【ダム崩落の危機】「数値は正常だ!老害は消えろ」私の聴診点検を嘲笑したエリート監査官。だが数時間後、鼓膜を破って濁流を止めた私に、彼が泥水に土下座して詫び続けた理由。

@idolmv

【ダム崩落の危機】「数値は正常だ!老害は消えろ」私の聴診点検を嘲笑したエリート監査官。だが数時間後、鼓膜を破って濁流を止めた私に、彼が泥水に土下座して詫び続けた理由。

コンクリートは、ただの塊ではない。記憶を吸って生きている巨大な墓標だ。

私は四十五年間、この冷たい壁に耳を押し当ててきた。だから分かる。奴らは呼吸し、膨張し、そして時に……泣くのだと。

私が管理する奥長門ダムは、戦後の貧しい時代、重機も満足になかった頃に男たちが命を削って積み上げた遺産だ。

堤体(ていたい)の高さは八十メートル。その真下には、三千人が暮らす小さな集落が広がっている。

春には桜が川面を埋め、夏には無数の蛍が舞う。

「ゲンゾウさん、見て。村の灯りが、まるで蛍みたい」

三十年前に病で逝った妻・フミコは、このダムの天端(てんば)から村を見下ろすのが何より好きだった。

貧しくて旅行など連れて行けなかった私にとって、この景色を彼女と並んで見ることだけが、唯一の贅沢だった。

彼女が愛したあの温かい灯りを、冷たい泥水で塗りつぶすわけにはいかない。

私の仕事は、管理ではない。「妻の愛した景色」の死守。ただそれだけだ。

「おい、爺さん。またその汚い棒で遊んでるのか」

湿った監査廊の静寂を切り裂いたのは、氷のように冷たい若い男の声だった。

サカキ。本省から送り込まれてきた、二十代のエリート監査官だ。

仕立ての良いスーツに、現場には不似合いな革靴。手には最新鋭の解析タブレットが握られている。

私は無視して、愛用の聴診棒を壁に押し当てた。

目を閉じ、呼吸を止める。

壁の奥、数メートル先。水が微細な隙間を探して蠢く音。鉄筋が水圧に耐えかねて軋む音。

それらは、まるで老人のうめき声のように聞こえる。

「聞いてるのか? 本省への報告期限は今日なんだ。あんたのその古臭い『おまじない』に付き合ってる暇はない」

サカキが私の背後で舌打ちをした。

カツ、カツ、と響く革靴の音が、私の集中力を削ぐ。私はゆっくりと聴診棒を離し、彼を振り返った。

「サカキさん。ここだ。第七ブロック、継ぎ目の右下。……音が、泣いている」

私は壁の一点を指差した。見た目には何の変化もない、ただの黒ずんだコンクリートだ。

だが、私の耳には聞こえていた。

いつもの低い唸りではない。まるで、ガラスにひびが入る瞬間に似た、鋭く、高い悲鳴(キーン)という音が。

サカキは鼻で笑った。

「はあ? あんた、ボケてんのか? 見ろよこれ」

彼はタブレットの画面を突きつけた。

そこには、ダム全体に埋め込まれた数百個のセンサーから送られるデータが表示されている。

全ての数値は鮮やかなグリーン。『正常』を示していた。

「歪み計、漏水量、揚圧力。すべて正常値だ。AIの劣化予測でも、この壁の寿命はあと五十年はある。あんたの腐った耳と、最新の科学データ。どっちが正しいかなんて、議論するまでもないだろう」

彼は軽蔑の眼差しで私を見下ろした。その目には、単なる傲慢さとは違う、何か深い憎しみのような色が混じっていた。

「俺はね、あんたみたいな『職人気取り』が一番嫌いなんだ。俺の親父もそうだった。『機械には分からん』『手作業が一番だ』と言って設備投資を拒み、結局、過労で倒れて死んだ。……家族に借金だけを残してな」

