第三章 祭りの灯の向こうに 第三話 [第三章最終話]

※R15相当:本作品には、性的接触および暴力的な回想を含みます。

直接的な描写ではなく、情感と心理を中心に構成されています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


シーン03-05 夜をつなぐ声


文化祭が終わって、こうして机に向かっても、

まだ心臓の鼓動は速いままだった。

あの日の和代の顔も、三姉妹の笑い声も、

何度も頭の中に蘇る。


嬉しさとじれったさ、期待と不安。

どれが本当の気持ちなのか、

自分でもまだ答えが出せない。


ただひとつ確かなのは――

忘れられない一日になったということだった。


文化祭の喧噪が、耳の奥でまだ薄く鳴っていた。

机に教科書を広げたものの、

文字はどれも水に滲んだように形を結ばず、

指先に残る紙の感触だけが現実をつないでいた。


その時、電話が鳴った。

母が明るい声で応答し、すぐに僕を呼ぶ。


「久しぶりやなあ、佐波さんからやで」


微笑む母から受話器を受け取ると、

少し間を置いて、控えめな声が届いた。


「……内川くん?」

「佐波さん?」


今さら必要もないのに、

お互いを確認し合った。


「うん。今日は案内してくれてありがとう。

お母さんも楽しかったって言うてた」


「こっちこそ、会えて嬉しかった」


受話器越しの息遣いが、

少しだけ近く感じられた。

この電話線に流れない数多くの言葉が、

両側で浮かんでは消えていた。


それは、言いたかったこと。

言わなければならなかったこと。

ずっと前に言えててもよかったことだった。


和代は取り繕うように、

昼間と同じ話題を口にした。


「それとな、同窓会の件な。

戸高くんと杉田さんに、

近いうち会うことになりそうやねん。

日程がまとまったら、また電話するな。

……大丈夫?」


「いつでもええよ。待ってる」


僕も同じことを繰り返していた。

自分の声が思ったより柔らかく響いて、

少しだけ照れくさかった。


「なあ、佐波さん」

「何?」


「……制服、似合てたで」


「何回も言われたら恥ずかしいやん」


その笑いの余韻が途切れ、

声が一瞬だけ固くなった。


「なあ、内川くんも……

あんなふうにナンパするん?」


「えっ?」


僕には何のことか分からなかった。

けれど和代は、思い出したように元の調子に戻り、

短く結んだ。


「なんでもないねん。

ほな、今日はもう遅いし……

また連絡するな」


「うん。おやすみ」

「おやすみ、内川くん」


通話が切れたあと、目を閉じる。

紺の生地に縫い込まれた赤糸の校章が、

光の粒みたいに浮かび上がった。

あの写真と重なるように。


胸の奥に、小さな温かさがひとつ、

静かに居場所を作っていた。


――その温かさは、

これから僕をどこへ連れていくのだろう。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


シーン03-06 教室の嘲笑 ― 祭りの後に ―


代休を挟んで登校すると、

教室の黒板に落書きがあった。


クラスの全員が、

ニヤニヤと僕を見ている。


スポーツ新聞のような見出しが、

チョークで大きく踊っていた。


「内川タイガース、

津崎ジャイアンツを3タテ!」


津崎――

校内でも評判の遊び人だった。


見かけが良ければ誰にでも声をかけ、

中学生から母親世代まで手を広げている――

そんな噂まであった。


今回は招待できる子がいなかったらしく、

文化祭の場内では、

手当たり次第に声をかけていたらしい。


聞けば、

僕に絡む場面が三つあったという。


ひとつめ。


香織が少し遅れて歩いていたところに、

津崎が声をかけた。


けれど、香織は軽くあしらい、

僕の腕を取って歩みを早めた。


ふたつめ。


軽音楽部の演奏のとき、

沙織と詩織が並んでいたところに

津崎が近づいた。


二人は振り向きもせず戻ってきて、

沙織は僕の腕を掴み、

詩織は首に腕を回してじゃれてきた。


みっつめ。


写真部の展示室――

A学院の美少女に津崎が声をかけたが、

彼女は軽く手を振って避け、

そのまま僕の方へ駆け寄ってきた。


