人間性保存法

縷々

脳だけが目を覚ます

朝は、いつも同じ音から始まる。

低く、規則正しく、感情のない起動音だ。


意識が浮上するより先に、身体が起きる。

いや――正確には、身体だったものが起動する。


内部温度、正常。

出力制御、安定。

接続状態、問題なし。


確認のログが流れ終わってから、ようやく思考が追いつく。

今日も目は覚めた。

生きている、というより、動作している。


視界が開く。

天井は白い。昨日と同じ白だ。

埃一つない。義体の生活は汚れを嫌う。


指を動かす。

五本、遅延なし。

皮膚の感触は設定値どおり、やや低め。

「人間らしい温度」と呼ばれる数値。


それが誰にとって人間らしいのか、

もう十五年、考えないようにしている。


立ち上がる。

床は冷たいはずだが、そう感じることはない。

冷たさはデータとして届くだけで、身体は反応しない。


洗面台の鏡に、自分が映る。


四十手前の男。

皺はあるが、老化というより、設計通りの劣化だ。

髭は伸びない。剃る必要もない。

それでも毎朝、カミソリを持つ。

理由は説明できない。


鏡の中の男と目が合う。

向こうも同じようにこちらを見ている。

当然だ。反射なのだから。


それでも、ふと考える。


――こいつは、人間か。


答えは決まっている。

脳は生身だ。

法的にも、医学的にも、人間だ。


人間性保存法。

その言葉が、頭の奥をよぎる。


保存。

まるで、壊れやすい標本みたいだな、と思う。


玄関を出ると、都市の音がする。

車の走行音。

遠くの警告アナウンス。

通勤時間帯の足音。


駅までの道で、アンドロイドとすれ違う。

見た目ではわからない。

区別する必要もない。


彼らは視線を合わせない。

人間も、合わせない。


プラットフォームに立つと、電車が滑り込んでくる。

優先席の表示が目に入る。


「義体利用者/アンドロイド可」


誰も座っていない。


立ったまま、窓に映る自分を見る。

今度は、ガラス越しだ。

少し歪んでいる。


十五年前のことを思い出しかけて、やめる。

朝には向かない。


電車が動き出す。

都市は今日も、何事もなかったように機能している。


それが、少しだけ、怖い。


改札を抜けると、通知が入った。

業務用の回線だ。


アンドロイド一体、異常挙動を確認。

担当を要請する。


短い文面。

感情の入り込む余地はない。


息を吸う。

肺は動く。

空気は取り込まれる。


だが、胸が膨らんだという実感はない。


それでも歩き出す。

それが、今日の自分の仕事だから。


この街で、

人間と機械の境界を確認するために。

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