サカキの声が震えていた。

「感情や勘で仕事をする人間は、周りを不幸にするんだよ。確実なのはデータだけだ。非効率な人間は排除されるべきなんだ!」

彼はそう吐き捨てると、私を置き去りにして出口へと歩き去った。

私は言い返すことができなかった。彼の背中に、かつての自分を見た気がしたからだ。私もまた、フミコの最期を看取ることなく、現場に立ち続けてしまった男だったからだ。

だが、壁に当てた掌は感じていた。

冷たいコンクリートの奥で、何かが確実に、決定的に壊れようとしている振動を。

その予感が現実となったのは、日付が変わる頃だった。

予報になかった線状降水帯が、牙を剥いたのだ。

管理所の窓を叩く雨は、雨粒ではなく「水の塊」だった。

電話が鳴り止まない。上流からの流入量は、過去四十年の記録をたった数時間で塗り替えた。

「流入量、毎秒一千トン! まだ増えます!」

若手職員の悲鳴が飛ぶ。

私はモニターを睨みつけた。貯水位を示すグラフが、垂直に近い角度で跳ね上がっていく。

ダムが、悲鳴を上げている。あの第七ブロックが。

「サカキはどこだ!」

「さ、先ほど、現場データを確認すると言って、堤体の方へ…!」

馬鹿野郎。

あいつは、数字の向こうにある「殺意」を知らない。

私はヘルメットを掴み、暴風雨の中へ飛び出した。

外は、轟音の世界だった。

普段は穏やかな湖面が、黒い悪魔のように波打ち、コンクリートの壁を乗り越えようと暴れている。

投光器の光が雨を切り裂く中、私は堤頂通路にうずくまる人影を見つけた。

サカキだ。彼は傘もささず、ずぶ濡れになりながらタブレットを操作していた。その指は震え、画面の上で空回りをしている。

「何をしている! 戻れ!」

私が肩を掴むと、彼は弾かれたように振り返った。

その顔は、恐怖で歪み、涙でぐしゃぐしゃだった。

「じ、爺さん…! データがおかしいんだ! 数値は『余裕あり』なのに、もうそこまで水が来ている! なんでだ! 親父も俺も正しかったはずなのに、なんで機械(あいつら)は嘘をつくんだ!」

「センサーの取水口が流木で詰まったんだ! 機械は嘘をつかない、だが『想定外』には対応できない! 自分の目で見ろ!」

その時だった。

ズズズン……

地鳴りのような音が、足元から伝わってきた。

音ではない。ダム全体が身震いをしたのだ。

私の脳裏に、昼間の「あの高い音」が蘇る。第七ブロック。継ぎ目の右下。

「走れ! 監査廊へ行くぞ!」

「は? こんな時に中に入ったら死ぬぞ!」

「ここで決壊したら、下の村は全滅だ! フミコの…いや、お前の家族のような犠牲者を出すつもりか! ついて来い!」

私はサカキの腕を強引に引きずり、エレベーター塔へ飛び込んだ。

地下深部。厚いコンクリートに囲まれた監査廊は、不気味なほど静かだった。

だが、第七ブロックへ近づいた瞬間、その静寂は破られた。

キィィィィン!!

耳をつんざくような高周波音と共に、私が指摘した場所から、高圧の水流が槍のように噴き出していた。

指ほどの太さの亀裂が、水圧でみるみる広がっていく。反対側の壁が削られ、轟音を立てている。

「ひっ…!」

サカキが腰を抜かして泥水の中に座り込んだ。

「な、なんだこれ…! 歪み計は正常だったはずだ! ありえない、ありえない!」

「逃げるなサカキ! データなんて捨てろ! 今目の前にあるのが現実だ!」

私は叫びながら、資材置き場から緊急用の止水プラグと、大きなハンマーを引きずり出した。

水圧は凄まじい。このままでは、数分で亀裂がつながり、壁ごと吹き飛ぶ。

「サカキ、ハンマーを持て!」

「む、無理だ! こんな勢いの水、止められるわけがない!」

「やるんだよ! お前が憎んだ親父さんのように、泥にまみれてやるんだ! 守りたいものがあるなら、手を汚せ!」

私は噴き出す水流に真正面から向かっていった。

冷たいなどという次元ではない。氷の刃物で全身を切り刻まれるような衝撃。

呼吸ができない。水圧で肋骨がきしむ。

私は亀裂の中心にプラグを押し当てた。だが、水の勢いが強すぎて押し戻される。

力が足りない。

老いた私の腕では、この「自然の暴力」を抑え込めないのか。

(…あなた、頑張って)

ふと、轟音の向こうから、懐かしい声が聞こえた気がした。

フミコ。

そうだ。これはお前の愛した景色だ。

あそこで眠る人々の暮らしだ。

私は覚悟を決めた。

私は体を捻り、自分の「右耳」を、噴き出す水流とプラグの間に押し付けるようにして、全体重を乗せた。

バチィッ!

鼓膜が破れる音が、体の中で響いた。

激痛が脳髄を走る。

だが、その痛みのおかげで、プラグがわずかに止まった。

「今だサカキ! 叩けぇぇぇ!」

私の鬼気迫る怒号に、サカキが弾かれたように立ち上がった。

彼は震える手でハンマーを振り上げた。

一撃。ガギンッ!