もちろん、

和代だった。


こうして僕は、

今年の文化祭での

「武勇伝」の筆頭になっていた。


笑い声の中には、

羨望や茶化し、

それにほんの少しの

好奇の視線が混じっていた。


僕は笑い返すこともできず、

ただ静かに席についた。


何が本当で、

何が噂なのか。


それを説明する言葉を、

僕は持たなかった。


ただ、黒板に残る白い文字だけが――

昨日までの光を、

あっけなく台無しにしていた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


シーン03-07 正也 ― 選べない選択


沙織さんみたいな綺麗な人と一緒に過ごせるのは、

ほんまに幸せやった。


でも――僕は、

なんにも決めてへんし、

なんにも選べてない。


沙織さんみたいな人とこうなるんやったら、

最初から僕がもっと求めてて、

その気持ちを伝えようと、

足掻いて、泥だらけになって、

汗だらけになって、

それでも頑張らなあかんはずやのに――

気がついたら、こうなってた。


クラスのふざけたやつやったら、

きっと言うやろう。


「内川、お前、何文句言うてんねん。

やり放題で羨ましいわ」


……そう思うと、

なんか気が重くなる。


違うねん。


順番も、気持ちも、

何もかも――おかしいねん。


沙織さんのことは、

昭彦のお姉さんで、優しいし、綺麗やし。


微笑まれたら、

そらもうポーっとなってまう。


せやけど、

自分から“欲しい”とは思えんかった。


そんな時に、

佐波さんと再会してしもた。


久しぶりで、

懐かしい以上に――

この子が好きやったっていう気持ちが、

蘇ってきた。


何よりも、

佐波さんは――

僕にとって“等身大”の相手やった。


男子校に入って、

すっかり“同級生の女の子”って存在から

離れてた。


せやから、

久しぶりに同い年の女の子と並んでも、

あの気恥ずかしさを――

もう忘れてしもてた。


でも、佐波さんと話してたら、

その忘れてた感覚が、

少しずつ戻ってきた。


何でもない会話やのに、

息の仕方までぎこちなくなる。


沙織さんとおる時の

静かな温もりとは、また違う。


佐波さんとは、

目の高さが同じで、

見える景色の色も、匂いも、

風の強さも、

全部一緒に感じられる。


沙織さんの優しさは、

包まれるような温もりやった。


でも――

佐波さんの笑顔は、

隣で同じ空気を吸える優しさやった。


どっちが正しいとか、

どっちが大事とかやない。


ただ、

僕の中で“何か”が動き出した。


もしかしたら、

やっと――

自分の足で立てるようになったんかもしれん。


せやけど――

佐波さんを選ぶ前に、

せなあかんことがある。


そのことだけでも気が重いのに、

最近は詩織さんの距離が、

やけに近い。


僕が選んだわけやない。


けど、

今こうなってるのは、

どこかで自分が

“選んでしもた”からかもしれん。


どこにも、

動かれへん。


今日一日、

何をした?


……何もしてへん。

ただ、息してただけやった。



――そんな暇あったら、

ちゃんと選んだらええねん。


そんなことしたら、

誰か傷つくねん。

そんなことできひん。


――できひんのと違うやろ。

お前、逃げてんねん。


自分が悪もんになりとうのうて、

じっとしてたら、

今そばにおる誰かが

決めてくれたらええと

思てるだけや。


そしたら、

代わってや。


――お前、失敗するで。

転んで、

みんな巻き込んで、

どこまでも落ちてまうで。


僕だけ落ちたらええやん。


……おい!

なんか言えや!


文句でも煽りでもええから、

なんか言うてくれや!



返ってきたのは、

よそよそしい

自分の心臓の鼓動だけだった。


……答えはなく、

ただ意識も、何もかもが

――闇に沈んでいった。



【第三章 了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

橙の風、彼岸の赤 奈川真沙也 @masa85_yamato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