第4話 エレンの過去②

あれから数年経ちエレンは王国へ住処を移した。


王国の朝は、甘ったるい花の香りと、女たちの華やかな笑い声から始まる。


この世界において、男は『愛でるべき存在』だ。


彼らは幼い頃から肌を焼かぬよう、傷を負わぬよ

う、宝石のように大切に扱われ育てられる。


街を行き交う男たちは皆、白く細い指先を持ち、女に守られることを当然の権利として享受し、艶やかな服に身を包んで微笑んでいる。


それが、エレンにとっての『吐き気のする日常』だった。


 王国の冒険者予備校。訓練場の隅で、エレンは一人、ボロボロの木刀を振り抜いていた。


 シュッ、と空を切る音が、周囲の少女たちの黄色い声にかき消される。


「ねぇ、昨日の夜に貴族の男の子がそこを歩いててさ、見た? まつ毛が長くて、まるでお人形さんみたいだったわ!」


「私は線の細い子が好みかな。守ってあげなきゃ、って思わせるような。保護欲をかきたてる」


 少女たちの会話は、常に『いかに男を捕まえ、所有し、愛でるか』に終始している。


それだけ冒険者予備校出身の冒険者というのは

男からすると魅力的なのである。故に入学が相当難しい。だが、多くはコネで入学する。


そこにエレンは血反吐を吐くような努力をして入学を果たした。


彼女らにとって、剣を振るうことは『男という至宝』を手に入れるための手段でしかない。


(くだらない。……本当に、反吐が出る)


エレンは、死ぬ気で何度も木刀を振り切った。


彼女の脳裏には、いつも一人の男、エルフレッドがいる。


 あの日、辺境の村で、血と泥にまみれながら魔狼の顎を盾で叩き割った、あの

 

 古傷だらけの顔。日焼けして鉄のように硬い肌。女たちの誰よりも分厚い胸板と、丸太のように逞しい腕。圧倒的な力。


 世間が尊ぶ『線の細い美少年』とは対極に位置する、泥臭く、凛々しく、そして暴力的なまでに『強い』男。


 エレンの魂は、あの日、その無骨な右手に触れられた瞬間に、別の世界の住人になってしまったのだ。端的に言えば脳が焼かれてしまった。


「……足腰が浮いている。そんな構えじゃ、自分より重い相手の振り下ろしは受け止められない」


 その声が聞こえた瞬間、訓練場の喧騒が、エレンの耳から完全に消え失せた。


こんな吐き気のする日常でも至高と言える時間が存在する。


それは

 

「せ……先輩……っ!」


 振り返れば、そこにはラフな軽装のエルフレッドが立っていた。


王国の一般的な男の華美な服など着ていない。

そこには戦場での酷使を物語る、手入れの行き届いた革鎧と大盾


 頬を走る古傷が、夕陽を浴びて鈍く光る。彼は、周囲の少女たちが「エルフレッド様よ!」

「エルフレッド様...傷がなければなぁ」といった会話をしだす。


だが、エレンには、その傷跡の一つひとつが、どんなものよりも尊く、愛おしく見えた。


「ギルドの依頼のついでだ。……相変わらず、良い言い方をすれば頑張っているが...正直に言えば無茶な稽古をしているな」

 

 エルフレッドは、感心しないぞといった表情で歩み寄ってきた。


 彼が近づくたびに、予備校の少女たちは眉をひそめるどころか、その場に跪かんばかりの熱狂と、畏怖の混じった視線を送る


 エレンは殺意に近い怒りを覚えた。

貴様らのような、男を愛玩動物としか思っていない連中に、この人の高潔さが分かってたまるか。


「先輩、私……もっと、もっと強くなりたいんです。先輩があの時守ってくれたみたいに、絶対に折れない剣になりたいんです!」


 エレンの叫びに、エルフレッドは少しだけ、悲しそうに目を細めた。

 

「……俺のようになる必要はないと言ったはずだ。エレン、お前は美人だ。本当なら、誰かいい男を捕まえて、平穏に暮らす権利がある。無理に俺のようになる必要はない。」


まるでこの世界の苦痛を一身に受け止める覚悟があるかのように言う。誰も巻き込まないように。


「そんなの、いりません! 私は、そんな幸せなんて……!」


エルフレッドは『お前まで傷つく必要なんてないんだがな...』と聞こえないよう呟くと


「……頑固な奴だな。どれ、少し見てやる」


 エルフレッドは、エレンの言葉を流すように、エレンの後ろへ周り、手を包むよう剣を握る

 

 その身体。匂い。温かさ。それを感じる度に

エレンはあの時を思い出す。必ずしもいい思い出ではない、だがエレフレッドがその全てを塗りつぶしてくれる。そんな気持ちになる。


 猛々しく浮き出た血管。無数の小傷。そして、握りしめられた木刀が悲鳴を上げるほどの、圧倒的な掌握力。

 

「いいか、剣を持つ腕は、こうだ。腕は単なる棒じゃない。大地と繋がる根だ。……そして、腕だけでなく体全体を使うんだ。剣を離したら死ぬと思え、戦場での武器は命だ」

 

 背中に密着する、岩盤のような胸板。


 ゴツゴツとした、硬く大きな手が、エレンの手を上から包み込む。

 

 熱い。

 

 この世界の『男』からは決して感じることのできない、猛々しく、焦げ付くようなあの時と変わらない生命の熱量。


 エルフレッドが教える動作一つひとつが、エレンの神経を、そして魂を侵食していく。


(ああ……。この無骨な手が、私の頭を撫でてくれた……。この傷だらけの身体が、私を絶望から救ってくれたんだ……)


エレンの心の中に、暗い悦びが広がっていく。


憧れ。それはやがて、救世主への信仰となり、そして『依存』という名の病へと変質していく。

 

「……先輩、痛いです」


「おっと、すまん。つい力が入りすぎたな」


 エルフレッドは慌てて手を離し、ははは、と照れ臭そうに笑いながら、エレンの頭をわしわしと乱暴に撫でた。


エレンはそれを一切の抵抗なく受け入れる、エレンにとってそれは心の在処であったからだ。


 その『右手』が、いつか動かなくなる日が来るなんて。


 エルフレッド自身、夢にも思っていないだろう。


 彼は強い。誰よりも強く、凛々しく、そして誰よりも『自分という存在の価値』に無頓着だった。それが英雄の最もたる証明であるかのように


「先輩は……自分がどれほど大切か分かっていないんです」


「……ん? 何か言ったか?」


「いえ、何でもありません。……先輩、これからも様子を見に来てくれますか?」


「ああ。暇を見つけてな。だが、あまり無理をして体を壊すなよ。お前が倒れたら、俺が悲しむ。適度に休むんだぞ。...それじゃあな」


 エルフレッドは、無自覚にそんな甘い呪いを吐き捨てて、去っていった。

 

 エレンは、彼が去った後の静寂の中で、自分を撫でてくれた手の感触を、エルフレッドの熱を、

ずっと確かめていた。

 

(先輩が、悲しむ……)

 

 その言葉が、エレンの胸の奥底で、暗い気持ちの炎に油を注いだ。


(その言葉を、あなた自身が一番守れていないことを、私は知っている。守るつもりがないことも。)


少し俯きながら言う

「私が悲しむと言ったら」


そして頭を上げてエルフレッドの背中を見ながら

「あなたは止まってくれるんですかね」

と、言葉をこぼす。



━━━その言葉は彼に届かないと知りながら



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