火花が散る。プラグがわずかに食い込む。

「くそっ! くそぉぉぉ!」

彼は泣き叫びながら、ハンマーを振り下ろし続けた。

綺麗なスーツは泥と油で見る影もない。

エリートの仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、必死に命を守ろうとする一人の「男」がいた。

水しぶきが彼の顔を打ち、私の右耳からは、水とは違う生温かい液体が流れ出していた。

もう、右側の音は聞こえない。

だが、左耳に響くハンマーのリズムが、かつてダムを造った職人たちの掛け声のように、力強く聞こえた。

叩け。叩け。叩け。

その一撃が、誰かの朝を守るのだ。

何十回、何百回叩いたか分からない。

やがて、狂ったような水流が弱まり、チョロチョロという音に変わった時。

私たちはその場に崩れ落ちた。

速乾モルタルで固め終わる頃には、私の意識は朦朧としていた。

世界が半分、静かになっていた。

これが代償か。

悪くない。フミコとの約束を守れたのだから。

地上に戻ると、嵐は過ぎ去っていた。

東の空が白み始めている。

私たちは泥だらけのまま、手すりに寄りかかって村を見下ろした。

朝霧の中、家々の屋根が無傷で浮かんでいる。

早起きの家の煙突から、煙が上がっているのが見えた。

誰一人の命も奪われることなく、いつもの朝が始まろうとしていた。

私は震える手で煙草を取り出そうとしたが、指が動かず落としてしまった。

それを拾い上げたのは、サカキだった。

彼は自分のハンカチで丁寧に泥を拭うと、私の口にくわえさせ、火をつけた。

「……爺さん」

サカキの声は、私の左側に回ってから発せられた。

彼は気づいたのだ。私が右耳から血を流していることに。

彼は私の正面に立つと、泥水で汚れた革靴など気にする様子もなく、深く、長く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

その背中が小刻みに震えている。

「俺は…怖かったんです。親父みたいに惨めに死ぬのが怖くて、数字という安全地帯に逃げていただけでした。でも、あなたは逃げなかった。自分の身を削って…」

彼は顔を上げ、涙で滲んだ目で私を見た。

「あなたの耳が…俺のせいで…」

私は煙草の煙をゆっくりと吐き出し、何も言わず、ただ彼の肩をポンと叩いた。

言葉はいらない。

泥にまみれた彼の手は、昨日までの白く綺麗な手よりも、ずっと美しかったからだ。

「……半分になった分、よく聞こえるさ」

私が独りごちると、サカキは顔をくしゃくしゃにして泣いた。

子供のように、声を上げて泣いた。

私はただ、眼下の村を眺めていた。

朝日に照らされた川面が、フミコの笑顔のようにきらめいていた。

数ヶ月後。

私は定年を迎え、このダムを去る日が来た。

荷物をまとめ、最後に監査廊へ降りると、そこには先客がいた。

サカキだ。

彼はもう、あの仕立ての良いスーツは着ていない。

薄汚れた作業着に身を包み、ヘルメットには無数の傷がついている。

そしてその手には、自腹で買った真新しい聴診棒が握られていた。

彼は私に気づくと、照れくさそうに笑った。

「音が違うんです、ゲンゾウさん。昨日は低かったのに、今日は少し高い音がする」

私は彼に歩み寄り、その聴診棒を受け取って壁に当てた。

残った左耳で、じっと聞く。

確かに、微かだが乾いた音がする。

「ほう、分かるようになったか。だがまだまだ甘いな。これは異常音じゃない。コンクリートが朝日に温められて、気持ちよく背伸びをしている音だ」

「背伸び、ですか。……ふふ、なるほど」

サカキは嬉しそうに頷き、聴診棒を受け取った。

その手つきは、まだ不器用だが、確かな敬意と愛情がこもっていた。

彼は、私の聴診棒の柄を、愛おしそうに撫でた。

「ゲンゾウさん。ここは俺が守ります。データも、この棒も、そしてあなたの『魂』も引き継いで」

「ああ、頼んだぞ」

私は短く答え、出口へと向かった。

振り返ることはしなかった。

背後から、コン、コン、と壁を叩く音が聞こえる。

そのリズムは、あの日、私たちが命を懸けて刻んだ音と同じだった。

コンクリートは生きている。

そして、その声を聞く者がいる限り、フミコの愛した灯りは消えないだろう。

私は空を見上げた。

右耳の静寂の中に、懐かしい妻の声がした気がした。

「お疲れ様。……やっと、ゆっくり話せるね」

私は深く息を吸い込み、ダムを後にした。

足取りは、来た時よりもずっと軽かった。

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