第2話 「迷子の老人は流れの中」

その日、川縁町は朝から曇っていた。

洗濯物を出すか引っ込めるか、誰もが少し迷うような空だった。

流れマンが川沿いを歩いていると、ベンチに腰を下ろした老人が声をかけてきた。

「すまんねえ。ちょっと、困っとるんだ」

帽子はきちんとかぶっているし、服も整っている。

ただ、その目だけが、行き先を失った川のように、どこか定まっていなかった。

「家に帰りたいんだがな」


「場所が分からない?」


「うむ。分からんのだ」

言い方は穏やかで、焦りも怒りもない。

ただ「分からない」という事実だけが、そこにあった。

流れマンは名前も住所も聞かなかった。

代わりに、老人が立ち上がるときの足運びを、そっと見た。

「少し、歩いてみませんか」


「いいとも。歩くのは嫌いじゃない」

二人は並んで歩き出す。

老人はまっすぐには進まなかった。

三歩で少し左、五歩で立ち止まり、角に来ると必ず川のほうを一度見る。

「川が好きなんですか」


「若いころな、ここで仕事しとった。流れを見ると、時間が分かるんだ」

町の中ほどに来ると、老人の足取りが少しだけ軽くなった。

自転車屋の前で一瞬立ち止まり、古い電柱の横で深く息を吸う。

「ここ、よく通りました?」


「……そうだな。通っとったなあ」

流れマンは確信した。

これは記憶ではなく、体が覚えている流れだ。

やがて二人は、町外れの小さな空き地に着いた。

今は雑草が伸び、使われていないが、そこには朽ちかけた木のベンチがひとつ残っている。

老人はそこで、ぴたりと足を止めた。

「ああ……」


「思い出しました?」


「いや……家じゃない。でもな」

老人はベンチに座り、ゆっくりと空を見上げた。


「昔、家があった場所だ」

そこに家はもうない。

それでも老人の歩きは、確かにここを目指していた。

「今の家は、ここから先ですね」


「そうかもしれんな」

もう一度歩き出すと、今度は迷いがなかった。

数分後、古い平屋の前で老人は立ち止まった。

「ここだ」

玄関の引き戸は少し歪んでいて、風鈴が小さく鳴った。

「ありがとうなあ」


「いえ」


「家が分からなくなっても、足はちゃんと覚えとるもんだな」

流れマンは頷いた。

「流れは、消えませんから」

老人は笑った。


若いころの自分を、ほんの少し思い出したような笑顔だった。

帰り道、流れマンはまた川を見た。

水は同じように流れているが、同じ水は二度と戻らない。

それでも、人はちゃんと帰る。

流れの中を、遠回りしながら。

川縁町は、今日も静かだった。

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