退職祝いに甘いケーキを
天萌 愛猫
味なんて忘れてしまった
ついにこの日が来てしまったか。
背を丸めてオフィスをあとにしながら、誰にも聞こえないようにつぶやいた。
綺麗になった机。
手に携えたちいさな、申し訳程度の花束。
でも、手を振る人は誰ひとりいない。
自動ドアのうぃーん、と開く音がいやにさみしかった。
外に出ると寒い。
季節外れの退職は周囲にどう映ったのかなんて気にするべくもない。
無言の見送りが何よりの答えだ。
外側と内側を隔てる機械的な境が閉じるのをぼけっと見守ったのち、バス停へ向かう。
行く場所は決まっていた。
そう――ケーキ屋だ。
◆
仕事を辞めるときにはなにか、お祝いをすると決めていた。
一身上の都合と誤魔化した理由的にも、それがふさわしいものであったからだ。
安いことを売りにしているその店に入り、ショーケースを見る。
いちごと生クリームのショートケーキが本当はいちばん好きなのだが、隣に並んだレモンタルトと少し迷う。
梶井基次郎。
わたしと似ているのかもしれない、実際に爆ってしまえる度胸はなくアイロニックなメタファに委ねる視点が、――なんて、タイトルしか知らない浅い見識でおこがましいことを思う。
保冷剤の入った箱とにこやかなお礼を受け取り退店する。
優柔不断を体現するように、かさかさとなかよく擦れ合うフィルムたち。
バスに乗る。
散らかった家に帰る。
フォークを洗っていなかったのにいまさら気づいた。
スポンジに垂らした洗剤が切れかけている。
(明日はドラッグストアに行って、手続とかいろいろ必要なのか調べて、……それから)
考えているうちに眠たくなってきて、濡れたフォークを握りしめたまま畳のうえで目をつむる。
冬だからクリームが溶けることはないだろう。
まどろみの奥。
誰かが呼んでいるような、そんな夢を見た。
◆
そういえば暖房を家を出たとき既につけっぱなしだったのだ。
気づいてのろのろ起きるとやはり暑い。
よだれの垂れた畳を拭くべくティッシュを取りに行った。
這いつくばったついでにそばにおいた箱の中身を、ふと思い立ってそろりとうかがう。
「あはは、……あーははは」
乾いた笑い。
どろりとほんの少し型崩れして、なまぬるくなったケーキふたつ。
「あっはははははは」
やっちゃったなあ。
止まらない笑いに涙が遅れてついてくる。
しゃくり上げているとますます部屋が暗く狭く感じた。
ああ、わたしの本当に好きなケーキはいちごと生クリームのケーキだ。
他のものはそんなに食べたことがないし、特段好みでもないのだった。
ちいさなころ上に立てられたローソクへのときめき。
あまくてあまい、夢のように感じた白のなめらかさ。
箱をむしゃくしゃまぎれに破壊しそのまま皿代わりに。
(どこへ向かうのだろう。これから)
どうすればいいのだろう。
フォークを突き立ててささやく声はかすれている。
レモンタルトに載った果実は無残につぶれ生地にめり込んでいる。
「まず……」
もう遠いところへ行ってしまった。
憧れやら何やかやの、キラキラした感情なんて。
「あとで冷やして食べよ。とりあえず酒だ酒、やってらんないよこんなの」
吐き捨てて冷蔵庫に缶を取りに行く。
ボロボロになった箱を押し込んですぐに閉めた。
擦れて溶けて崩れたわたしには、――けっきょくこんな苦い発泡酒がお似合いなのだから。
(おとなになった、おいわいだ。はは)
かすれた声でおかわりを。
もう一缶開けよう。
もう一缶。
かなしいクリーミィさやスイートさなんて、すべて忘れてゲロってしまうくらいまでは。
退職祝いに甘いケーキを 天萌 愛猫 @AibyouOcat2828
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