冷たい雨粒が髪に触れ、首筋を伝った。
鞄の中には、折り畳まれた楽譜と退会届。
「これで終わり」
そう決めたはずだった。
音楽を諦める理由はいくつもあった。
オーディションに落ち続けたこと。
生活費を稼ぐために増えたアルバイトのシフト。
ピアノに触れる時間が減り、指先の感覚が鈍っていく恐怖。
「もう、いい」
そう言い聞かせながら、駅前のポスターに目が止まる。
《若手演奏家オーディション》
雨粒がポスターの端を濡らし、文字を滲ませていた。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
それでも、足は帰る方向へ動く。
曲がり角で、焙煎の香りが雨の匂いに混ざった。
視界の奥で、灯りが揺れる。
古びたレンガの壁、金色の細い文字――
『喫茶マジョルナ』
美咲は立ち止まる。
雨宿りくらい、いいだろう。
取っ手は真鍮で、冷たさが指に絡む。
カラン、と鈴が鳴った。
外の冷たさとは対照的に、店内には柔らかな温度が漂っていた。
木目のテーブル、壁の振り子時計、アンティークのランプ。
香りが、胸の奥を撫でる。
「ようこそ」
カウンターの向こうに立つ少女――ルナが、穏やかに微笑んだ。
「濡れちゃったね。タオル、使う?」
差し出された白い布に、美咲は小さく礼を言った。
窓際の席に座ると、ガラス越しに雨筋が細く伸びていた。
街灯の光が、その線を少しだけ太くする。
「何にします?」
「……おすすめで」
声はまだかすれていた。
ルナが豆を選び、グラインダーが音を立てる。
カリカリ、と乾いた音が、雨音に重なる。
湯が細い糸となって落ち、粉がふわりと膨らむ。
香りが濃くなる。
美咲は、呼吸が少しずつ整っていくのを感じた。
「お待たせしました。本日のおすすめ、雨の日ブレンド。中煎りで、やわらかな酸味と甘みが特徴です」
カップから立ち上る香りは、遠い記憶を呼び起こした。
祖母の家で聴いたピアノの音。
窓を開けると、風がカーテンを揺らし、音が柔らかく混ざり合った。
その記憶が、胸の奥でふくらむ。
「楽譜、濡れてるよ」
ルナの視線が膝の上に落ちる。
美咲は紙をそっと押さえた。
「もう、やめるつもりなの」
言葉が途切れる。雨音が間を埋める。
「理由、聞いてもいい?」
「続けても意味ない気がして。オーディションにも落ちてばかりで……」
ルナは頷かない。カウンターの木目を指でなぞりながら、静かに言った。
「やめるのも、選択だよ」
美咲は顔を上げる。
「でも、まだ音楽が好きなら、やってみる価値はあると思う」
声は軽い。押すというより、そっと置くような響きだった。
美咲はカップを見つめたまま、息を吐いた。
「……好き、やっぱり」
「なら、今夜は一曲だけ弾いてみる?」
ルナは微笑んだ。
「ここで?」
「ええ。音は、閉じ込めるものじゃないでしょ?」
誘われるままに美咲は立ち上がり、ピアノの前に座った。
鍵盤に指を置く。
震えていた指が、ゆっくりと動き出す。
最初の音は、かすれた雨のようだった。
でも、二音目、三音目――音が重なるたび、胸の奥で何かがほどけていく。
曲は、幼いころ祖母と弾いたワルツ。
窓の外、雨がガラスを叩く。
その音とピアノの音が、静かに重なった。
「……ああ、やっぱり好きだなぁ」
美咲は呟いた。
「音楽が」
ルナは微笑んだ。
「なら、まだ終わりじゃないね」
店内の時計が、短く時を告げた。
窓の外、雨は少し細くなっている。
美咲は席に戻り、カップを飲み干した。
「ありがとうございました」
「またどうぞ」
店を出ると、雨が頬を撫でた。
路地の出口まで歩きながら、美咲はスマートフォンを取り出し、オーディション情報を検索した。
指先は、もう震えていなかった。
「よし、やってみよう」
小さな決意が、雨に溶けた。
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喫茶マジョルナの小さな魔法 らーめんP @menyakanataso
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