おめでとう

虫十無

えん

 洗面所で歯磨きをしていると鏡の下の汚れが気になった。多分汚れ、だと思う。ボールペンで書いたような円弧。書きかけでまだ半分くらいだ。上から右回りに書いていってそこまでで手を離しました、というような感じ。今気づいたからはっきりとしたことは言えないが少なくとも入居したときにはなかったはずだ。

 小さい子がいたずらでゆっくりと書いたような線。もちろん俺はそんな歳ではないし、友人たちもそうだ。友人の中には子どもがいるやつもいるが、俺が一人暮らしをしていて掃除が行き届いているとは言えないこの部屋に連れてきたことはない。そもそも最近は忙しくて友人たちと集まることはないし必然的に家に呼ぶこともないからこれが誰かのいたずらだったとしても随分前に書かれてそれっきりということになる。それならなんで今まで気づかなかったのかという話になってくる。


 そう思っていたのに、いつの間にか四分の三くらいまで書き足されている。毎日真剣に見ていたわけじゃないからいつの間にこんなに書かれていたのかわからない。でも歯磨きするときなんんかにぼんやり視界に入る位置ではあるのにここまで気づかなかったんだからもしかしたら毎日気づかないくらいずつ書き足されていて、差が大きくなった今気づいたということかもしれない。それにしたっていつの間にこんなに進んでいたんだろう。まあ俺は昔から探しているものは目の前にあるときに一番気づけなかったから、今回だって見ているようで見ていなかったんだろう。

 線は多少震えているけれど綺麗な円になろうとしている。これが自然現象のわけがない。ここは俺の一人暮らしのアパートで、俺が知らない内に誰かが出入りすることはないはずだ。そして最近は俺以外誰も入っていないはずで、この線が自然現象ではないのなら書いた可能性が一番高いのは俺自身だ。けれどもちろん俺には心当たりがない。ふと俺が夢遊病なら、と思いつく。それなら俺の意識がないうちに俺が書いているということもあるのかもしれない。病院に行ってみようか、どこに行けばいいんだろうと調べてみる。それで出てきた情報に、同居人がいればそちらに聞き取りになるがそうではない場合大きな病院で入院が必要になるとか書いてある。一日病院に行くくらいならがんばれば時間をひねり出せるかもしれないけれど、入院までしている暇はない。それと一緒に足の怪我とか行動の痕跡があるという情報もあった。行動の痕跡と言えるものは洗面所の線しかない。足の怪我もなければトイレを間違えたような形跡もない。夢遊病だとしたらなんでそんなことをしているのだろう、なんでそんなことしかしてないんだろう。とりあえず夢遊病は違うだろうということにしておく。


「おめでとう」

 人混みの中声をかけられる。その人はすぐに人混みに紛れて見えなくなる。どんな人だったかも記憶に残っていない。ただその人が満面の笑みなのだけはわかった。

 その日からほとんど毎日声をかけられるようになった。おめでとう、と満面の笑みで言われる。いつだって人混みの中だから誰が言ったかなんてことはわからない。そんなに祝われるような心当たりはないしそもそもおそらく知らない人だから余計に意味がわからない。最初は一日に一回くらいの頻度だったから数を数えていた。けれど段々と回数は増えていって、一日に十回二十回言われるようになるともう数えられない。心当たりはないのに繰り返されるなら俺に言ってきているんだろうとしか思えない。でもやっぱり俺に言っているはずがない。それでもやっぱり満面の笑みは自分に向いている。おめでとうという言葉と笑みだけが記憶に残っている。それを言ってきた人の性別年齢服装顔髪声全てがわからないのに言葉と笑みだけはこちらに入ってくる。

 もう聞きたくない。けれど外に出ないわけにはいかない。仕事だってあるし通勤の時点で人混みを通らないなんてことは不可能だ。だから仕方なく外に出て、聞きたくない言葉を聞く。もし知り合いに心当たりのあるおめでとうを言われたとしても今ならキレてしまうかもしれない。そのくらい聞きたくないものになっている。

 そんなある日、多分出勤途中気づいたら周囲を人に囲まれていた。全員が俺の方を見ている。全員が手を繋いでいる。手を繋いで俺を囲んでいる。その顔を見たくない。その顔は当然満面の笑みだ。おめでとう、全員が言ってくる。同時に言っているようには見えないのになぜか一つの声として耳に入ってくる。おめでとう、おめでとうと、繰り返される。何度も何度も、繰り返される。俺はもう聞きたくない。耳を塞いでしゃがみ込んでしまう。聞きたくない。それでも完全に遮音できるわけじゃないから声は入ってくる。おめでとう、おめでとう、まだ繰り返されている。おめでとう、おめでとう、頭の中に周りの人たちの姿が浮かぶ。おめでとう、おめでとう、手を繋いで円になっている。あの円と同じだ。おめでとう、おめでとう、あの洗面所の鏡の下の円だ。

 そういえばおめでとうと言われるようになったあたりで円弧が閉じて円になったことに気づいたな、と思い出す。おめでとう、その声は心の底から俺が幸運だと思っているらしかった。

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